ドン底から世界の一風堂へ

「夢はことごとく破れ、どん底まで落ちました」

 

日本を代表するラーメンチェーン

博多一風堂・(株)力の源カンパニー 代表取締役 河原成美

 

役者に挫折→スーパー→横領で逮捕→6坪のバーを開業→ラーメン店修行を経て

■年商100億、株式公開も目指す。

つづきはコチラ

 

 

ラーメンの「博多一風堂」といえば、地元博多は元より、全国的に名を馳せた人気チェーンだ。ラーメンは日本の国民食だが、一風堂はあらゆる人気ランキングで、常にベスト3に入っている。

 

開業は’85年と新しいが、’94年の「横浜ラーメン博物館」出店、’97年からはテレビ東京の番組「TVチャンピオン」で3年連続ラーメンチャンピオンに選ばれ、全国区のブランドになった。

 

コクと深みのある「赤丸新味」やサッパリした豚骨味の「白丸元味」は、スープ・麺・元ダシまで、すべてをミネラルウオーターで作る。

また、店内にはジャズが流れ、「人材育成の難しい飲食・ラーメンチェーンではピカ一」(経営コンサルタント・竹田氏)といわれる接客サービス・清潔感も、多くの女性から指示されている。

 

一風堂は現在、福岡・横浜・東京・大阪・北海道などに計20店。他に福岡で中華や居酒屋、上海にもカレー&ハンバーグ店を出店している。

また、本業の経験を活かし、飲食に参入する企業向けのコンサルティングも実施。口だけのコンサルでなく、実践型の指導が評判を呼んで、年間約10社をコンサルテーションしている。

 

会社の業績は絶好調。ラーメン事業+その他外食事業+コンサル事業を合わせた売上は、’01年度で約40億円。特に「一風堂」は1店舗で初年度年商1~3億円パッケージが出来上がり、この数年は全国各地への出店が目覚ましい。

 

2002年には年商50億、2010年には100億を達成し、九州で業界初の株式公開を目指す。

 

■マンガ家・役者を目指した学生時代

 

河原は昭和27年12月、福岡県の城島町で4人兄弟の末っ子として生まれた。10歳迄、この田舎町で暮らし、自然と戯れながら「ロビンソンクルーソー」や「十五少年漂流記」を読みふけり、ソーセージにマヨネーズをかけた非常食を持って隣町へ冒険へ行ったりしたという。

 

「ツクシや夕焼け、首筋に感じる風、筑後川での川遊び、有明海に沈む夕陽・・。僕の、心の力の源は、すべてがこの頃に培われたものです」。

4人兄弟だったため、家庭での飲食競争も激烈。その食いぶちを稼ぐため、小さい頃から、母の料理を手伝っては自分の分を多くしたりしたという。

 

また、小学校時代から、友人や兄達にインスタントラーメンや月見うどんを作ったりするのが大好きだった。「兄達が”うまいよ!成美”と言ってくれるのがうれしくてね。その後、まさか飲食の道へ進むとは思わなかったけど、飲食の仕事の原点は、まさにこの頃の体験かもしれません」。

 

 

中学時代から漫画家を目指し、高校ではデザイン科を選考。親父が高校の美術の先生だったこともあり、家には絵の具やキャンパスがあった。そして家の童話や本を読むうちに、自分で物語を考え、絵を書いて着色もした。石ノ森章太郎の「マンガ家入門」を見ながら、カラス口や定規を使って書く本格的なものだ。

 

もちろん勉強はまったくせず、九州産業大学時代はマンガの延長線で、役者を目指してアルバイトに明け暮れていた。当時は武田鉄也やチューリップ・井上陽水など、福岡出身の歌手や役者が東京で大活躍していた時代。また、アングラ劇団の第一次全盛期を迎え、河原も上京して2年間、「前進座」という劇団にも所属していた。

 

しかし、そう簡単に役者で食えるはずもなく、大学卒業後は兄貴のツテで、当時日の出の勢いで伸びていたスーパーのユニード(のちにダイエーに吸収合併)に入社。西新店で衣類や雑貨の販売・仕入れを担当した。

 

■懲役1年6カ月。人生の目が覚めた経験。

 

が、しかし、社会人になったものの、相変わらず河原には人生の目標が見えてこない。「高校、大学入学は親父のコネ。就職も兄貴の口利き。それに比べ、長男はパイロット、小説家を夢見る次男は新聞社、三男は大学院で彫刻家を目指していた。でも、僕はマンガ家にも、役者にもなれない。他に自分のやりたいことがわからず、何もできない。仕方なく、食えないからサラリーマンになった。

 

それに反発するように、社会人になってからも反社会的なことばかりをやった。反発することで、自分という存在を確かめようとしていた」。

 

そして、河原はそれからの人生を決定づける「目の覚めるような事件」を起こす。以前から付き合っていた悪い仲間と共謀し、店の商品を横流し=横領したのだ。気付いてみたら、その額800万円。事件は発覚し、懲役1年6カ月・執行猶予3年の判決を受ける。その時、河原は25歳。

 

結婚を1カ月後に控えていたが、当然破談。そして、40日間の拘置所暮らしを過ごした。

 

「まさに人生最悪の状態。でもね。その時の経験で、僕は目が覚めましたね。拘置所に入ってくる人は、窃盗、放火、発砲事件のヤクザ、それに70歳くらいで放火をしたジイさんが何度も入ってきたりした。俺とは違うコイツらは何なんだと思ったけど、僕も一緒の立場なんですね(笑)。

 

何でこんなことになったんだろうと。幸い、考える時間はいっぱいありましたね。

 

それまで”俺はこれでも、芝居をやるんだ。絵も書けるんだぜ”とか、”一見落ちこぼれの学生、サラリーマンだけど、本当の自分は違うんだぜ”と、その場その場で言い訳をしていた。

 

そう、虚勢を張っていたけど、何や、俺ってやっぱりちっぽけな存在なんだと。自分もわかったし、周りにも知られた。開き直りましたね。

 

裁判の時には、有り難いことに親も友人も、いろいろ協力してくれた。僕も、共犯の友人の名前などは出さなかった。また、親父は当時、修猶館高校の美術の教師をやっていたんですが、一番効いたのは裁判での親父の声。

 

”私は高校の教師として、今まで何百人もの生徒に教えてきた、と思っていた。今回の件では、確かに息子は悪いことをした。それは、私が自分のわずか4人の子供の教育もできなかったということ。すべては私の責任です”と。親父は、その時の責任をとって退職しました。定年よりもはるかに早く。

親父にまで辛い思いをさせ、人生を狂わせてしまった。本当に、深く深く、反省しました。それと同時に、縛られていた自分から解放されました」。

 

それから、河原は改めて人生を考えた。何をしようかと。親父からは、”海外にでも行って、ほとぼりを覚まして来い”といわれたが、当然、執行猶予中は海外には行けない。

 

いろいろ考えたが、もう、まともな職にはつけない。ならば、もう一度芝居をしようと、飲食のアルバイトをしながら、河原は芝居の練習に打ち込んでいた。

 

■26歳。パブオーナーとして独立。

 

そんな1979年、河原が26歳のある日、兄から”友人がやっていた店が空いてる”と聞いて、河原が始めたのが、今や伝説となったパブ「アフター・ザ・レイン」(現在も天神・今泉で営業中)だ。

 

「随分悩みました。芝居は好きだけど、食っていけるかわからん。これ以上流されるのは嫌だと。でも、これでいいのかと。3週間くらい考えましたね。で、よし、僕は店でいこうと。飲食は学生時代から好きだったし、パブの親父になろうと決めました」。

 

博多駅裏でわずか6坪の店だったが、店をやるからには、もう芝居の話はしない、店も休まないと決めた。これは、当時心酔していた松下幸之助の”商売の原則は休まないこと”を教訓にした。

 

また、ある人から”夢を持ち、期限を決めて努力すれば、人生は成功する”と聴き、「30歳になったら福岡の中心・天神へ移転、33歳になったらもう1店出店、35歳までに一生の仕事に出逢う」と、生まれて初めて人生の目標設定をした。

 

■’85年、32歳でラーメンの世界へ

 

一度、地獄を見た人間は強い。店を始めて丸2年は1日も休まず、商売を絶対に成功させてやるという意気込みに燃えた。毎日3人=年間1000人の客の顔と名前を覚え、うち約200人は誕生日も丸暗記して祝ったりした。ここまでやって感動しない客はいない。

 

当然の如く「アフター・ザ・レイン」は最初からうまくいった。いろいろ悪いこともしたが、友人や知人は山ほどいたし、芝居への情熱を店に転じ、「よし、この仕事を演じよう」と河原はがむしゃらに働いた。ストーリーを考え、それに合うスタッフを集めて舞台を創っていく。店の客は観客。どう喜ばせるかを一生懸命に考えた。

 

客と競争してウオッカをガブ飲みしたり、店の床をクロールで泳いだりして毎夜のワンマンステージ。調子に乗ると「今日は僕のおごり。好きな酒を飲んでいいよ!」と全員を無料サービス。

 

そして朝、床に寝ころんだまま、ドアの隙間風で目が覚めるという生活を丸3年以上過ごした。その頃には年収も1000万円を突破。”俺の夢”と書いたお菓子の木箱の金庫には、徐々に将来の事業資金が貯まっていった。

 

当時からラーメンは大好きで、店の営業の前後に博多駅そばの「住吉亭」や薬院の「八ちゃんラーメン」等、毎日2回はラーメンを食べに行ったという。この経験が一風堂出店へ駆り立てた。

 

「昔も今も、”うまいラーメン屋は汚い、サービスが悪い”という定説があるでしょう。それを僕は覆すようなものを作りたかった。女の子が一人でも気軽に入れる、カッコいいラーメン屋。

 

アフター・ザ・レインは小さな店だったけど、パブのマスターというだけで女性にはモテた。それまで300人くらいの女性と付き合ったかな。でも、いつまでも酔いどれ天使では体が続かない。

 

たまたま飲食の道に入ったけど、30を過ぎてからは”職人”のようなものに憧れましたね。当時のラーメン屋の親父はカッコ良かった。

 

よし、僕はもっとカッコイイ、女にもモテるラーメン屋の親父になろう。33歳までに2店舗目を出すという目標を果たそうと思いました」。

 

それからの河原の行動がすごい。全国のラーメン店を約1000軒食べ歩き、当時長浜にあった「長浜一番」という店で働いた。給与をもらうのではなく、100万円を払っての修行だ。「よくある下働きで味を盗むのではなく、麺から釜の中まで、正々堂々と勉強したいと思いました。時間も無駄に過ごしたくなかったしね」。

 

昼はラーメン屋修行と食べ歩き、夜はパブ経営の24時間生活を丸1年過ごし、’85年、河原32歳の時、大名路地裏に約10坪の一風堂を開店する。

 

■人生に無駄はない

 

開業当初は苦戦したが、徐々にマスコミにも取り上げられて店は繁盛した。1000軒の食べ歩き修行から創作した味に加え、一本の丸太で作ったテーブルと椅子にジャズが流れる清潔な店内。ラーメン屋には珍しい”いらっしゃいませ””ありがとうございます”が行き届いた従業員、接客サービスも評判になった。

 

また、最初の頃は1杯1杯味見をし、残した客には「どこがまずかったんですか?」と、後を追いかけて”顧客アンケート”をとった。

 

その後は塩原、太宰府店を開店し、「資金繰りで苦しんだ3年間」はあったが、’94年には「新横浜ラーメン博物館」で大ブレイク。’97年以降は東京・大阪へも出店し、現在の一風堂がある。

 

「いろんなことがあり、店もお客さんも仲間も増えて、今がある。ちっぽけでつまらん人間だったけど、飲食業が僕を育ててくれたね。

 

飲食業はいい。人と人が付き合うっちゃけん、こんなに可能性に満ちた仕事はない。だから、飲食に関わる若い人を育てて、お返しをしたい」。

 

子供の頃の漫画家、青年時代の役者という夢に挫折し、投獄経験までした河原。しかし、その結果、飲食の道に入って今がある。漫画は店の表現力・プロデュース力になり、役者経験はまさに店舗での接客・サービス力になった。

 

役者にはなれなかったが、今や「博多 一風堂」という劇団・舞台を率いる経営者に上り詰めた河原。人生に無駄はないのだ。

 

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