第十章「最悪」

■闘いの日々

 

失意の東京からフェリーに乗り、一晩寝て起きたら、そこは瀬戸内海の西の端。遠くに見覚えのある橋が見えた。山口県の下関と福岡県の門司を結ぶ関門海峡だ。

朝6時頃、船の真上を関門海峡が通り過ぎ、いよいよ九州へ帰ってきたのを実感した。帰ってきたのだ。空には暗雲が垂れ下がっている。俺の今後の人生を予兆するように。

が、意外なことに、心の底からホンの少しだが、闘争心のようなものが湧いてきた。

「これから戦いが始まる。覚悟はイイか。栢野!」

 

■7社目の就職活動

 

小倉の港に着いたが、なぜか昔住んでいた家が見たくなってバイクを走らせた。最初に訪れたのは、父の転勤で福岡から転向し、高校1年の夏から高校2年の秋まで住んだ、小倉北区足立山の麓にあった銀行社宅の一戸建て。次に、父が亡くなったので社宅には住めなくなり、母子家庭として引っ越した近所のマンションへ。
15歳から18歳までの小倉西高校で過ごした3年間、そこには確かな思春期があった。高校への不正裏口入学(親が試験監督を買収)、親との確執、まりちゃんとの淡い恋、田村らとの友情、父の死、母子家庭、私の母弟への家庭内暴君。
孤独だが楽しかった受験勉強、立命館大学への合格、故郷と親からの旅立ち・・・。甘酸っぱい青春時代が走馬燈のように甦る。

その後、山口県下関市丸山町にあった、小学校3年と4年を過ごした銀行社宅の一戸建てにもバイクを飛ばした。35歳の父が下関支店長をした頃だ。しかし、社宅はもう廃墟になっていた。社宅の隣には、昔、可愛がってもらったおばちゃんの家があった。
こうして小学生から現在まで、人生のシーンを振り返りながら博多へ一気に走った。実家である西新のマンションには誰もいなかった。今回の借金事件を巡り、母と私の関係は険悪になっていたのだが、そのあたりを父の元同僚の平川さんが考慮してくれたのだろう。母は平川さん宅にお手伝いとして住み込んでいて、家は私一人が住むことになった。

余談だが、帰郷して数日後、私は生まれて初めてお見合いをした。これも平川さんの紹介だったが、相手は小さな紙袋メーカー社長の娘さん。結婚=跡取り息子としてどうかと。自分にとっては良い娘だったが、騒動で結婚どころではないと遠回しに断った。
借金問題もあるが、日々の糧も得ねばならぬ。まずは仕事だ。東京で独立はしていたが食えなかったし、福岡でもう一度サラリーマンとして出直すしかない。
求人雑誌や西日本新聞を見ながら、人材銀行にも登録。カウンセラーから、小倉本社で地場トップクラスの印刷会社・ワタナベプリンティングセンターはどうかと紹介され、福岡支店長の面接を受けた。
年商40億で社員約150名。支店長の年齢は俺より2つ下。社長の息子で次期社長だろう。俺を挑発するようでウマは合いそうになかったが、意外に話はトントン拍子に進み、合格の連絡が来た。最後に健康診断を受けるようにと。
過去の挫折は意外に関係なかった。というか、ヤマハをノイローゼで辞めたとか、リクルート人材センターは実はバイトの契約社員で正社員試験は落ちたとか、リース会社もノイローゼで辞めた、起業もうまく行かなかったとか、そういう「マイナスの真実」は話さなかった。借金を抱えてUターンせざるを得なかった話はしたが。
職歴で唯一、自分でも成功体験と思うリクルート時代の、求人広告新規開拓営業の実績自慢が効いたのか。また、立命館大学とかヤマハ、リクルート。そういう学歴や職歴での知名度が、田舎の福岡ではまだまだ通用したのか。はたまた、地方の中小企業に中途採用で応募してくる人材では、俺程度の転職歴は普通なのか。合格通知は意外だった。
こうしてとりあえず印刷会社の営業マンに決まったが、自分の中ではしっくりこないところもあった。俺の過去の小さな栄光は広告営業。自分の中では印刷業は広告業の格下というイメージがあった。俺の職業に関する差別意識は根強かった。

 

●広告代理店への潜り込みに成功

 

そんな時、地場経済誌「ふくおか経済」で、地元広告代理店がダイヤモンドビッグ社の代理店として、大学新卒向けの就職情報誌を発行したとの記事を見た。求人雑誌の広告営業なら俺にも出きる。帝国データバンクで調べてみると、その「アド通信社」は年商40億で社員110名、財務内容も優良で業界地場トップクラスとある。
電話をして、就職情報誌をもらいにアド通信社へ行った。どんな会社かを調べ、中途入社の可能性を探るためだ。新規開拓の営業経験があるからか、知らない会社への訪問もまったく平気。営業経験はこんな時にも役立った。
出てきたのは情報誌責任者の中村さん。年齢は俺と同じ位か。
「実はこれこれこういう事情で福岡に戻ってきて、現在職探し中なんです。これは新卒向けですが、転職活動の情報源にもなるのではと思ったんです。しかし、懐かしいなあ、昔、リクルートの関連会社にいて、こんな営業をやっていたんですよ」。
それなりに営業実績も話し、ワタナベプリンティングセンターに内定の話もしてサラリと帰った。今回の目的は、俺を売り込むこと。
はたしてその数日後、中村さんから電話があった。
「うちを転職先として考えてみませんか?」
やった!うまくいった!悪いが、引っかかった!というカンジ。印刷会社の内定があったから強気になれたのも幸いしたのか、その1週間後に合格通知をもらった。過去が滅茶苦茶な33歳の、7社目の転職にしては上出来だ。印刷会社には申し訳なかったが、丁重に断り、晴れてアド通信社の営業マンとして再出発することになった。

実は帰郷に際し、意中というか興味のある会社はあった。先の地場経済月刊誌「ふくおか経済」だ。帰郷を考えるようになり、東京在住時代からたまに「ふくおか経済」で地場経済情報を入手していた。ちょうどビジネス社で「流通ビジネス」というコンサル会社・船井総研の月刊誌の取材編集スタッフをやっていたこともあり、同じ経済系の雑誌で取材や営業が出来ないかと思ったのだ。
「ふくおか経済」東京支店の香月さんにも会い、福岡の記者である緒方さんや近藤さんを紹介してもらったりした。しかし、その当時の編集長が私よりも年下で、メンバーも新卒採用が中心で全員が若い。私が中途入社できる可能性はなかった。
そんなこんなで1992年の6月に福岡へUターンし、8月には定職が決まった。地場中堅広告代理店の営業マン。家庭が1億円の連帯保証をかぶったことも話したが、とくに不利にはならなかった。15年ぶりの故郷で正社員のサラリーマンに復帰。私生活が激動だったので、とりあえずの安定身分にかなりホッとした。

アド通信社での仕事は、求人広告の営業。配属先は新卒向け情報誌:ダイヤモンドビッグ九州版の広告取りがメインで、顧客候補は新卒学生を採用したい企業だ。
8月のお盆前から出社したが、新卒情報誌の営業は秋から。とりあえず、中途採用の求人広告営業でもするかと、「ふくおか経済」の記事をリストに電話営業をした。
すると5件目であっさりアポが取れた。先輩社員に同行してもらったが、いきなり新聞求人広告20万円を受注。初出社で初受注とは縁起が良い。順調な滑り出しだった。
秋からは、本来の大学生新卒採用広告の営業に走り回った。同時に、課外活動で異業種交流会を始めた。東京時代には様々な異業種交流会に参加し、それなりに人脈形成や勉強になったので、福岡でも参加しようと思ったのだが、適当な会がない。ならばと、ちょうど東京からビジネス社の花田社長が福岡へ来るというので、ゲスト講師になってもらって居酒屋で「不況撃破懇談会」の第一回目を開催した。
参加者は当時知り合った、「ふくおか経済」記者兼営業の近藤さん、帝国データバンクの江口さん、西武セゾングループだった不動産デベロッパー・西洋環境開発の川上さんと富崎さんら5~6名だった。異業種だと様々な話がざっくばらんにできていいねえということで、じゃあ来月も集まろうと、以来、毎月開催することになった。この会は「九州ベンチャー大学」と名前を変更し、その後16年以上毎月継続開催することになる。

 

●私の中の悪魔

 

借金問題の方だが、一戸建てが早々に3000万円で売却でき、西新のマンションも帰郷翌年の春に2500万円で売却が決定。帰郷1年後には残債5000万円弱となった。 一番価値のあるのは福岡都心にある大名の17坪だが、バブル時代に坪2500万円の値が付いたものの、1992年以降は下落の一途。17坪は住宅や店舗にも狭すぎる。
実は心の中では、この土地はまた上がるかも知れない。売るのは先にしよう。かつ、ここは先祖代々の土地だし、俺が生まれた本籍地でもある。栢野家の長男として、なんとか死守したい気持ちも強かった。借金返済は毎月50万円だったが、これは実家にあった福岡シティ銀行の株券を少しずつ売却して充てた。

こうして一見、借金返済は順調に進んだか見えるが、私と母の確執は泥仕合になっていた。一つには、こんな目に会いながら、母が浦川と密会しているのがわかった。かつ、母が「子供には財産は残さなくていい」という発言があったと親類から聞いた。これには俺は怒り狂った。
というか、嫉妬の鬼となった。母は俺よりも獣の浦川をとった。栢野家の財産は、子供よりも愛人の浦川にくれてやると。
私は怒髪天を突く感じで狂った。母を無理矢理、裁判所へ連れていったのだ。自分の意志で金銭関係の契約ができない禁治産者にするためだ。
母の堕落で栢野家は全財産を失おうとしている。この期に及び、母はまだ心を改めようとしない。ならば、母の名義になっている大名の土地やマンションを勝手に売れないようにせねばと。狂ったメスにはほど良い仕打ちだろうと。
私は裁判所の待合室で母を怒鳴り、罵り、罵倒した。母は懇願した。

「私をどうしようと思ってるの?」
「お前は狂っているから、これ以上浦川に金を渡せないようにするんだよ」

罵り合ったあと、母は放心状態になり、私も禁治産者にするには法的にどう手続きすればいいのかわからず、かと言って弁護士に頼む金もなく、結局そのままにした。
その後もことあるごとに私と母は罵倒し合い、私の恐れていた、高校時代に家庭内暴力一歩手前まで行った自分の悪魔の本性が蘇ってきた。

一戸建てはもともと他人に貸していたが、西新のマンションは自分達が住んでいた実家。しかし、それも売って人手に渡る日が来た。
私は別に賃貸アパートを確保し、母にもマンションを出るように言った。

「早く荷物を出せ!もう実家はなくなるんだよ!他人の手に渡ったんだ!!」

母は大慌てで近所のマンションに引っ越した。しかしその後、なんと、あの浦川がまた出入りしているのを知り、怒りを通り過ぎて憎悪の炎が激しく燃えた。母と子の全面対決。
そして、何かの件か忘れたが、電話の口論で、ついに俺の恐ろしい正体が現れた。

「お前は栢野家を滅茶苦茶にしやがって!この◯鹿が!お前なんか◯ね!狂ったメス◯が!」

一息置いて、母は言った。

「あんた、よう言うたな。○△□・・・・・」

その後は何を話したか覚えていない。とにかく、俺は母に対する憎悪の気持ちを止められなかった。同時に、自分の中の鬼の存在に恐れおののいた。俺は悪魔かも知れない。

 

●自殺未遂。そして発狂

 

その数日後、会社に電話があった。母の友人の田中のおばさんからだった。

「克己さん!あんたのお母さんが川に飛び込んだのよ。今、西新の福岡記念病院にいるの。すぐに来て!」

一瞬、ギクッと驚いたが、自分が思った以上に冷静なことに気づいた。かつ、母が自殺未遂したけど命に別状はないことがわかると、思ってもいない言葉が出た。

「行っても仕方ないですよ。放っておいて下さい」

なんという言葉。親が自殺未遂したのに、赤の他人のような見捨てる言い方。しばしのやりとりがあったが、母の引き取り手は他にはいない。仕方ない。
病院に行くと、母は下着姿のようなみすぼらしい老醜をさらしていた。聞けば、近所の室見川の河口に入水自殺を図ったが、そこは浅いので途中で119番通報され、救急車に助けられてここに収容されたとのことだった。
私は汚い物にでも触るように母に近づき、「なんだ。まだ生きていたのか」との顔つきと気持ちで対面した。まったく人騒がせなことをするやつだと思った。
ところが、母の言動が明らかにおかしい。「あそこに浦川がいる。私を殺しに来た」とか言い、その方向を調べたがもちろん何もない。その後も似たような発言を繰り返す。気が狂ったのか。
近所の秋本精神科に行くと、あきらかに精神病の疑いがあるという。一人にはできない。また自殺未遂するかも知れない。が、俺は明日も仕事がある。その間、俺の家に母がおとなしくしている保証はない。
というより、はっきり言えば、こんな狂った母の面倒は見たくない。かといって、もはや誰からも相手にされなくなった母を他に引き取る人はいない。
ちょうどいい。どうやら気が狂ったみたいだから、精神病院に入院させよう。秋本病院の紹介で、福岡市西区の飯盛神社そばにある精神病院「倉光病院」に連れていった。
入り口や窓は牢屋式の閉鎖病棟で、中では精神を病んだ患者が奇声や呻き声をあげて院内を彷徨っている。まるで乳母捨て山というか、野生動物の放し飼い動物園だ。
精神に異常があるとはいえ、こんな所に母を閉じこめるのは酷いと一瞬ためらったが、他に考えが浮かばなかった。

 

●最悪の結果

 

入院後、2日に1度くらいのペースで、見舞いに行った。相変わらず母は「あの木の陰に私を殺そうとしている人がいる」「私のことが西日本新聞に載っていたでしょ」なんて言う。最初は私も、浦川か誰か、母を狙う人物がいてもおかしくないかなと思い、真剣に木の陰を見たが、やはり誰もいない。母は明らかに精神異常、誇大妄想狂になっていた。
1週間が過ぎたが、母は相変わらず、意味不明の言葉を発している。その頃には私も「大丈夫。心配しなくていいよ」と冷静に対応できる余裕が出てきた。
同時に、母が一気に小さくなったことに気づいた。一気に老けた。入院後、化粧をしていない、おしゃれもしてない寝間着姿という外見もある。風呂にもろくに入ってないようで臭い匂いもする。何より、この数年、借金を被った心労と、その相手が妻子ある地上げ屋だったということで、周囲や私からの罵倒や仕打ちも堪えただろう。
あとから聞いたが、母が浦川とつき合っていたのは地元の知人の間では公然の秘密で、まともな友人知人は離れていったという。また、岡山の母の実家に住む兄の家にも、浦川と一緒にお金を借りに来ていた。親類とのつき合いも疎遠になるのは当たり前だ。何もかもが母の自業自得、そして、その借金を共に被った俺も自業自得。親不孝の結果だ。
見舞いに行った私の横で、何やらブツブツ言いながら、本当に小さくなった、惨めになった母を見ながら、私は徐々に観念した。もはや俺が面倒を見るしかない。憎しみ合った俺と母だが、元はといえば俺の親不孝のせいだ。遅蒔きながら、長男としての義務、子供として、恩返しをするかと。大変なことになったが、まだ間に合うと覚悟した。
それにしても、この精神病院は酷すぎる。重度の患者が大半のようで、病院中に夢遊病者が歩き回っている。見舞いに来る人も少ない。まさに狂った人間のゴミ捨て場だ。閉鎖病棟の、この牢屋形式も良くない。普通の人や軽度の人もおかしくなるばかりだ。
私は電話帳をめくり、何人かの人にも聞き、市内の香椎にある、緑に包まれた開放病棟の精神病院を見つけた。院長にも面談し、近日中に母を移すことにした。

 

●母の死

 

1993年の8月5日。朝5時過ぎ、電話の音が鳴った。それがどこからか、どんな内容か、なぜか電話を取る前に察知した。こんな朝早くかかってくるのは尋常ではない。普通ではない。数秒の間に、そう悟ったのだろう。私は落ち着いて受話器を取った。

「倉光病院です!お母さんが!お母さんが!・・・」

「・・・・・・・・わかりました。・・・・・・・・今から行きます・・・・・」

わずかな沈黙のあと、私は意外なほど冷静に、というか、あえて冷静を装って応えた。帰郷後にバイクを売った金と、わずかな貯金で買った35万円の中古プレリュードを運転し、病院に着くと静かな個室に導かれた。覚悟はできていた。

部屋には線香が焚かれ、煙が天上に向かって糸のように伸びていた。顔に布を被せられた遺体が横たわっている。これは現実か。ドラマじゃないのか。本当か!?

頭が真っ白な状態で布をとると、静かに眠る母の顔が現れた。永遠の眠りについたのだ。軽い虚脱感に導かれ、私は腰を降ろして母の体に抱きつき、顔を横にして腹の上においた。涙が自然に出た。鬼の目にも涙か。悪魔のような自分にも、まだこんな感受性が残っていることに、少しほっとした。
こうして母に抱きついたのは、いや、「母に抱かれた」のは何年ぶりのことだろう。小学生低学年以来、25年ぶりくらいか。

本来は今日、新しい医院に移転する予定だった。

憎しみ合った親子、実の母親を自殺未遂にまで罵倒して追い込んだ最悪最低の俺だったが、精神を病み、哀れに小さくなった母の姿に打ちのめされ、やっと面倒を看る覚悟を決めた。
昔のように、ケンカしながらも親子として共に歩こうと、初めて親孝行をしようと懺悔したのに、そんな俺の気持ちをあざ笑うように母は逝った。お前なんかの世話になんか、死んでもなりたくない!と思ったのか。
それとも、愛する男に裏切られて全財産を失う羽目になり、友人知人や親族、はては実の子供からも見放され、罵倒され、気づいたら自殺未遂事件を起こし、群衆の見守る中を救急車で運ばれるという恥ずかしい思いをしたからか。
はたまた、我に返ると「ここはどこ? 私は誰? この鉄格子は何? 牢屋? 精神病院?」・・にまで堕ちた自分に気づけば、絶望して自殺するのも仕方がないか。
いや、過去のことはどうでもいい。あの鬼のような克己と過ごす人生など思いたくもない。死んだ方がマシだと思ったのか。
こんな自分では生きているだけで廻りに迷惑をかける。もはや生きる希望も望みもない。消えてしまった方がいいと思ったのか。

(冷静に考えれば、私が母の立場だったら、自殺しても仕方ない。そう思う)

自殺か。大変なことになった。が、一方で意外に落ち着いている自分がいた。この1年、それまでの人生で経験したことのない事件の連続で、何が起きてもあまり動揺しない胆力のようなものが身に付いていたのか。いや違う。その恐ろしい理由は別にあった。

病院から自殺したと聞いたかどうか記憶が定かでないが、最初から自殺だと思いこんでいた。婦長みたいな人から、お母さんの死因をどうするか、みたいな問いかけがあった。つまり、実際は自殺だが、お互い、世間体や不都合もあるでしょうから、死亡診断書は「心不全」としてもいいか、そうしませんかというニュアンスだった。
数年後、警察の人に母の自殺のことを話すと「それは警察に言ってもらわないと困るなあ」と半分冗談に言われ、自殺も警察の管轄なのだと初めて知った。また、医院の看護ミス、管理ミスの可能性もあった。
これもかなりあとになって思ったことだが、もしかしたら、院内の他の患者による殺人だったかもしれない。生前、母を何度か見舞いに行ったとき、母に突然、襲いかかるように近づいてきた患者がいた。明らかに精神異常による行動だ。
あんな狂った人の院内犯行の可能性もあると思ったが、精神病院内での、精神病患者同士の殺人事件は悲劇的過ぎる。もし、事実だとしても加害者も悲惨だ。それ以上の推測や検証やヒヤリングはしないことにした。

 

●驚愕の留守番電話

 

いずれにしろ、母はもう帰ってこない。終わったことはどうしようもない。それよりも、葬式という現実に追われた。母の死のことは、当時、親族で一番親しかった父の妹であるおばさんに電話した。おばさんの紹介で葬祭場は私の自宅近くに決めた。続いて会社に連絡したが、その後は動揺して、誰にどう連絡したか覚えていない。
葬儀場を決めたあと、病院の職員が呟いた。「あら、そこならうちでも紹介したのに・・・・」。なぜか残念そうというか悔しそうな物言いが気になったが、あとで病院と葬儀場は提携していて、紹介するとバックマージンが入ると知った。普通の人は気づかないことが多いが、人の死は商売や小遣い稼ぎのチャンスに溢れているのだ。

葬式には意外に多くの人に参列していただいた。母の友人、銀行時代の同僚、同じ社宅アパートの、昔から顔見知りの人が多かった。
私の弟夫妻も東京から駆けつけた。弟は到着してすぐ「また親の死に目に会えなかった・・・」と溜息をついた。母の死の原因は、精神的に追い込んだ俺にある。
父の死の時も同じだった。俺が高校2年の時、父は脳溢血で突然死したが、反抗期の俺のことで父は相当悩んでいたと、あとで父の同僚から聞いた。弟は父の死にも立ち会っていない。それは私も同じだったが、弟は私よりもはるかに親思いなのだ。

元銀行エリートの役員未亡人が、妻子ある地上げ屋と不倫。その男に貢いで連帯保証1億円かぶって全財産を失い、追い込まれて川に飛び込んで自殺未遂。川が浅かったので助かったが、ショックで精神錯乱・精神病になり、最後は精神病院で首吊り自殺。
テレビのワイドショーや火曜サスペンスドラマのような事件が、まさか身内で繰り広げられるとは。自分でも信じられない悲劇。事実は小説よりも奇なり。
昭和30年代から昭和50年までの高度成長期を父と走り抜け、その後はバブルに狂い、バブル崩壊と共に、母と俺の人生は真っ逆さまな地獄絵になった。

母の死後、母のマンションを整理していて、留守番電話の録音テープに驚愕した。

「浦川さん、借金を返して下さい」
「奥さんもいい加減にして下さい。たのみますよ」
「そこにいるんだろう。出やがれ!」
「何をしている!返せ!」
「こら、浦川!金返せ!至急、連絡しろ!」

債権者から浦川への、借金返済の催促電話だ。全部で10数件ほどマイクロカセットテープに残っていた。そこは母が最後に住んだマンションだったが、母と浦川はまたも一緒に住んでいたのだ。母が呼び寄せたのか、浦川が押しかけたのかはわからない。
いずれにせよ、浦川は対外的な連絡先をこの母のマンションにしていたのだろう。留守電のほとんどは浦川宛のものだった。が、実質的に夫婦同然だった母も怖かっただろう。
この数年後、「目玉売れ!金返せ!」の強引な取り立てで問題になった「日栄事件」があったが、まさにあれと同じ罵声が留守電には残っていた。
1億の連帯保証人になり、住む家や貸家も売られて家賃収入もなくなり、友人知人から見放され、親類縁者や実の子供からは罵倒され、家に帰ると借金取りからの罵声電話の嵐。八方さがり。自殺しない方がおかしい。
母の家計簿の隅には、走り書きのメモで「お金がない・・」と書かれていた。それは室見川に飛び込む前日あたり。経済的にも追い込まれていたのだ。
そんな時、俺は実の母に「お前は栢野家を滅茶苦茶にした。男に狂った最低の女だ。死ね!」と罵った。追い込まれていた母にとどめを刺したようなものだ。

が、正直に言おう。

母の死は衝撃だったが、これで大名の土地は俺のモノだ。借金の残り約3500万円も俺が引き継ぐが、つい数年前まで坪2500万もした土地だ。また上がるだろう。資産家になれるかもしれない。
かつ、憎しみ合っていた相手が死んで清々した。精神的に狂った母の面倒を見る必要もなくなった。一度は覚悟したが、もう介護の必要もない。俺は自由だと。

Uターン時、母の連帯保証人には弟と平川さんもなっていたが、両者ともその後、外れてもらっていた。弟の場合、嫁さんが1億円の保証人に間接的に耐えられず、精神的に参っていたので外した。平川さんはもとより他人。亡父に恩があるとは言っても、1億も被る必要はない。こちらも気を使って疲れる。
父は44才で過労死。母は他人の連帯保証人になり、全財産と友人知人と親類と子供の信頼とすべてを失い、精神病になって精神病院内で自殺。ある意味では、両親はオレに殺されたようなもの。

が、「これであの土地は俺のものだ」

限りないもの それは欲望

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