結核を越えて

「20代の結核で公務員を断念。あれが良かった」

 

福岡トップクラスの税理士事務所

  • 中垣浩一税理士事務所

所長 中垣浩一

 

北朝鮮生→16歳で敗戦・山口県岩国へ引き揚げ→米軍基地でボーイ→炭坑夫→山口大学工学部卒業→結核で入退院→果樹園手伝い→日本NCR→36歳で税理士合格→38歳で開業

 

税理士事務所は個人営業に近い規模が大半だが、中垣事務所は顧問先約400社・職員18名という大所帯。通常の会計・税務業務に留まらず、不動産・相続関係も絡んだ複雑な案件に強いという評価だ。

所長の中垣は昭和4年生まれで70歳を越えるが、波乱に富んだ経験に裏打ちされた安心感が顧問先を優しく包む。関連の共同組合も会員数は200社を越え、相互のビジネス取もを数多く仲介している。

 

■敗戦後、ボーイから炭坑技師へ。

 

1945年の終戦当時、当時16歳の中垣は今の韓国・ソウル大学の予科にいた。家族は北朝鮮にいて音信普通。敗戦で南北に引かれた38度線でいきなり戦争孤児状態になった。親父の本籍は福岡市と聞いていたが、結局、予科の知人の里である山口県岩国へ流れ着く。

身よりはない16歳だが、とにかく食わねばならない。中垣は岩国基地・航空部隊のレストランボーイの求人に応募。倍率は約100倍だったが、英語の筆記ができたからか運良く採用となった。

ボーイ兼残飯処理係りとなるが、米軍基地周辺の闇商人にこの残飯が売れた。しかも、今の金額に換算すると通算で1000万円にもなったという。

しかし「こんなことをやっていては駄目だ」と、宇部興産の炭坑に炭坑技師として入る。当時はまだ石炭は花形であり、「将来は鉱脈を探す鉱山技師になりたかった」からだ。余談だが、映画監督の山田洋次は2年間同僚だったという。

1947年、苦学して山口大学工学部に合格。昼は大学、夜は石炭を掘る道具の番人として「寝ながら」働く。そして卒業時、国家公務員上級試験に受かり、「これで順風満帆の人生」と思った矢先、最終の健康診断で結核が発覚した。

結核は当時の死病で入退院を繰り返し、大きな挫折を味わう。

 

■日本NCRで歩合セールス

 

その頃、両親家族が福岡にいることがわかり、体力を着けようと父が持っていた土地で果樹園を始めた。1956年頃には病状も落ちつき、農業の専門技術員資格も取る。病状も落ちつき、何とか行けそうだと結婚。

ところが、また病気が再発する。「体を使う農業は駄目だ。しかし、何とか食わねば」と悩んだ中垣は、その頃出回り始めたコンピュータの走りであるレジスター販売の日本NCRに入社。食うため、家族のために、厳しいが給与はあえてコミッション制を選んだ。

セールスは初体験だったが、西鉄福岡駅の商店街や魚市場にに何度も通うと、徐々に相手も話しを聞いてくれるようになる。しかし、最後の契約段階までいくと、先方は「じゃあ、先生に相談する」という。

先生とは何だと聞くと「税理士」だと。中垣は税理士という職業も知らなかったが、大概の税理士は「余計な投資はするな」と商売を邪魔する。そんな税理士に敵愾心を持った中垣は「よし、俺が先生になろう」と決意。NCRの上司は「君は工学部だし、無理だよ」と鼻で笑われるが、一度決めたら頑固な性格。

考えた結果、なんと中垣は「勉強のためにわざと病院に入院」する。20代で5、6年病院に通い、内情も知っていた中垣は、「病気手当」を貰いながら1日18時間勉強。合間には病院内で手形割引などの商売をし、わずか1年で税理士試験に合格した。

 

■お前を先生とは呼びたくない

 

NCRに戻り、再びレジスター営業に従事。同時に様々な経営者の相談に乗った。経営コンサルもできる営業は珍しく、レジスターは面白いように売れ、昭和40年当時で月収は170万円にもなった。

「当時の税理士は税務署上がりの人がほとんどで、営業も実務も知らない。だから”先生”のアドバイスよりも私の方が当たる。こうして顧客の信頼も上がっていきました」。

評判を聞いて、中垣に多くの経営者が相談を持ちかける。そういう客に見返りとしてレジスターを販売する事が多かったが、ある時、客から「お前のアドバイスは的確だが、その度にレジスターを買わされてはたまらん。それに、単なる営業マンのお前を先生とは呼びたくない。だから税理士として独立し、”先生”になれ」と言われた。

そしてなんと、当時、継続的に経営相談を中垣に依頼していた経営者7社が、共同で福岡市川端に事務所を提供。中垣は「私は今でも高給を取っている。独立後の保証を」と、その経営者仲間から「仕事を安定継続的に発注する約定書」を作成した。

「まあ、今、考えれば何とも横着で生意気なことですが、あの約定書のおかげで客探しには苦労しなかったですね。仕事が減った時は電話一本で客を紹介してもらいましたから。

勿論、他の”税理士先生”では無理な税務・経営相談もこなしましたから、強引ではあったけれども、紹介元に迷惑をかけるような仕事はしませんでしたよ」。

 

■人の逆を行く生き方

 

70歳を越えた中垣だが、益々意気軒昂だ。とても昔は結核で入退院を繰り返したとは思えない。

「今、思うとねえ、20代前半の結核での挫折。アレが大きいねえ。本当は鉱脈を探す鉱山技師になりたかった。当時流行った”サイエンス”という雑誌は、鉱山を諦めた後もずっと読みましたね。心の底に鉱山への挫折感がこびり付いていたんです。

でもね、あの時の経験は無駄ではなかった。鉱脈は地表近くから調査し、山を当てて掘り、尽きる前にまた次を探す。これはねえ、結局、事業経営と同じなんですよ。何かやって満足したらダメ。必ず次の手を打っていないと。

それと、人が右だという場合は、左に行くほうが成功の確率が高い。

私が学生時代は、1番人気が鉱山学部で2番が医学部。でも、あれからわずか10年で石炭・鉱山は衰退し、医者も今やあぶれている。

それから、バブルの80年代。あの頃は土地や株をやらないとバカみたいに思われたが、私は顧問先にはそういう売買を禁止した。

お客からは”何でだ?あいつもコイツもワンルームマンションの投資なんかで儲けている”と文句言われましたがね。あとで感謝されました。

時代は常に激動する。表面だけを見るのでなく、底流を見ること。自分のことや経営は、少なくとも10年先を見据えることです。普通の人は今日や明日や一ヶ月先の事を考えるが、もっと永いスパンで考えてみること。

ところが、10年先考えて行動すると、皆からは”アイツバカじゃないか”と云われる。そして、悪口も云われる。でも、それでいい。周りに合わせて”アイツはいいヤツだ”という人は時流と共に消え、責任も取らないことが多い。

それと、ここぞと思うときには勝負せないかん。勉強でも事業でも同じ。そういうときは素直になること。子供のように頭を空っぽにして。するとドンドン知識も入る。

何かの時は今までの自分を破壊をして、違うことをせねばならない」。

 

■デキル経営者とは

 

中垣事務所では民事・刑事系などの弁護士、不動産鑑定士、弁理士などと顧問契約を結び、顧客のあらゆる問題に対応できる体制をとっている。特に、会社の合併・買収・整理・和議・遺産相続関係など、複雑な案件に強い。経済関係の案件では、世間の目の広い税理士が元請けになってやるとうまくいくことが多いからだ。

中垣は、顧問先が不渡り・倒産の場合もつきあいを辞めない。行き詰まった場合は逆に徹底的にバックアップする。「長い間、顧問料を貰って、おまんま食わせて貰って知らん、というのは性に合わない。逃げない。債権者も一緒。相手が逃げたら追うが、居座ったら追わない。何事も逃げないことです」。

今までに約3000人の経営者を見てきて、デキル経営者とは・・。

「まず、事業に真面目であること。つまり、家庭よりも事業を優先する人間です。経営者で、従業員が有給休暇を取るから自分もという人がいるが、それは自分が経営者であることを忘れている。これは事業には不真面目である。家庭円満もいいが、何より事業に真面目=事業優先かどうか。

2番目は、素直で賢いということ。経済には色々な変動がある。それを受けとめる、感じる感受性=素直さが必要。これはいいといった場合には全力投球すること。

3番目は、長期ビジョンと哲学。企業とは、業(ごう)を企てるということ。商売人とは、一つの条件を示して、俺のところならこうできるとお客さんを釣ること。ただ、釣って逃げれば詐欺師になるが、企業は長年に渡って継続しなければならない。

だから、哲学。哲学がないと、業を企てるということに耐えられない。ここが大事です」。

中垣が社会人になってからの所得は、合計で10億円を越える。42歳からはほぼ毎年、高額所得者番付に名を連ねている。

「実は41歳の時、あるお客さんから”お前は税理士でそういう偉そうなことを言ってるが、お前自身はどうなのか。自分自身、しっかり稼いでから言え”と指摘されましてね。

それからは、意識して自分がまず稼ごうと思いました。やはり、あれこれ経営指導する本人の経営が駄目では、人は言うこと聞きませんから。

今の時代、高額年収者を悪者扱いする傾向が一部にありますが、それは経営がいい=お客さんに支持されている=役立つことをしているから。

若い人は、もっとお金にどん欲になり、結果として社会貢献して欲しいですね」

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