8坪の家業を世界一へ

「偉大な父の後を継ぎ、8坪の仏壇店を日本一へ」

 

日本一の仏壇チェーン

  • (株)はせがわ

代表取締役 長谷川裕一

 

小学生時代から家業手伝い→高校で生徒会長→大学卒業後→8坪の仏壇店に入社

 

はせがわは、全国に約140店舗を展開する仏壇仏具の製造小売りチェーン。業界では圧倒的なガリバー企業で、唯一、株式を福岡と大阪で上場している。

この数年は毎年過去最高の業績を更新し、年商は200億円を突破。平成9年から始めた墓石販売も毎年20~30%の伸びを持続し、仏壇に次ぐ大きな柱に育ちつつある。

一時期はアジア・中国への過大投資で辛酸を舐めるが、本業回帰・高齢化社会到来で業績は絶好調。従来の郊外店に加え、2001年12月には東京・渋谷、2002年4月には銀座に都心型の巨大店舗をオープンした。

渋谷道玄坂店はアロマテラピーとしてのお香や勾玉(まがたま)の携帯ストラップ、縁結びグッズなどを揃え、若年層も気軽に立ち寄れる新型店舗。単なる物品販売に留まらず、供養全般の疑問に対応する映像情報サービスにも注力し、店内では関東一円の霊園情報やオーダーメイド仏壇等、供養に関する様々な情報を発信している。

 

■創業は仏壇の行商、露天販売。

 

長谷川は昭和15年10月、筑邦炭田の福岡県直方市に生まれた。実家は父、才蔵が昭和4年に創業した8坪の仏壇店。才蔵は小学生の時に両親と死別し、9年間家具店で丁稚奉公。23歳で独立して、仏壇の行商、出張露天販売を経験した苦労人だった。

そんな父の厳しい教育を受け、長谷川も小学生時代から店の陳列やローソクの販売を手伝う。当時の納品・配達はリヤカー。ある時は、30キロ離れた客に仏壇を納めるため、父のリヤカーを後押しした。今の時代には想像もできない苦行だ。

学業成績は常にトップ。しかし、当初、高校に行く気はなかったという。

「中学卒業して父の商売を助けようと思っていました。母も父も学歴は小学校しか出ていないが、素晴らしい両親だった。商売に学歴は関係ない。だから、自分も中学出ただけでも十分だと思っていました」。

長谷川は「親孝行のために」地元の筑豊高校へ進学。当時の筑豊高校は、毎年10数名の退学者を出すほど荒れていた。元来、正義感が強い長谷川は生徒会長に就任。学生側の要望を取り入れ、学校側に丸坊主制度を辞めて長髪OKにしたり、「世話になった学校を皆で綺麗にしよう」と全校での掃除を取り入れるなどして学校を改革。1年で高校は変わり、退学者もゼロになった。

「おこがましいが、リーダーと環境で人、組織は変わる。そう、確信しました」。

この一件で、長谷川は「自分に不可能はない、自分は先生よりも偉い」と思った。考え方、行動力、リーダーシップ、全てに自信満々だったという。

ところが夏目漱石の「こころ」を読み、愛する女性を友人にゆずる場面に衝撃を受ける。これは俺に出きるだろうかと悩み、もっと人間、国文学、哲学、命を学ぼうと、大学進学を決意する。

大学は京都の龍谷大学へ進む。親鸞が興し、西本願寺が経営する仏教の名門大学だ。ここで国文学を専攻し、3年次からは仏教学を学んだ長谷川は「改めて家業を継ごうと思いました。アメリカでは教会に行くが、日本では家の中に教会=仏壇がある。それは先祖が命がけで引き継いできた文化であり、最高の精神文化だ。何という素晴らしい職業。仏壇で日本一になろうと決意しました」。

事実、長谷川は大学を卒業する際、担当教授や友人知人に「日本一」宣言をしている。当時は仏壇と言えば京都で、何百年と続く伝統や格式が重んじられる世界。福岡の田舎青年の夢は、単なるホラとしか聞こえなかった。

 

■入社1年目に死者458人の大事件発生。

 

大学卒業の昭和38年、長谷川は家業である長谷川仏具店に入社。当時は石炭不況の真っ只中で、店のある直方=筑豊は落ち込んでいた。人口は最盛期の半分に減り、地元企業も次々に倒産。若い人間は故郷を捨て、ましてや大卒の人間は見向きもしない町だった。 しかし、長谷川は「何の迷いもなく」従業員6人の長谷川仏具店に入社する。

「尊敬する父と共に、仏壇を通して社会に貢献する。日本の心をつくる。強くそう思っていました」。どこまでも純粋なのだ。

入社のその年、世間的にも、はせがわにとっても大事件が発生する。大牟田の三井三池炭坑で爆発事故があり、458人が死亡するという大惨事があったのだ。仏壇屋にとっては絶好の商機。しかし、当時も今も、「人の不幸につけ込んで」という仏壇業界への偏見がある。座して待つのが常識だった。

しかし、入社したばかりの長谷川は三池鉱業所の厚生課長を訪ね、「仏壇を納めさせて下さい」と営業に行く。当然、厚生課長は「とんでもない。お前の商売の手伝いをしている場合ではない」と怒鳴り散らす。が、長谷川は少しもひるまず、言った。

「私は儲け本位でお仏壇を売っているのではありません。一家の大黒柱を失ったご遺族の方々は、これから何を頼りにして生きて行かれるのでしょう。ご遺族の心の中に残された、亡き方です。仏様です。その仏様をお祀りするのがお仏壇です。商売なんて考えていません。私が今日、伺ったのは、ご遺族の方の心を大切にしたいと考えたからなのです」。

熱意に打たれた厚生課長は遺族名簿を渡し、長谷川は遺族宅を一軒一軒廻った。そして地元の寺に仏壇展示場を開き、約2ヶ月も泊まり込んでの出張販売。結果は、今も語り継がれる伝説=超大型受注である。

後日、遺族が長谷川を訪ねに来た。

「その節は大変お世話になりました。あなたの”両親が揃っていても子育てには苦労されるのに、なおさらのことでしょう。しかし、必ず仏様が力になってくれますよ”と言われた言葉が今でも忘れられません。

あの時求めたお仏壇の前で、毎日のように”お父様はここにいるのよ。いつもあなたのことを心配してみています。だから、何でも報告しなさい。お父さんは一緒になって喜んで下さり、悲しんでくれますよ”と子ども達に言い聞かせてきました。亡き夫が、私たちの心の支えになってくれました。

おかげで息子も立派に成長し、今年、大学へ入学しました。これも仏壇が私達を支えてくれたから。仏壇のおかげで、夫がいつも私たちを見守ってくれました。あの時、あなたから仏壇を買って本当に良かった。有り難う」。

あれから13年が経っていた。しかし、この一件で長谷川は「この職業は素晴らしい。人のお役に立てて、尚かつ10年、20年後も感謝される。まさに私の天職だ」と思ったという。

 

■業界初のチェーン店、株式公開も果たす。

 

入社3年後には、製造部門の長谷川仏壇製作所を分離独立。小売りだけでなく、自社製造に乗り出す。そして、4年目には初のチェーン店である小倉店を出店。毎年のごとく、九州各地への出店を開始した。

昭和54年には関東に進出。今は郊外店の銀座となっているが、当時は「気が狂ったかと言われた」田舎道の国道16号線沿いに大量出店した。

また、昭和59年には「有名仏閣の改修工事は京都の業者がやるもの」という常識を覆し、西本願寺の阿弥陀堂内修復工事を受注。一般の仏壇だけでなく、高度な専門技術力があることを内外に轟かせた。

そして昭和63年には年商100億円を突破。その年に、業界初の株式上場(福証。平成6年には大証に上場)を果たし、名実共に一流企業へ脱皮をする。

 

■ユニクロより早い製販一貫体制

 

平成7年頃のアジアブームに乗り、中国やベトナムで飲食やアミューズメント事業に乗り出すが、現在はベトナムのビル事業等を除いて完全撤退の予定。逆に、この頃から手がけ始めた新規事業の墓石販売は、今では数十億単位の事業に育ちつつある。

長谷川は「頼まれると嫌と言えない性格」の為、今までも多くの人や事業に投資。失敗も数多く経験している。しかし、「志が正しければ、余裕の範囲で応援する」と、九州発の航空会社やアジアコンサルティング会社にも積極的に投資。「アジア進出では先輩」の元ヤオハン和田一夫氏が倒産後、経営コンサルティング会社を立ち上げたときも、長谷川が自ら名乗りを上げて顧問先の第一号となった。

財界活動にも積極的だ。昭和54年、39歳の時には日本青年会議所の副会頭を務め、43歳の時は独自の経営者団体「博多21の会」を創設し、会長に就任。また、福岡県中小企業経営者協会や九州ニュービジネス協議会でも要職を務める。

今や還暦を過ぎた長谷川だが、いわゆる地元大企業が中心の財界では若手。その為、長谷川の歯に衣着せぬ言動や、オーナーならではの行動は、時に既存財界や一部のマスコミから叩かれることもある。しかし、「あの私利私欲を超えたリーダーシップはマネできない」(石村萬盛堂・石村社長)という声も多く、若手経営者の期待は大きい。

経営的には、はせがわは「仏壇業界のユニクロ」である。それも、ユニクロが遙か世に出る前の昭和29年から小売業として自社工場を設立。昔ながらの職人が作り、古い仏壇店が売るという構造を変えた。事実、昭和45年当時には、業界平均で130万円の仏壇を、同質の物で59万8000円で販売している。

また、チェーン展開も早かった。昭和42年に本店以外で第2号店となる小倉店を開設。その後も、昭和40年代だけで11店、昭和50年代には36店もチェーン出店している。前述のように東京・関東圏への進出も早く、今や売上の3分の2は関東圏で占める。

 

■「日本の心をつくる」という天職

 

長谷川が入社した時、既に地元の仏壇店としては繁盛していた。しかし、人員は父親の他に清掃係の女性と運転手、職人のわずか6人。父の才蔵は既に57歳で、当時としては平均寿命。店は最初から長谷川の好きなように任せられた。それが今やグループで約1500人を抱える企業にまで発展した。

長谷川の入社は昭和38年。その後の高度成長時代はあったが、ここまでやれた秘訣は何なのだろうか。

「全ては両親のおかげです。特に父の影響が大きいですね。早くに両親を亡くした父は、小学校を出てから家具店に丁稚奉公していました。そして、仕事が終わってからも、電灯の灯りで勉学に勤しんだそうです。特に明治の豪商・渋沢栄一の実業講習録に感銘を受け、商人道を決意。9年半の丁稚を終えた後に、ゼロから仏壇の行商を始めました。

その時の父は23歳。一時は肺病で倒れ、悲観して自殺も考えたそうですが、露天商として復活し、全国を行脚。そして7年間の行商・露天の末、30歳で直方に店を持ちました。その間、戦争でスマトラやジャワ島と転戦。何度も入院を繰り返しながら九死に一生を得て、戦後を生き延びてきました。

その父を支えてきたのが母。母は奄美大島出身ですが、父と同じ露天商の店員で全国を回っていたときに出逢い、長谷川仏壇店を共につくってきました。

この素晴らしい両親に、私は人の道と商人道を叩き込まれました。すべては、両親のお陰です」。

長谷川の父、才蔵がなぜ、仏壇を天職として選んだのか。家具屋の丁稚奉公時代、様々な商品を配達したが、唯一、仏壇仏具だけは人様から感謝された。先祖を祀る仏壇を届けると家の人達は涙を流して喜び、帰りには尾頭付きの鯛までもらったという。

この経験から、才蔵は「仏壇販売は単なる商売ではない。男が一生を賭けるにふさわしい仕事だ」と決意した。そして、「今の自分があるのは亡き父と母のおかげ。親の恩、祖先の恩、その霊を祀って、仏壇に朝晩手を合わせることこそ、精神の支えであり、それが日本人の心である」と悟ったという。

この悟りを、才蔵は長谷川に小さい時から教え、小学生時代から店を手伝わせて商人道を教えた。小学生の長谷川の担当はローソクと線香の販売だったが、夏休みもなし。

「商人というものは、人が遊んでいるときに働くものだ。それは金儲けのためではない。休みの時はお客様が買い物に出る。そのお客様に便宜を与えるのが商人の務めだ」という。

また、店の周りの掃除の仕方では、塵や埃を店外に向けて掃くことを禁じた。

「店内に埃や泥が増えるのは繁盛している証であり、それを掃き出すのは繁盛を掃き出すと共に、お客様を掃き出すことになる。お客様が持ち込んで下さった塵や泥を大切に収めさせて頂き、感謝の気持ちを示すためにも、掃除は外から内に掃き込みなさい」。

その他「お店に立ち寄られる方はすべてお客様。たとえ、郵便配達でも、ご苦労様の挨拶を忘れてはならない」「お客様の前を横切ってはいけない」「金額の大小でお客様の分け隔てをしてはならない」「どんなに辛いことがあっても、お客様の前では絶対にそれを顔に出すな。常に笑顔で」「たとえ品切れだからといって、代用品を押しつけるな」「苦し紛れの言い訳や口返答は許されない」・・・・・・・。

これらの商人道を父・才蔵は毎日、小学生になった長谷川に徹底的に叩き込んだ。いずれも、単に儲かる商売の仕方と言うより、人として生きる道を説いたのだ。これを毎日休みなく365日も教育されれば、正しい商人として洗脳されないはずがない。

そして、長谷川も大学時代に仏教を専攻し、精神文化を創るという職業に、ますます目覚めた。仏壇とは感謝報恩の気持ちそのもの。こんな素晴らしい仕事はない。これが私の生きる道だと。

確かに、どんな悪人でも、先祖の仏壇の前に座ると心が静まる。感謝の気持ちが涌いてくる。長谷川にとって仏壇が天職というのは、その生い立ちと環境を考えれば、極めて当たり前の事かも知れない。

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