やずや七転び八起き物語

「脱サラ1年で3つの事業に失敗」

 

九州最大級の通信販売会社

  • (株)やずや

         創業者 矢頭 宣男

 

熊本大学中退→長崎大学2部→ミシン営業→ピアノ営業→同志社大学卒→大和ハウス→ボウリング場支配人→パブマスター→アイデア商品・靴クリーム・贈答品販売に失敗→結婚式司会→クロレラ歩合セールス→再度独立→事業整理→結婚式司会+健康食品通販→44歳より通信販売専業へ

(株)やずやは福岡を拠点として、全国に健康食品や自然調味料を企画販売している。

大手通販会社が苦戦する中、やずやグループは’99年32億→’00年62億→’01年99億→’02年3月期は135億円と急成長。’87年にわずか6000万円の売上は、この15年で225倍の成長を遂げた。

中国の黒酢を改良した「やずやの香醋」、国産にんにくと地鳥の有精卵のみを使用した「家伝にんにく卵黄」、大麦を原料とする「養生青汁」、雑穀を加工した「雑穀米」など、商品はどれも自然の食材を活かしたものだ。

特に、’98年から販売した「香醋」は単品で70億円を上げ、通信販売による酢の健康食品では国内NO1の地位を確保している。

創業者の矢頭は’99年に他界したが、その後も業績は成長を続け、社員わずか70名で無借金経営を貫き、自社ビルも3棟保有する。今や九州を代表する元気企業だが、過去には様々な失敗と挫折を繰り返してきた。その遍歴を追う。

 

■25歳で大学を卒業。転職を繰り返す。

 

創業者、矢頭宣男は昭和19年、福岡県築上郡吉富町で精米業を営む家に生まれた。中学時代はクラスで3番になるなど、勉強は比較的できた。

しかし、教師を目指し、現役で熊本大学教育学部に入学したものの、「デモしか先生」志向の同級生に落胆し、3カ月で退学。その後2回の受験に失敗し、長崎の短大夜間に入学。アルバイトで蛇の目ミシンやヤマハのピアノセールスをやり、同志社大学の夜間に編入して25歳で卒業する。

セールスに自信のあった矢頭は、大学卒業後、知人の紹介もあって大和ハウスに入社。大阪でバリバリと仕事をした。最初は建築現場に3カ月住み込み、不動産・住宅のイロハを叩き込まれた。

しかし、辞令一つで全国に飛ばねばならず、長男だった矢頭は親の面倒をみなければと、九州に帰ることを決心する。

1年間、神奈川県の大和ハウス関連のゴルフ場支配人とボウリング場のマネジャーをやり、九州に帰ってきたが、どこも宛てはない。小倉駅前をブラブラしていると人材銀行があった。後からわかったが、そこは顧客に水商売関係が多く、ホワイトカラーはあまり行かないところだった。

しかし、「既に、大学も人より遅れて卒業し、それも夜間で転職もしている。同じことでは勝てない、人が嫌がることをしようと思っていました。

だから、通常の大卒とは逆、水商売でもいいじゃないかと、山口県下関のパブスナックに2代目のマネジャーとして入りました。そこは母体がニチイ(現マイカル)で、かつ夜勤手当だとかいろいろ着き、給料は良かったですね」。

ここで矢頭は、企画の仕事、マネジャーとしていかに集客するか、女性従業員との接し方等を、大阪からきた名マネジャーに教わった。

 

■初の脱サラはことごとく失敗

 

パブ支配人の仕事は順調だったが、ヤクザとの対応の仕方などで会社と対立。「そんなに会社のやり方に不満があるなら、自分でやったら?」という妻の助言も受け、矢頭は脱サラを目指す。昭和49年、矢頭が30歳の時だ。

しかし、何をやったらいいかわからない。矢頭は独立雑誌を読みまくり、車のバックギアを入れると”バックします”という音声が流れるアイデア商品に目を付ける。

「脱サラしようとすると、まず本を見ますね。”脱サラして大成功した”とか、”一発で儲かる”とか、”儲けるコツ”とか。そこには必ずそういうものが載っている。今でいうフランチャイズのようなものが。

でも、当時は友達も人脈もないし、その記事を見て信じて、ワンケース送って貰ったわけです。でも、自分の車に着けたんですが、”バックします。ご注意下さい”の声がうるさくてしようがない。これは駄目だと1カ月で断念しました。

2つ目は、これも雑誌で見つけたんですが、スポンジに靴クリームが染み込ませてあって、サッと靴が磨けるアイデア商品。メーカーに聞いたら”今、東京のホテルに貸し出したらボンボン売れてね。大人気なんですよ”と。これは売れるなと、市場調査もせずにパッと決めました。権利金を払ってね。これで山口の権利は俺のものだと(笑)。

でも、どこのホテルでも買ってくれませんでした。今でもない。結局、3カ月で辞めました。

そして、三つ目が贈答品の仕事でした。生保の女性セールスは、顧客に会社の名前が入ったタオルとか粗品を配りますが、あれは会社ではなく個人で買っているわけ。

だから、会社名の入ってないものがほしいと。ハッとここで思いましたね。これはいけると。そこでタオルとかおしぼりとか、いろいろな小物の粗品を積んで、車で安田生命や日本生命などを回ったら、結構注文がとれました。

今でも笑ってしまいますが、その時の会社の名前が法人にはしてなかったですが”躍進商会”。その時の、私の30歳の想いが会社名に表れとった。まあ単純だったんですねえ」。

躍進商会は表面づらは売上は上がっていた。しかし、なぜか金がない。タオルとかは100枚、500枚単位と段ボール箱で購入するが、注文は50枚、110枚の端数。今月は505枚売れたと思ったら、在庫が95枚とロスが毎月発生。結局、これも資金繰りがつかずに数ヶ月で辞め、脱サラ初年度で3回の失敗をする。

 

■結婚式司会業へ転身

 

「このように、素人商売スッテンテン。カアちゃんが貯めとった100万円も使い果たし、借家に住んで電話一本だけで金はない。実家にも頼れないし不安は募る一方。毎日、途方に暮れました」。

当時、2歳とゼロ歳の子供が2人。妻の美世子は家計の足しにと、朝4時に起きてヤクルトの販売をし、生活も徹底的に倹約。食事は下関の市場で拾ったサバを3匹100円で調達したり、野菜クズで間に合わせたりした。

「その頃、北九州のニュー田川というホテルで、素晴らしい結婚式を目にしました。司会者は荒木さんというバンケットサービスの社長で、そのトークや演出ぶりが凄かったんです。私は感動し、これが天職かも知れないと、お願いして弟子入りしました。

一方では、”これは設備も仕入れもいらんな。口から出まかせ言っとたら金が入ってくりゃせんか”とも思いました。ただ、食えなかったから、ワラにもすがる想いだったですねえ」

矢頭は弟子入りしてカバン持ちをし、祝電を読ませてもらうことからスタート。徐々に司会の仕方を覚え、結婚式に加えて葬式の司会もやるようになる。

 

■健康食品との出逢い

 

「司会の仕事はおもしろかった。でも、稼ぐ月で30万円。5000円とか2000円のチップもあったが、夏場は8万円でこれだけでは食えない。

何とかしなければ、余った時間、何か飯の種はないかと思った時、自宅にクロレラの訪問販売=歩合セールス募集のチラシが入ってました。見ると、勤務時間は自由。子供も食わせないといけないし、よし、やってやろうと思いました」。

こうして矢頭は健康食品と出逢い、セールスにのめり込んでいく。学生時代のピアノや大和ハウスの飛び込み営業をやっていたので、違和感はなかった。そして、成績を徐々に上げ、業績を上げた矢頭を、ある日メーカーの社長が訪ねる。

「矢頭、よくやっているな。でも、もっと売上を上げる方法を教えようか。客を訪問した時に、クロレラの瓶の蓋を開けるんだよ。そして、いらないと言われたら、”もう開けたから、買って貰わないと困る”。これでもっと売れるぞ」。

しかし、誠実な矢頭は「これはまずい。こんな売り方をするメーカーの商品は売れない」と、クロレラ業界を改めて調べた。すると、当時扱っていたクロレラは同業他社の2倍もし、売り方も悪徳。これは駄目だと、約20社のクロレラ業者のカタログを取り寄せ、当時、一番誠実で商品も良いと思った京都のサン・クロレラを訪ねた。

「代理店をやらせて欲しい」。しかし、サン・クロレラは直販しかしないので、商品は卸せないと断られる。それでも矢頭は3回もフェリーで京都に通い、熱意を訴えた。結局、根負けしたサンクロレラの社長は特別に商品を卸すことになる。

 

■俺は商売の天才だ!

 

こうして昭和51年、営業エリアが空いていた福岡県飯塚市へ移転。「クロレラ サン福岡」をスタートする。矢頭が32歳の時だ。チラシを撒いて、興味のあったお客さんを訪問して販売する。当時はクロレラブームだったこともあり、事業は順調に拡大した。

「始めて数ヶ月目には、給与以外に毎月現金で100万円以上が残った。やったと思いましたね。自分で言うのも変ですが、私は誠実なんです。

当時から、訪問販売では悪徳業者が横行してましたが、私は押し売りはしないし、返品も受け付けた。まさに天職だと思いましたね」。

翌年にはサンクロレラの九州総代理店となり、その後3年で九州全域に12店の代理店を構築。社員約30名、年商4億5千万円と、脱サラとしては大成功を納める。

「この頃は、”俺は商売の天才だ”と思っていましたね。毎週毎週、キャバレーにも通いました」。

しかし、好事魔多し。昭和57年、メーカーのサン・クロレラが直接、九州に営業所を開設したため、矢頭は商品を別なメーカーへ変える。

ところが翌年、そのメーカーが放漫経営で倒産。矢頭は不渡り手形を喰らい、仕入れ商品を失う。

次の商品が見つからず、売る商品がない。しかし、営業所や社員の固定費等で、毎月数百万円単位でドンドン金がなくなる。焦った矢頭は、羽毛布団などのマルチ商法にも関わり、それどころか、大人のオモチャや健康ぶら下がり器具など、健康食品とは全く無縁の商品にも、次々に手を出した。

しかし、どれもうまくいかない。そしてある時、知人から「お前のところの社員は、お前がいない時にはヒソヒソ話していて、とても商売に身が入っていないぞ」と聞いて目が覚める。税理士からも倒産した方がいいのではと言われた。

悩みに悩んだ挙げ句、矢頭は事業を一旦、整理することを決断する。妻の美世子がパン屋の副業で貯えていた約2000万円を放出し、個人財産や土地も売却処分。かつ、借金2200万円をして、全従業員に100万円ずつの退職金を払った。事実上の解散。脱サラをして10年目。矢頭、40歳の時だった。

 

■お前は今まで何をしてきたのか?

 

一時は30名ほどの所帯も、再スタートは夫婦で8坪の事務所。給与も手取り10万円になった。

「でも、誰にも迷惑はかけなかったし、心はさわやかでした。夫も、それまでの仕事中心から家庭サービスを大切にするようになりました。お金はなかったけど、ある意味では一番幸せを感じた時期でしたね」(妻の美世子・現やずや社長)。

あしたば、ヨモギ、タヒボ等の健康食品を細々と通信販売しながら、週末は結婚式の司会業を兼務。しかし、健康食品で大打撃を受けた矢頭は社名も「矢頭結婚デザイン事務所」とし、表向きの本業は徐々に司会業になっていった。

手がけた結婚式は約830組にもなったが、年商もかつての10分の1になり、「これでいいのか」という悶々とした時期が3年ほど続いていた。

昭和63年、中小企業の勉強会である福岡県中小企業家同友会に入会し、3カ月後に開かれた経営計画セミナーに出席。そこで、当時の講師、キューサイ(株)の長谷川社長に出会う。

矢頭は当時44歳。まだまだ若いと思っていた。とりあえず司会業と健康食品をやっていたが、ホカ弁もいいし、イベント業も面白そう。いきいきと仕事をする周りの人が羨ましく、他に何か出来ることはないかと、フラフラしていた。

「矢頭さん、あんたの天職は何かね?」。

「いろいろあって、わかりません」

「何が出来るのか?

何が得意なのか?

矢頭さん。あんたは今まで何をやってきたのか?

お前ができることで、

何が客の役に立つのか?」

ボーリング場やパブのマネージャーもやったが、どれも2年と続いていない。飲食業にも興味があったが、カクテル一つや料理もできない。

いろいろ考えたが、現実にできるのは司会業と健康食品の2つしかないと気づいた。

「じゃあ、その2つのうちのどちらかに早く決めなね。どっちがやりたいんだ?」

「司会業は人に喜ばれるし、華やかでカッコイイですし、結婚式の司会業ですかね」

「しかし、それは会社ではなく、あんたに頼みに来るんやね。矢頭宣男という個人の仕事だね。ということは、あんたが病気になったら収入はないよね。死んだら終わりよね。それよりも、何で健康食品を天職と思わないのか?」

ちょうどその頃、長谷川は「マズイ!もう一杯」の青汁を立ち上げているところだった。

「いや、健康食品は恥ずかしい。詐欺的商法で何か胡散臭いし、大きくなっても社会的に認められない。もう、辞めたいと思っています」

「何言うか。俺は今、青汁という商品をやってるけど、誰に対しても恥ずかしくないぞ。俺は自信を持ってこの商品を売っている。

誰に対しても恥ずかしくない商品を何でやらないのか。お前、それしかないじゃないか。それしか役に立たない人間じゃないか!」

「そう言われた時に、バチーと体が破れるように電流が走り、ああ、これしかない、人生が決まったと思いました。やっぱり俺は健康食品しかない。もう一度、やり直そうと決意しました」。

セミナー終了後、矢頭は妻の美世子に「今まで自分の生き方がわからず、ブラブラして苦労ばかりかけた。すまなかった」と泣いて頭を下げた。

 

■通信販売に特化し、自社商品を開発

 

それから矢頭は、同友会で習った経営計画書を作成。それまで6000万円だった年商を、1年後に2億円にすると内外に発表した。

同時に社名を「やずや」に改名して司会業を廃業。過去の失敗を教訓に①拠点は一つで営業所は作らない(管理の難しさを学ぶ)②女性中心の職場にする(自分たちに合う)③訪販から通信販売へ移行(少人数でできる)を決意。再度、あしたば等健康食品の通信販売に絞った。

商品の説明と自分の想いを書いたチラシをポスティング。まずは無料サンプルで試して貰い、気に入った人にだけ購入してもらった。その後は訪問販売は勿論、売り込みの電話も一切せず、お礼の手紙や会報できめ細かなフォローを継続した。

結果は1年後に年商約2億円を達成。その後、ある人からの「他人様の商品は所詮、他人様の心。これからは、自分で企画開発して自分の想いを伝えたらどうか」のハガキで開眼。’92年に初のオリジナル商品「養生青汁」を生み出した。

そして’97年の「家伝にんにく卵黄」、’98年に出した「やずやの香醋」が大ヒット。再起から10年余りで年商は100億円を突破した。

この間、’95年から’99年までは約2500社を束ねる福岡県中小企業家同友会の代表理事も兼務。福岡・九州は勿論、全国の中小企業経営者にも、多大な影響を残した。

 

■天からの一通の手紙

 

転職を繰り返し、脱サラも1年で立て続けに失敗し、仕方なく健康食品の世界へ入った矢頭。

しかし、ミシンやピアノ、住宅やクロレラで営業センスを磨き、パブ支配人時代の経験は女性中心の職場作りに役立ち、司会のトークは通販の電話応対に活かされ、結婚式の演出は感動を呼ぶ通販チラシのコピーライティングに結びついた。

失敗だと思っていた過去の経験は、全てプラスに転じたのだ。

「人は誰でも、天から一通の手紙を授かっている。そこには、その人の天職が書かれている。それを開く時が、いつかは必ず来ます」。

生前、矢頭が好んでいた言葉であるが、矢頭がその手紙を開いたのは44歳の時。結婚して10年で12回の転居をし、20代から40代前半までは、年賀状の住所や仕事が毎年変わっていた。

「大企業にキチンと勤めている友人に比べると、私は根無し草のような人生で恥ずかしかった。でも、私を含め、学生時代や20代で自分の天職がわかる人は少ないと思う。

チャレンジを積み重ね、失敗して初めて気づくんじゃないかな。だから、チャレンジして転けた人を笑ってはいけない。人生は、まさに七転び八起きですから」。

矢頭は’99年6月、脳溢血で突然亡くなった。中小企業の場合、創業者が亡くなると業績は悪化するのが普通だが、やずやは’99年の年商32億が’02年には135億と大発展。’03年は約180億円の売上が見込まれている。

「財を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上、志を残すは最上」という言葉がある。

矢頭は晩年の13年間、毎年約100ページにも登る経営計画書を書き記した。それは現社長である妻の由美子と社員に引き継がれ、今も毎朝の朝礼では全社員が1ページずつ読んでいる。

それは、まさに矢頭が家族と社員に残したバイブルであり、天からの一通の手紙に他ならない。

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