親の破産を乗り越えて

「家が破産。同級生に勝つには社長になるしかない!」

 

倒産寸前から完全無借金の警備会社へ

  • 日本ガード・サービス(株)

代表取締役 市川善彦

 

実家が倒産・破産→高校中退→商店店員→書籍セールス→警備員→自衛隊→警備員→24歳で独立

 

日本ガードサービスは従業員約130名を抱える警備会社。業界では地場中堅だが、完全無借金経営で流動比率は400%を超える超優良企業だ。大企業系列の警備会社が多い中、市川社長は24歳時に独立独歩で創業。著書に「私はこうして倒産寸前のオンボロ会社を資金繰り無縁の完全無借金経営に育て上げた」(明日香出版社)他があり、年間約100回の講演・講師も務める。

 

■実家が破産。高校を中退して東京へ。

 

市川は昭和27年長崎県佐世保生まれ。父親は終戦直後に米軍向けのブローカーを細々とやっていたが、市川が生まれた頃には朝鮮戦争の特需も受けて事業が大発展。不動産業に高級料亭やナイトクラブを7店、他には金融業をも経営していた。

しかし、父親は私生活も破天荒。愛人を12人抱え、本宅に戻ってくるのは年に1~2回だった。実は市川はその愛人の1人の子供で、未だに実母は不明。生まれてすぐ里親に出されていたが、本妻に子供がなく、2歳の時に引き取られて育った。

家の部屋数は10を超え、庭には滝があるほどの豪邸でお手伝いさんも沢山。「親父が店で、バケツに金を足で踏んで入れていた」ほどの生活ぶりだったという。

ところが市川が中学3年の時、家に帰ると大勢の男が母を囲んで怒鳴っている。父親が倒産して夜逃げし、債権者が押し掛けていたのだ。その後も父親の所在はわからず、全財産を没収された市川と母親は一気に極貧生活に陥る。

市川は何とか県立高校には進んだが、没落した元金持ち息子への視線は冷たい。病弱な母親に負担をかけたくない、食いぶちを少しでも減らしたいと、市川は高校2年で中退。単身、東京へ行く。

「進学校だったので同級生は皆、大学を目指していました。でも、こっちは学費も払えず、働くしかなかった。高校中退では地元で恥ずかしい。いっそのこと、東京へ出ようと思ったのです」。

この時に、市川は22歳迄に警備会社を設立し、社長になるという目標を立てる。「進学校を中退するということは、完全な落ちこぼれです。しかし、大学に行く同級生には負けたくない。だから、彼らが大学を卒業する22歳迄に、俺は社長になると決めたんです。

警備会社を考えたきっかけは、当時、流行っていたTVのザ・ガードマン。当時の日本警備保障、現在のセコムがモデルでしたが、今で言うベンチャーで格好良かった。子供心に単純に憧れ、俺もガードマンになろうと思いました。

失敗はしたけど、社長だった頃の親父は凄かった。社長なら学歴は関係ない。大卒の奴らに使われるのではなく、社長になって、同級生を見返してやろうと思ったんです」。

 

■給与は大卒の半分。今に見てろ

 

市川は寝台特急「さくら」で東京に向かう。そして、電車の棚にあった週刊誌の求人欄を見て、東京駅から渋谷の小さなスーパーへ電話。住み込み店員として働き始める。

昭和43年の当時はスーパーの成長期。市川も1日13時間労働で、休みも月に3日のみと猛烈に頑張った。しかし、市川の給与はわずか2万円。同じ店の大卒社員は4万円で、学歴社会の現実に直面する。

「クソーと思いました。自分の方が働いているのに、あいつらの半分かと。悔しかった。思いましたねえ。今に見ていろと。でも、私には社長になるという目標があった。大卒の連中は4万円全部使うが、私は生活を切りつめて1万円で生活。半分をコツコツ貯め始めました」。

スーパーは半年で辞め、その後は昼は書籍等の物販セールス、夜は警備員の2重生活に突入。3畳一間の自宅を拠点に1日20時間労働を続け、やはり収入の半分は貯蓄に廻した。

19歳の頃には約100万円を貯め、市川はもっと手っ取り早く稼ぐ方法はないかと画策。当時、流行り始めたカラオケリースの事業に投資する。ところが、仲介に入った悪徳業者に金を持ち逃げされてスッカラカンに。

「奴らにしたら、10代のガキを騙すのは赤子の手を捻るようなもんだったんでしょうね。濡れ手に粟なんて欲を出した自分も悪い。おいしい話には罠があると学びました」。

しかし、市川は独立を諦めず、次は自衛隊に入隊する。

「自衛隊は究極の警備会社ですから、その組織やノウハウを学ぼうと。また、衣食住は保証されますから、給与は全部貯蓄に回せる。弛んだ自分に渇を入れるのにもいい。

もう一度、一から出直そうと思いました」。

 

■24歳で独立。会社に寝泊まりの日々。

 

自衛隊では地道な勤務態度が認められ、ノンキャリアながら幹部コースの道が開けるまでになる。しかし、高校中退では、最後は大卒のキャリアから顎で使われる。市川は当初の目的を果たそうと21歳で除隊。佐世保に戻り、独立計画を練り直した。そして、九州で市場が一番大きな福岡で起業することを決意。福岡の警備会社に転職して、マーケットや同業他社を調査した。

昭和51年、24歳で日本ガードサービスを創業。事務所は10坪の雑居ビルで、資本金は250万円。市川が150万円を出資し、残り100万円は前の会社から連れ立った53歳の副社長が出資した。当初の22歳迄という目標には2年遅れたが、社長になるという夢は叶った。

しかし、当初の人員は自分と副社長の2人。市川は昼は営業に走り回り、夜は自ら警棒を持って現場に立つ。そして、徐々に人員を増やし、1年後には何とかやれる目途が立つようになる。

 

■父が現れ、借金をかぶる

 

ところがある日、裁判所から呼び出しがある。行方不明になっていた親父が実印を偽造し、市川の名前で数千万円の借金を踏み倒していたのだ。

最初は無視したが、たちまち市川の家財は差し押さえを食らう。弁護士を立てる費用もなく、自ら10数回も裁判所へ通うが親父の借金は事実。会社を始めたばかりで自己破産するわけには行かず、結局、市川は借金を肩代わりすることになる。

時はオイルショック後の昭和52年。不況で警備の受注価格も下がり、本業も火の車に。資金繰りに走り回るが、サラ金にまで融資を断られる始末。市川はアパートを引き払い、会社に寝泊まりするようになる。そして3日間連続36時間働いたり、食事は百貨店の試食コーナーを回った。

警備会社は人が財産で、社員への給与支払いは最優先事項。遅配があればすぐに社員は辞めてしまう。市川と副社長は給与をゼロとし、あらゆる経費を徹底的に削減した。

昼間は会社の電気を消し、移動は徒歩か貰い物の自転車。新聞は電車の棚から拾い、チラシの裏をメモ用紙、ボールペンは替え芯で使用。役員も、暇があれば現場に出て警備にあたった。交際費もゼロ。湯飲みも貰い物。珈琲やお茶も購入せず、エアコンは扇風機で代用。机も椅子も、備品類は全て中古のバッタ品か質流れで調達した。

こうした努力が実を結び、バブル時代も会社はローコスト経営を死守。警備料金は他社よりも安く、質やサービスは高いという筋肉質の会社になった。

’89年の福岡市主催の大規模イベント「アジア太平洋博覧会」では、同業200社の中でわずか6社のメイン警備会社にも選ばれ、現在の完全無借金経営を確立した。

親父から被った個人的な借金も2000年に完済。現在は、小さいながらも3階建ての自社ビルを保有し、会社の内部留保は1億円を超える。

 

■「半分の法則」で全国に講演。

 

’98年からは、「小さな会社の社長業」「儲かる経営計画書のつくり方」「私はこうして倒産寸前のオンボロ会社を資金繰り無縁の完全無借金会社に育て上げた」(いずれも明日香出版社)と、自らの半生と経験をまとめた本を次々に発行。全国各地の中小・零細企業経営者を対象に、講演活動も行っている。

市川が講演で一番最初に話すのは「半分の法則」。これは景気に関係なく、どんな時も実力の半分の経費で抑えようというもの。市川は、スーパー店員時代給与2万円のうち1万円しか使わなかったように、その後の転職や独立してからもこの方針を貫いている。

自社ビルも6階建てを購入する実力はあったが3階建てに抑え、自家用車もクラウンではなく軽自動車。独身時代の自宅も6畳を3畳借間にし、年収数千万円の今も、時計は8000円の物を使用。本社事務も、同業他社の約半分で運営している。

「社会に出た時から貧乏で、その後も独立時、独立後と金が無く、そうせざるを得なかった。それと、やはり父親が最大の反面教師ですね。商売で成功し、放蕩の限りを尽くして最後は一家離散。バブル時代も父のような放蕩社長を山ほど見ました。足を知ることが一番大事です」。

 

■娘の死で感謝に気づく。

 

父親は晩年、脳溢血で半身不随になって市川の家に担ぎ込まれ、市川の妻が介護をした。市川にとって父は憎しみの対象でしかなかったが、寝たきりの父を献身的に介護する妻の姿を見て、親孝行の大切さに気づいたという。

高校中退のきっかけは倒産して夜逃げした父。しかし、社長になると思ったのも、実業家として成功した時期の父を見ていたから。そして、今の完全無借金経営のノウハウも、父の借金を被ってから編み出したもの。父からは散々苦しめられたが、それがなければ「半分の法則」も生まれなかった。

また、市川はどんな時も笑顔を絶やさない。ピンチや金のない時も、常に高笑いで乗り切ってきた。よく言われる笑顔と陽転思考の効用だが、それは母の影響だ。育ての母は、夫が遊び回っている時も市川に真面目な教育と礼儀作法を施し、倒産した時やその後の極貧生活時代も、常に明るい笑顔を絶やさなかったという。

20代までは自分の出自を恨み、金儲けのみに走っていた市川だが、そんな29歳の時に2歳の長女が急性心不全で突然死した。ほんの数分前まで笑っていた長女が突然倒れ、母親の腕の息を引き取ったのだ。可愛い盛りの不幸は市川を打ちのめしたが、自分の欲深さにも気づいたという。

「いろいろあったが、捨て子同然の自分を2歳から育ててくれたのは、父と育ての母のおかげ。そして、未だわからぬ実母が腹を痛めて産んでくれたからこそ、今の自分がある。娘の死で悟りました」。

両親への感謝に気づいてから、市川は妻や取引先や従業員、果てはライバル会社や不景気にまで感謝できるようになった。それに気づいた30代からは、業績も飛躍的に伸びたという。

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