過労で倒れて

「過労で倒れ、組織を持とうと思いました」

 

九州NO1の宅配すし

  • ふく鮨本舗の三太郎/(株)ドゥイットナウ

代表取締役社長 蔀 章

 

大学中退→自衛隊→マクドナルド→テープ教材販売→経営コンサルタントを経て鮨事業へ

 

■2005年の株式公開を目指す

 

蔀(しとみ)が代表を務める(株)ドゥイットナウ:店名/ふく鮨本舗の三太郎(以下、三太郎)は九州最大の宅配すしチェーンだ。

創業は’94年だが、既に福岡・東京・沖縄・広島等に約35店舗を展開し、年商は’02年6月度で約20億円。日本アジア投資等のベンチャーキャピタルや旅行会社HISの澤田社長ら約100社から出資を受け、2005年の株式公開を目指している。

全国的な宅配・回転すしブームに乗り、この数年、九州・福岡には東京・大阪の大手約40店が出店したが、結果はその大半が撤退した。原因は三太郎チェーンの圧倒的な強さだ。

東京などの大手宅配すしチェーンは、その大半がFCで出店する。それに対し、三太郎は福岡市内だけでも約20の直営店があり、市内の宅配すし市場の約50%を押さえている。 他店のFCが出た場合、三太郎はそのFC店のエリア限定で「すし半額」や「太巻1本50円」チラシを投入。かつ、他店が単にチラシを新聞折込するのに対し、三太郎は全社員総出でドアコールする。

また、三太郎では毎月2000枚の顧客アンケートハガキを収集・分析。大手のように、決まったマニュアルを踏襲するのではなく、商品やサービスをエリア毎に常に改良している。

食材面では九州一の仕入力を活かし、ほとんどを問屋を飛ばして産地・製造者から直接

仕入れる。結果として、三太郎の原価は他店よりも10ポイント以上低く、他店との競争に負けない。社員教育も徹底されており、「あそこはうちの3倍は働く」(市内同業者)。

結果として、福岡へ進出した大手のFC店は、過去1年以内で撤退、というか三太郎に撤退させられている。

■精神病院・自殺未遂・自衛隊

 

蔀は昭和32年、北九州の日本電信電話公社(現、NTT)に勤めるサラリーマン家庭に生まれた。小中学校時代は完全な劣等生。生まれつき頭デッカチで手足が短く、野球がヘタクソでよく虐められたという。結果として喧嘩もよくやった。勉強もせず、親が「この子はおかしい」と精神病院へも2度連れていった。

高校時代は中学までの反動か、学校でも目立たない生徒だった。何もせず「俺は何のために生きているのか」と悩み、しばしば胃潰瘍や十二指腸潰瘍になる。そして、なんと手首を切る自殺未遂も3回。成績は相変わらず下の下。国語や社会はクラスで一番だったが、他は赤点ばかりで周りからは馬鹿呼ばわりの日々だった。

大学受験では岡山大学に落ち、予備校へ。生まれて初めて勉強に取り組み、五木寛之「青春の門」に憧れて早大を受けるがまたも不合格。しかたなく、学習院大学へ進む。

東京での下宿生活が始まり、「それまで親のコントロール下だったのでうれしかった。自由を満喫しました」(蔀)。しかし、またまた学校へは行かず、女や酒の日々に明け暮れる。その実態を知った父親から「お前は最低の人間だ。性根から叩き直さんといかん。自衛隊にでも入れ! でも入りきらんやろうな」といわれ「入ってやる!」。大学生活にも意味を見いだせなかった蔀は、売り言葉に買い言葉で自衛隊に入隊した。

中途入隊の蔀は当時20歳。高卒で18歳の先輩から命令され、九州から北海道まで配属先を転々とし、柔道や極真空手で鼻や歯も折られる日々。彼女に会うため、月に1度は東京へ通うが、またも「俺は何をしているのか?」と迷い、意を決してレンジャー部隊(ゲリラ対策等、非常時の特殊工作部隊)に転属を申し出る。

そこはさすがに訓練が厳しく、肘で歩伏前進4キロという日々で「あの時は訓練中に死ぬかも知れない」とも思ったという。

 

■日本マクドナルドに中途で就職

 

訓練の合間に、東京の知人宅で就職用リクルートブックを見て、たまたま開いたページに載っていたのが日本マクドナルド。「行動力×情熱=店長」というコピーと、友人の「ここは忙しくて寝れない仕事だよ」という一言で転職を決めた。

自衛隊では3日間の徹夜なんて当たり前で、体力には自信があった。また、自衛隊は防大出身者と他の明確な区別があり、先の楽しみがなかったという。

マックには10年間勤め、その間なんと10回転勤した。小倉店を皮切りに、沖縄、名古屋、北海道などを転々とし、入社2年半で店長になった。当時は入社10年で店長の時代。異例の早さだ。

「当初配属された店で、先輩から厳しく指導を受けたが、その先輩は僕より年下でなんと高校生のバイト。この野郎、負けてたまるか!と燃えましたね」。

2週間でその「先輩」を抜き、自衛隊で鍛えた行動力でメキメキと頭角を現す。店売りだけでなく、周囲のラブホテルやオフィスに出向いて営業活動をしたり、渋滞で駐車中の車からも次々に注文を取った。名古屋では30坪で月商1億円を達成し、店別ランキングで日本一を記録。社員・アルバイト含め約500人の部下を持つまでになった。

「多くの部下が出来、背中を見られていると気づいた25歳位から自分が変わってきました。マックでは本当に多くのことを学ばせて貰いましたね」。

 

■最初の独立。経営コンサルタントへ

 

以上のように、マックで好成績を上げた’89年、蔀は交換留学生として1カ月カナダへ。

それまでは独立などは考えたこともなかったが、カナダで会った人達の多くが将来の起業を考えていることに触発される。

「その時に今後の人生を考え、このまま人に使われるのではおもしろくない。よし、会社を辞めて独立しようと考えました」。帰国後、マックかモスバーガーのFCで独立を考えたが、当時のマックはFC制度がまだ整っておらず、店舗も大型で金がかかった。結局、モスバーガーを47店回って調査し、モスのFCをやる事に決めた。

そして’90年、33歳の時に会社を辞め、福岡へUターン。モスのFCとして独立準備を始めていたが、ある先輩から「ラーメン屋のマニュアル作りを手伝ってくれないか」と頼まれたのをきっかけに、経営コンサルタントの道へ入る。

と言っても、現場を知らない若造の言うことを、ラーメン屋がまともに聞くはずもない。蔀は毎日、店の厨房に入り、自ら麺の湯切りを何百回もやりながらマニュアルを作成。体当たりでぶつかる姿勢が徐々に評価されるようになる。

しかし、形のないコンサルティングは新規の顧客を獲得することが難しい。それまで営業経験のなかった蔀は、勉強のために成功哲学・ナポレオンヒルの教材販売代理店に加盟。当初はまったく売れなかったが、感性コンサルタントの夏目志郎氏やランチェスター経営の竹田陽一氏との出逢いで才能が開花。’91年には、代理店で個人成績日本一となる。

その後は独自の研修プログラムを次々に開発。約4年間で約130社・8000人の営業研修を行う。最盛期は一人で月収600万を稼ぎ、酒と女とベンツの日々も送ったという。

 

■すし宅配で2度目の独立

 

そんな絶頂期、蔀は研修の講師をやっている最中に突然、過労で倒れた。一人で何社ものコンサルを請け負っていたが、社業は休業状態に追い込まれる。その後の仕事予定もキャンセルを余儀なくされ、収入もゼロとなった。

「コンサルや研修講師は職人芸。自分がいなければ成り立たず、一人でやるビジネスの限界を感じました。それをきっかけに、組織でやれるビジネスをやろう、自分が現場にいなくても廻る仕組みを作ろうと思いました」。

コンサル時代の経験を活かし、様々な隙間ビジネスを調査。マックの経験もあり、自ら食べることが好きだったので、業界は飲食業に決めた。

そして最終的に、ラーメン、カレー、すしに絞った。どれも国民食として人気があり、流行廃りがない。しかし、ラーメンは「博多一風堂」、カレーは「カレーココ壱番屋」という強力な先発チェーンがあり、すし業界に照準を合わせることにする。

ある時、蔀がすし屋で食べていると出前の注文が入った。すると、主人は冷蔵庫を開け、蔀が食べているネタとは違うものを取り出して作り始めた。聞くと「出前は残り物で充分なんだよ」。蔀の頭の中でピンと来るものがあった。

すし業界は職人ばかり。値段も高くて不明瞭だ。さらに出前を頼んでも時間通りに来ない。勉強せずに威張っている。ましてや、出前のネタは残り物を使う風潮があった。

「よし、すしにしよう。それも出前=宅配専門なら設備に金がかからないし、ピザのように企業化できる。泥臭い仕事だから、大企業も本気で参入できない。

元々すしは大好きで、カレーやラーメンと比べても唯一、連日の食べ歩きで飽きなかった。宅配すしで企業化=組織化をしようと決めました」。

’94年、蔀章37歳の夏、起業家として2度目のスタートを切った。

 

■O157によるピンチが飛躍のバネに

 

すしをやると決めたはいいが、作った事はない。地元百貨店の岩田屋で買ってきたすしを分解したり、すし屋で作るのを観察。果ては料理の本を山ほど買い込み、毎日が手作りずしの日々。コンサル収入はすべてすしにつぎ込み、子供の学資保険も解約した。

見よう見まねで「とても鮨とは言えないオニギリのような代物」だったが、当時は宅配専門店は珍しく、明朗会計でハキハキした対応が受けた。月商もいきなり300万円を超え、順風満帆なスタートを切ったかに見えた。

しかし、締めてみると毎月の赤字。単独店舗では仕入れも高く、かつ、他店よりも安い価格で宅配していたため、利益が出ないのだ。早急にチェーン展開をしなければ規模のメリットは出ない。創業から1年半は給与も取らず、保険も解約。子供の学資保険からも金を借り、組織化のための準備に没頭した。

こうして蔀は現場の実践を繰り返しながら、マニュアルを徐々に構築。2年目の’95年には福岡市内と北九州に5店をオープンし、3年目の’96年にはFC2店を含めてなんと10店をオープン。自衛隊・マック時代の体力と、コンサル時代の社員・アルバイト研修、経営管理力を活かして破竹の勢いで突き進んだ。

しかし、好事魔多し。いきなり日本中を襲ったO157事件が発生。生ものを扱う飲食業界は大打撃を受け、三太郎も夏場は売上が激減した。積極的な店舗展開が裏目に出て、会社は資金繰りに行き詰り、蔀は創業依頼の大ピンチを迎える。

つき合いのあった銀行やリース会社も、手のひらを返したように融資をストップ。またも自身の給与はゼロにして、毎朝、店を廻っては前日の売上金を支払いに充てた。自宅の家計も火の車。再び学資保険を解約し、それでも食費が賄えないために、店舗の米や食材を拝借する日々が続いた。そんな状況を見かねてか、ある時は社員が集まって約400万円を会社に融資してくれたこともあった。

しかし、ついに資金が底を尽き、明日はサラ金を廻ろうかと決断をしたその日、顧問のランチェスター経営・竹田氏よりアドバイスの電話を貰う。

「あなたのような成長企業の場合、銀行によって見方や融資条件は大幅に違う。地場銀行だけでなく、業績の良い他県地銀の福岡支店を当たってみてはどうか」。

早速、取引先の三洋電機九州から紹介を受け、山口銀行を訪問。すると運良く、間一髪のところで2000万円の融資を得ることに成功した。また、時を同じくして、大手ベンチャーキャピタルの日本アジア投資からも出資を受け入れる。これが、きっかけで、会社を株式公開・上場へと目覚めさせることになる。

5年前からは累計約3億円をかけてコンピュータシステムを開発した。宅配の顧客データは約100万件に登り、そのうち約20万件は誕生日まで把握。ワントゥワンマーケティングを駆使し、毎月約2万通の「誕生日おめでとうハガキ」は約50%のヒット率を誇る。

 

■独立のための就職・転職大歓迎!

 

O157危機を乗り越え、宅配すしを急速に店舗を拡大したドゥイットナウだが、2000年より取り組んだ新規事業の回転すしでは失敗した。一気に市場を抑えようと、福岡市内にわずか1年で7店もの回転すしを出店したが、2店を除くと大赤字。立地の選定も誤ったが、宅配と回転すし店舗では勝手が違い、従業員教育が追いつかなかった。

早くも出店1年後の2001年には赤字店舗を次々に閉鎖し、同業他社に設備を売却。事実上、回転すし事業からは撤退した。

「あの決断力、行動力が彼の凄いところ。宅配と違い、回転すしの店舗は目立つ。私もリストラ経験があるから分かりますが、普通は見栄もあってなかなか店を閉められない。

今回の撤退の早さで、私は逆に彼を見直しました」(石村萬盛堂・石村社長)。

回転すしのリストラに目途をつけた2001年後半からは、強い宅配でFCの全国展開をスタート。「ドゥイットナウは激戦区の福岡宅配すし戦争を勝ち抜き、直営のシステムでは日本一」(船井総研・大浦取締役)の噂は瞬く間に全国に広がり、1年で東京、沖縄、広島に10店のFCがオープン。現在は全店約35店舗だが、この5年で200店体制を目指す。

すし業界は安定した市場があるが大企業が進出しにい。また、技術や資本力ではなく、人材力がすべてともいえる。その点、8000人の研修経験がある蔀の力は無尽蔵だ。

「株式公開・上場へ向けて、まだまだ人材が足りません。新卒、中途に関係なく、意欲のある人は遠慮なく応募してほしい。マネージャー、幹部を目指す人はもちろん、近い将来に独立・起業を考えている人も大歓迎。当社でビジネス・経営を勉強して、どんどん経営者になってほしい。

経営や独立の仕方は教えます。60代からの人生を謳歌するために、若いうちの冒険=アドベンチャーをしましょう。応募を待ってます!」。

[第十章]バカは海外放浪に学ぶ

長引く不況や就職難で、海外へ脱出する若者や社会人が増えています。中には海外留学でMBA等を取得し、ビジネスエリートとして活躍する人もいますが、大半は単なる観光地の海外旅行や語学留学です。しかし、人によっては、人生を変える出逢いやチャンスに遭遇します。無目的で当てのない海外放浪の旅でもいいではないですか。日本での先入観やしがらみを捨てたとき、自分の新しい可能性を発見することがあります。

「食えるボランティア事業」を提唱し、全国の大学で起業講座を行う「市民バンク」代表の片岡さん。片岡さんは慶応大学を卒業後、三菱信託銀行に入社。銀行の激務の傍ら、労組委員長や国会議員の管直人を支援する市民運動に没頭しました。38歳の時に銀行人生の先が見えて燃え尽き退社。しかし、それまでの活動で得た約2000枚の名刺と人脈があるので何とかなると思っていました。

ところが、イザ銀行を辞めると電話も来訪者もなく、いかに自分が肩書きだけで生きてきたかを痛感。ノイローゼになり、逃げ出すようにアジアへ放浪の旅に出ます。

そして、タイの山中で高熱と空腹で瀕死の状態になり、現地の農民に助けられます。貧しい農民達は大事な鶏を料理するなどして、片岡さんを介抱。何の見返りも要求しない農民達に片岡さんは感激し、人生観が一変します。この一年間の海外放浪経験がきっかけで、片岡さんは帰国後に「第三世界ショップ」を創設。発展途上国の雑貨品等を輸入販売し、その収益の一部を途上国の援助に当てるというコンセプトが支持され、提携ショップは全国200ヶ所にまで広がりました。その後は「市民バンク」や「女性のための起業スクール」を開催し、今までに1000人を超える市民事業家を輩出しています。

企業や大学の国際化支援ビジネスでNO1のアルク教育社。最年少取締役の鬼塚さんは、福岡大学を卒業後、ヤマハ発動機に就職します。しかし、2年後の25歳の時に「人生は一度だ。人生の25周年記念として世界25ヶ国を回ってみよう」と突然退社。佐川急便のバイトで資金を貯め、オートバイで世界を放浪する旅に出ます。野宿を繰り返し、原野を剥き出しの身で疾走する旅は過酷そのもの。気がつくと5年間も日本を留守にしました。

帰国後、就職活動をしますが、当然、大企業はどこも元放浪者を拒否。何とか小さな語学研修会社に潜り込みます。その後、スカウトされてアルク教育社の創業に参画。’93年に一人で福岡支店を立ち上げ、わずか3年で会社を九州一に導きます。実績が認められ、2001年には西日本支社長に就任。2002年には最年少の取締役に抜擢されました。

現在は、国際化を図る企業・大学への語学や異文化研修を実施。単なる英会話研修等の枠を超えて、海外と対等に渡り合える地球人の育成に尽力しています。まさに、5年間の海外放浪で身につけた行動力と、体当たりの英語力がビジネスにも活かされたのです。

海外で直接、ビジネスのヒントを見つけた人も多数います。発行部数1500万部、日本一のフリーペーパー「ぱど」は、社長の倉橋さんがアメリカ滞在中に目にした個人広告紙がきっかけ。サニックスも、宗政社長が20代前半で無職の頃、アメリカ放浪中に環境衛生の先進企業を見学したのが転機。リクルート社の「リクルートブック」は、創業者の江副さんがアメリカ放浪中に見た就職雑誌をヒントに創刊。「ドトールコーヒー」の鳥羽社長は、高校中退後にブラジルのコーヒー農園で3年間労働。豆の卸売りをしていた’72年、ヨーロッパで目にした喫茶チェーンがヒントになりました。

スーパー、コンビニ、外食産業、人材派遣、コンピュータ・・・今も昔も、新しいビジネスのほとんどは海外からのものです。「第三世界ショップ」も、片岡さんがノルウェーで寄った店がヒントです。日本はマスコミが発達し、皆が他人と同じ新聞やテレビを毎日見ています。だから、新しい発想や生き方はなかなか発見できません。人生に一度くらい、日本を捨てて「未来の自分を探しに行く」旅は必要なのかも知れません。

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