HIS創業秘話

 

「海外放浪と転職を繰り返し、マンションの一室でスタート」

 

高卒後上京→TVの専門学校→芸能プロダクション→土木作業員→イタリア留学→海外放浪→イタリア語講師→レストラン→無職で結婚→音楽プロダクション設立を経て

 

旅行業界のベンチャー

  • (株)エイチ・アイ・エス/スカイマークエアラインズ(株)

常務取締役 大野 尚

 

海外格安航空券の売上で日本一のHIS。子会社スカイマークエアラインズの就航を機に、’99年からは国内旅行にも本格的に参入した。

’80年に設立された若い会社だが、今では年商で2000億円を突破。大手の赤字や倒産が相次ぐ旅行業界だが、HISは設立以来20年連続で成長を続けている。’96年には豪州にホテルを建設。’98年には航空事業に次いで、セゾン系の損保会社や証券会社へも資本参加。米国アメックスのようなコングロマリットを目指している。

HISは営業本部ごとに独立採算制をとっている。つまり、営業本部長は各地域の「経営者」として全責任を持つ。大野は現在、東京本社でHISとスカイマークの取締役を兼務しているが、2001年までは九州・中国営業本部長を務めた。

福岡支店が開設したのは’83年。天神のわずか9坪マンションでのスタートだった。

 

■バイト経て芸能プロダクションへ

 

大野は、昭和33年5月1日の福岡生まれ。九電に勤めるサラリーマンの家庭で育った。小学生時代は女子と相撲をしても負けるほど体力がなく、勉強も苦手でよく虐められたという。

友達がいないため、中学になると福岡市内の喫茶店に入り浸り。ジャズや大人との付き合いをするようになる。また、中3の時に五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読んで、初めて一人で四国のユースホステルを自転車で泊まり歩いたりした。

高校時代は平凡な学生だったが、卒業後に上京。東邦学園というTBS系のTV専門学校に入り、傍ら写植の学校にも通いながら、池袋のシアターレストランで照明やPAのバイトをやった。

そして、あるレコードに入社できたが、2カ月でその会社が倒産。つぎに、ジャズ系の音楽プロダクションに入社し、芸能界の裏と表を見る。

五木ひろしや森進一のすごい世界や、昨日までスターだった人間が落ちぶれていく姿。当時、大野の給与は8万円で4畳半の生活だったが、交際費は青天井で毎夜飲めや歌えやのドンチャン騒ぎ。昼は適当に時間を潰し、仕事は夜9時からの日々。

「どうもおかしい。間違ってると思いました。当初はプロダクションの社長になるのが夢でしたが、”まず肝硬変になるのが基本だ”といわれる世界で、やはり僕のような田舎者には会わない。こういう仕事からは足を洗おうと決めました」。

1年半の音楽プロダクション生活を終え、学歴も職歴も中途半端な大野はアメリカ留学を思い立つ。「当時、アメリカにいた叔父が農場で成功していて、生活の面倒は見てやると。半端な僕にハクを付けようと思いました」。

ところが、いざアメリカという段になって叔父が事故に遭い、予定が狂ってしまう。

そんな時に行動派作家・小田実が書いた世界放浪記「何でも見てやろう」を読み、海外留学を諦めて海外放浪旅行に変更。しかし、当時はガイドブックもない時代。大野は図書館に通い詰め、英語で書かれた「ヨーロッパ1日5ドルの旅」を読んで海外放浪を綿密に研究した。

 

■初めての海外放浪旅行

 

大野はパキスタン航空の25万円1年間オープンチケットを買い、北京~マニラ~カラチ~カイロ経由で37時間かけてヨーロッパに降り立つ。’77年の秋、大野が19歳にして初めての海外旅行だった。

この旅では目から鱗が落ちるような体験ばかりに遭遇した。最初にドイツに入ったが、当然、言葉は全くわからない。場所も人も慣習も、見るもの聞くものがさっぱりわからない。しかし、それが大野にはおもしろかった。また、旅先で出逢った日本人の中には、漫画家の黒金ヒロシやエステの鈴木その子の妹などがいたが、大半はノンエリート。皆、人生の目的を生き生きと追求していた。

海外では日本での肩書きは関係なく、皆が対等な立場で様々な話ができた。学歴や職歴がない大野にとって、物心がついて初めて、皆と同じ土俵に上がれたと思えた。

また、旅を続けていると生きるコツのようなものもわかってきた。こっちには安心な宿がありそうだが、あっちはどうも危険だとか、この人は信頼できるが、あいつには騙されそうだとか。自分しか頼れない海外での一人旅は、小さい頃に虐められた大野の動物的な勘を蘇らせた。

 

■女を追ってイタリアへ留学

 

モンテカルロからミラノへの列車の中で、大野が座っていたコンパートメントにイタリア人の家族が合流。やはり言葉はほとんど通じなかったが、大野達は以上に盛り上がり、心が通じ合った。若く綺麗な娘に「これからどうするの?」と聞かれたのがきっかけで、そのままその家族の家に1カ月世話になった。

その家は山と緑に囲まれた郊外のアパートだったが、朝ウトウトしていると綺麗な娘がエスプレッソを運んで来てくれる。まさに夢かドラマのような世界。しかし、金がなくなり、大野は一時帰国せざるを得なくなった。

「よし、金を貯めて再度イタリアに来て、この娘と結婚しよう!」。

東京に戻った大野は渋谷のイタリア語学校に通ったが「あの娘と結婚するという明確な目標があった」ので、一流商社マンよりも上達は早かった。

そして、大野は留学資金を貯めるために様々なアルバイトをやる。壁がいつ潰れるかも知れない地下工事の土木作業では、日に1万3000円になった。最初は劣等感もあったが、ツナギにヘルメット姿の生活には3日で慣れた。他にはソープランドの24時間アルバイトなどをやって、大野は1年で200万円貯め、再びイタリアへ向かった。

しかし、ミラノの駅に降り立つと憧れの娘の横に男が一人。聞くと、なんとその娘の婚約者だった。「まさに晴天の霹靂。それまでに人生で最大の挫折でした」。

落胆した大野は一路フィレンツェへ。現地の語学学校へ3カ月通い、国立のフィレンツェアカデミアに入学。大学ではイタリア経済史を専攻したが、学生ビザで就労もできず、金に困ったところ、ひょんなことで女性5人と共同生活を始めた。

大野は得意な料理を活かして家事全般を担当。男は大野一人で女の子は裸で部屋をウロウロするという変なイタリア生活だったが、その間に世界65カ国を巡る放浪の旅を実行。その経験が、後の大野の人生を決めることになる。

アフリカでは、ヒッチハイクで何もないサバンナの村へ。アメーバ赤痢にかかり、生きるか死ぬかの目に遭う。また、南アやイランやイラク・・世界中のいろんな人にあった。

「多くの国では週に3日も飯が食えればうれしく、死体もゴロゴロ転がっていて・・。でも、皆、人が死んだら悲しく、子どもが生まれたらうれしい。

自分の学歴や小学校時代の虐めの思い出など、コンプレックスがふっ飛びましたね。世界65カ国を回って、いろんな価値観を知って、何も恐いものが無くなりました。世界を知って、肉体労働も3日間の徹夜も平気になりました。また、何事も諦めない、前向きな生き方を学びました」。

■まともな職が無く、無職で結婚

 

まさに「何でも見てやろう」のような旅を終え、’83年に帰国。しかし、わけのわからないイタリア帰りの24歳には、まともな就職口はなかった。東京の短期大学でイタリア語の講師をやったが、給与は6万円で生活はできない。

「どうしようか。そうだ。料理は好きだから、将来はオーナーシェフになろう」と、福岡へ戻ってイタリアレストランで修行。給与7万で休みは月に1日で頑張ったが「年中働いてばかりで旅にも行けない」と、ここも結局1年で退職。

その間、マドリードの駅で出逢った仙台の女と電話交際していたが、3回目に会った無職の時に結婚を決意。石巻のすし屋の2階で結婚式を上げ、2人の財産70万円で「帰る日が決まってなかった」格安航空券で欧州のハネムーンへ。

1カ月後に帰国したが、当然無職。「何もない=何でも出来る!」と、世界の旅ではわかっていたが自分のやりたいことが見えない。

「妻は医療事務の仕事の着きながら、僕は毎日釣りをして考えていました。自分が何をしたいのか、ミッションは何かと。丸1年は妻に養ってもらいました」。

昔やった音楽の世界? 趣味の写真?・・結局、一人で芸能プロダクションを設立し、東京のプロダクションの福岡代行業を始めた。多い時には5社の代行を請け負い、福岡での歌手の売り出しや接待の世話を1年やった。

 

■マンションの一室のHISへ

 

プロダクション代行は最盛期は月に150万ほどの収入になったが、ない時はゼロ。どうも自分の一生を賭ける仕事ではないなと思っていた矢先、ある雑誌社から海外関係の記事を書けという仕事が入る。そして、たまたま、電柱に貼ってあった「ヒデ・インターナショナル」というビラを見て、天神のマンションの一室で澤田という男と会う。現在のHIS社長、澤田秀雄だ。

話をしていて大いに盛り上がった。澤田は日本に嫌気が差し、アルバイトで貯めた金で西ドイツに留学。そして、ドイツを拠点に世界50数カ国を周り、帰国後の’79年に毛皮輸入販売で独立。が、半年で頓挫し、再度、自らの経験を活かして格安航空券を主力とした旅行代理店を始めていた。

 

・「大野君、この会社は面白いよ。将来は旅行業界で日本一の会社になって、ホテルも航空会社もやるよ。海外にもガンガン支店を作るし、移動は自家用ジェット機だ。どうだい?スゴイだろ。10年後はこうやって、30年後はこうして、100年後は・・・」。

この人間は何なんだと大野は思った。大ボラ吹きか詐欺師かもしれない。でも、6回くらい会っても、いつも同じことを言う

 

「僕と全く同じ人生経験だった。澤田は高校時代に紀伊半島を自転車で一周したが、僕も四国を自転車旅行した。うちに来ないかと誘われ、二つ返事でアルバイト入社しました。

当時のHISは設立5年目で、福岡は2年目。全社でわずか25人で、福岡は9坪のマンションにわずか3名。乗っ取れるのではと思いましたね」。

 

■仕事はわからないが世界は知っている

 

・しかし、客は来ない。たまに来たと思ったら、これからアラブへ行って空手を教える変なオヤジや、

・1年間だけ給料が8万円。それ以外は独立採算。食えない。それで、同業他社に電話した。価格調査、電話対応、明るい、暗い、僕がお客になって他社も回っていった。調べた。

・勝っているのは、僕らは皆、海外に行っている。

・値段は安く。・どんなところよりも情報、・明るい対応

・対応のスピード・旅行時刻を全部覚えた。

・格安航空券はなかった。マップ1社だけ。

・格安は学生か大学教授

・ガリ版でチラシを大学、怪しい飲食店、怪しい輸入雑貨屋、商品も客層もニッチに絞った

・マニアックだが、営業力を持つ人が、口コミが広がって

・自由旅行のブームが。五木寛之、沢木耕太郎、地球の歩き方、口コミからマスコミへ

・モナコでジーパンとTシャツの貧乏旅行人が海に飛び込み、クルーザーに。これだと。同じ目だつんなら、

・ドリーム。鉄の扉の小さな会社が・・

・本業に徹する。証券も銀行も辞めた

・スピード、サービス、スキルの3Sで勝つ

・旅行は移動は、経済を活性化する。動くこと。

・今、東京はラーメン屋もレベルが高い。

・安くしたのはスカイマーク。移動を安くした。あらゆる業界は競争がある。競争の中で楽しい窓口、価格、お客にいい情報を与えようと思う。競争は大事。

・今は関連で5000人。当初は25人。年商10億が2100億。

・変な人が来る。キャピタルゲインで出資したが損したね。

・どんなに仕事ができても価値観を共有できる人が大事

・今、私たちは中高年も入ってくるが、9割駄目。

・新しいはしごをかけて。いったんゼロに降りてね。

・朝早く行って、掃除と挨拶はやる

・いつも平凡なことを続ける

・なぜ、東京に行くのか。中途半端じゃイヤかな。

・なんかやりたい。

・I DOだ。I CANだ。

・能力があるとかないとかでない。

・バックパックの旅行。

・何もできないのは、何でできる。

・何もないモノの強さ。

・自らやる。自分からやる。すると、いろんな人が助けてくれる。

・海外行くときも何も持たずに行く。何も持ってない。

・「自ら原理主義」+何も持たない+

・違う価値観があるんだ。

・世界中どこも日本語で価値観同じだとつまらない。

・入院して2週間して退院した。すると、足が立たない。落胆する。しかし、徐々に良くなる。人の痛みがわかった。入院して大変なんだ。

・カルチャー、愛がある人、実務的に部下に教えられる人、良いことも悪いこともディスクローズすること。各本部の縦割りでなく、横の連携を。

・目標の与え方。パラサイト。夢とか手に届かないモノ。大事なのは、手に届かないモノをばかり追うのでなく、ベストだけでなく、ベターだ。難しいことはなかなかできない。君、君ができてないことで明日できることはない?それをやろうよ。

・後悔も反省もやってみたいとわからない

 

 

「何もない会社で当初は毎月赤字。当然、給料だけでは生活できず、夜はアルバイトをしていましたね。でも、何もないのには慣れている。仕事の仕方もわからないが、世界は知っている!」という変な自信で大野は走り始めた。

何もないが、1本の電話の受け答えでは負けない。九州一、応対の良い電話をしよう。九州一、海外現地情報に詳しい旅行会社になろうと決意。広告を打つ金もないので、ビラを大学へ配りまくり、校門以外では、トイレの中にもチラシを貼りまくった。

怒られて呼び出しを喰らうと、これ幸いとPR。お客様ではなく、友達になろうと、九州の各大学の探検部をまわったり、夜中に大学の先生の家にも遊びに行った。

当時から世界放浪で有名だった地場大手の居酒屋チェーン社長や、財界の御曹司など、変わった人達が徐々にHIS・大野を認め、支援者が日に日に増えていった。

澤田社長からも「九州は100%お前に任す」といわれ、既存の人数で倍の売上を上げ、人が育つとその一人を所長としてまず広島に支店を開設。そして次々に九州・中国地区に拠点展開した。

そして、入社10年目の’95年にHISは株式を店頭公開。創業当時に「運転資金が足りないから出せ」と言われた100万円の株が数億円になり、創業期の海外プータロー軍団はまさに現代のジャパニーズドリームを実現した。

「僕が澤田から九州・中国地区を任されてやる気を出したように、僕も部下にどんどん仕事を任せました。”一人で行って支店を開設しろ、俺はお前を信じている”と任せれば、人は80%の力を150%出せるんです」。

実力に加え、HISにも澤田にも、大野にも運が味方した。

「澤田にはオーラがあった。創業当時から、10年後には年商で1000億を越え上場すると言っていた。そのオーラは僕には見えた。芸能人や世界の人々との付き合いで、何度もそういう場面を見ていたから、この男を信じて着いていこうと。

澤田には本当に感謝している。単なる石コロだった僕の可能性を引き出してくれた。今後は、HISよりも大きな事業を一からやりたい。それが澤田への恩返しだと思っている」。

虐められっ子で、どうしようもない大野がここまで来れたのはある意味では奇跡。でも、それは虐められた経験や多くの転職、78カ国の世界貧乏旅行で身に着いた動物的な勘のせいかもしれない。

「結果としては、挫折ばかりでどうしようもない青春時代が僕の財産。人生には、無駄なことは一つもないんですね。信じて、人生を投げなければなんとかなる。すべては自然の摂理です。

もちろん、何を信じて見分けるかは訓練が必要。若いうちにいろんな経験をして、いろんな世界を見てまわることです」。

 

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