銀行からヤクザな世界へ

「都市銀行を辞めて、ヤクザな世界へ」

 

株式公開を目指す住宅リフォームのベンチャー

  • ホームテック(株)

代表取締役 小笠原良安

 

中学時代は番長→悪ガキ全寮制高校でボクシング→関西大学→三和銀行で全国トップ→住宅リフォーム会社へスカウト→’98年、仲間50人と独立

 

ホームテックは、福岡を本社とする住宅リフォーム企業。創業は’98年だが、’00に8億円だった年商は’01年には15億円と倍増。’02年は25億、’03年は40億を見込む。

’01年末には政府系のベンチャーキャピタル・大阪投資育成、VC大手の日本アジア投資、福岡シティ銀行系の九州キャピタル、西京銀行系のエスケイベンチャーズから出資を得て、早ければ’04年のナスダック上場を目指す。

主力は一戸建て住宅の外壁ペイント。住宅リフォームは、2010年には10兆円市場になると言われる数少ない成長市場。しかし、現状は小規模な業者が多く、トラブルも多い。新築住宅に比べると単価も低く、大手にとっては鬼門の業界。「だからこそ、我々のような後発でも、無限の可能性がある」(小笠原社長)。元番長で銀行出身という異色の経歴。

 

■中学時代は番長で、補導歴20回。

 

’98年の秋、小笠原の携帯電話が鳴った。「至急、新大阪駅に来て欲しい」。電話は、当時、小笠原が務めていたリフォーム会社の支店長からだった。行くと、全国22支店のトップ支店長5人が揃っていた。小笠原の当時の肩書きは取締役社長室長。

「今の社長には着いていけない。僕たちはもう辞めます。しかし、アンタには世話になった。だから、挨拶だけはしておこうと思った」。

「これからどうするんだ?」。

「皆で独立してやろうと思っている」。

「君たちは営業は出来るかも知れないが、会社経営というのは大変だぞ。そんな馬鹿なことは辞めろ」

「じゃあ、アンタが社長になってやってくれ」。

この2カ月後、小笠原は会社を辞めて社員達と独立。総勢50人もの大独立劇だった。

「独立はぼんやりとは考えていたが、こんな形でやるとは思わなかった。ミイラ取りがミイラになったという感じですね」。

小笠原は昭和39年、静岡生まれ。父親は貿易会社、母は美容室の経営という商売人の家に生まれる。長屋のような家続きの環境で育ち、「両親が共働きだったため、いつも近所の家を泊まり歩くような生活だった」。父親は、日焼け止めのシーブリーズを日本で初めて輸入販売するなど、一時期は地元でも有名な商売人だった。

しかしある日、小学生だった小笠原が帰宅すると、何か札がベタベタと貼られて家に入れない。父の事業が傾き、家や家財を差し押さえされたのだ。

「子供心に怒りがこみ上げ、取り立てに来た税務署員の頭に、煮えたぎった味噌汁をぶっかけました」。

この原体験が、後の小笠原の事業意欲に火を付けることになる。

中学生時代は荒れた。何がそうせたのかわからないが、小笠原は喧嘩ばかりしていた。通っていた学校の番長となり、ついに静岡県下の総番長を決める決戦にも参加。警察の一斉補導で止められるが、中学時代は約20回ほど補導されたという悪ガキだった。

当然、公立高校には進めない。親が県内を探しまくり、何とか入学したのが全寮制の高校。そこは県下のどうしようもない不良が入る高校で、卒業までには生徒の約半分が退学していた。毎朝6時起床で掃除、丸坊主と厳しい校風。有り余るパワーを発散しようと、小笠原はボクシングを始める。

そのロードワーク中に、可愛い女の子を発見。そのまま、後を着いていくと大学進学のための塾だった。当時、小笠原は大学など考えたこともなかったが、その子が行くと言うことで小笠原も進学を決意。数ヶ月の勉強で、運良く関西大学法学部に入学する。

しかし、法学部の講義本を読んでも全くわからない。それまで全く勉強してなかった小笠原は、自らの知識のなさに愕然とし、法律討論部に入部。高校までとは一変し、毎日図書館で猛勉強。なんと在学中に司法試験の一次試験に受かった。就職は「いろんな業界が見れるからいいかなという程度で、最初に内定貰った」三和銀行に入社する。

 

■銀行時代は5年連続日本一。

 

入行後は、窓口貸付・審査・為替など経て、福岡支店に配属。法人の新規開拓営業となる。ここで、小笠原は平均営業マンの約10倍の業績を上げ、5年連続、全国4000人の営業マンで新規粗利額トップとなる。

小笠原の営業方法は一風変わっていた。支店のゴミ箱に捨ててある資料などを漁り、これはという企業を探して訪問。そして、担当企業には寝袋を持って泊まり込み。社長や社員の実態を把握し、社内の伝票をしらみ潰しに洗ったりした。

ある外食企業の再建では、出入りしている大手ビールメーカーの役員に直談判。外食企業に3億円の債務保証をさせて系列のコンサルタントを送り込み、アッという間に、倒産の危機から救った。同様に、様々な業界の企業を蘇らせ、結果として銀行の窓口には小笠原詣での客が行列をつくるほどになったほどだ。

こうして、頭角を現した小笠原は、本社の営業本部に昇進し、NTTやJRなどの超大企業を担当。その後は、大蔵省を担当するMOF担に昇進する。

当時、MOF担は東大や京大出身者がなるのが常識で、私大出身では珍しかった。社内的にはエリート街道を上り詰めた小笠原。しかし、「毎日がお役人の接待ばかり。銀行の限界が見えて」辞表を出す。一年ほど引き留められたが、もはや銀行に未練はなかった

■スカウトの電話でリフォーム業界へ。

 

何をしようかとブラブラしていたある日、人材スカウト会社から電話があった。ある会社からの依頼だったが、聞くと福岡のよく知った住宅リフォーム会社。小笠原が三和銀行の福岡支店時代、つき合いがあった社長からだった。「後継者がいない。次期社長としてやってほしい」と。

当時、小笠原は転職先として、次のような条件に当てはまる業界を考えていた。国の規制がない、許認可が要らない、市場の将来性がある、大手が参入しない・・・etc。該当する業界の一つが住宅リフォームだった。

入社に際して、小笠原は2つの条件を社長に提示した。1つは、私利私欲を超えたパブリックカンパニーにすること。社長の財布の札束を厚くするのが目的ではなく、公明正大にする。2つ目は、お客を騙さないシステムをつくること。今も昔も、リフォーム業界は営業方法や施工に問題が多い。見えないところで手抜きをするのは当たり前。社員が正々堂々と自分の会社名を名乗れるようにしようと。

しかし、入社後も散々話したが、何も変わらない。オーナーはロールスロイスやベンツを何台も乗り回し、悪徳な営業方針も変えない。社員に対しても、気分次第で降格や減給を平気でする。

そういう悶々としていた時期に、冒頭の新大阪事件があり、小笠原は社員50人と集団で独立することになる。

 

■資金繰りに悩み、学資保険も解約

 

独立に際しては、前の会社やそれまでの業界の常識を反面教師にした。①出荷証明書の発行。外壁塗装業界では、規定の塗料を10倍に薄めるのが常識。それが現場で出来ないよう、メーカーから顧客へ直接、塗料の出荷証明書を送らせるようにした。②10年保証の実施。それまでは保証なし又は5年保証を、業界初の10年保証にした。③最高品質塗料のフッ素を採用。原価は高いが、フッ素は他の2~7倍の耐久性がある。④10年間の定期点検を実施。施工後はアフターフォローなしの業界常識を改め、10年間半年に一回点検保守をする。

他にもあるが、要はお客さんにとってウソのない営業方法と商品、施工、保守点検システムをつくり、それをすべてオープンにしようとした。

また、会社の経営も全てガラス張りにしようと、設立当初から株主を一般公募。株主には冒頭のVCの他に、明太子のふくや社長、ランチェスター経営の竹田社長、中洲の超繁盛ブティック「アルタモーダ・アベ」安部店長等、約50人が名を連ねる。

こうしてスタートしたホームテックだが、当然、創業時は大変だった。いくら創業メンバーとはいえ、一般社員には毎月固定給を払わねばならない。しかも、気楽な個人ではなく、大所帯での創業は、当然運転資金も膨大だ。

幸い、一騎当千の営業マンばかりだったので、2カ月目には単月で黒字転換。当初の営業所開設費用は数ヶ月で回収できるものと思われた。しかし、その半年後には資金繰りがショート。小笠原は全財産をつぎ込み、資金繰りに走り回った。当然、自身の給与はゼロの日が続く。知り合いの経営者から数百万円を借りたり、支払いに自分のマンションの権利証を差し出したことも。創業1年目の頃だ。

「あの頃は毎日が資金繰りの戦争で、毎晩会社に泊まり込み。頭には白髪が増え、10円ハゲも出来ましたね。家に生活費も入れられず、子供の学資保険も解約しました」。

しかし、結局、対外的には一度も未払いはなく、難局は乗り切った。今では実質無借金経営で銀行や取引先の信用も厚く、経営は安泰だ。

 

■脱落者だからチャンスがある

 

「この業界は、いかに人を育てられるかなんです。求人をしても、リフォーム業界はイメージが悪く、来るのは脱落者ばかり。何も成功体験がなく、勝手に自分の限界を決めている。そういう吹き溜まりがこの業界の実態なんです。非常に泥臭い。

でも、だからこそチャンスがある。大手やエリートは、本気でこの業界では働けません。ウチは、基本的に応募者は全員入社させます。丸3年を過ぎて、社員教育の体制も徐々に整ってきた。特別な経験や知識は不要。中卒や高校中退もOK。事実、50代の女性で月収100万円以上の実績者もいます。

本人に小さな成功体験を積み重ねさせ、自分にもできるんだという自信を持って貰うこと。そういう社員をどれだけ増やせるかが勝負です。

ITの時代でも、この業界は永遠に労働集約型産業。最初の予感通り、この業界にはまさに巨大な金脈が眠っていることがわかった。銀行を辞めて、本当に良かったですね」。

三和銀行を辞めた時は、親は泣き狂ったという。そりゃそうだろう。昔は不良の番長が、大学を出て銀行にまで勤めるようになった。それがわけのわからないリフォーム業界とは。

しかし、まさに現在のリフォーム業界はまだまだ近代化が遅れ、荒くれ業者同士、群雄割拠のなわばり争い状態。昔、番長だった小笠原には、実は格好の職場だったのだ。業界の総番長になる日も近い。

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