東大出て饅頭屋か

 

「あの時は、会社を辞めようと何度も考えた」

 

ホワイトデーの創案者

  • (株)石村萬盛堂

代表取締役 石村善悟

 

東京大学→全共闘運動→家業へ→拡大→経営危機→再建→日本有数の菓子メーカーへ

 

バレンタインデーのお返しの日とされる3月14日のホワイトデー。実はこのイベントを昭和52年に日本で最初に創案・実施したのが、九州最大級の和洋菓子メーカー・石村萬盛堂の3代目、石村善悟だ。

 

商品アイテム(種類)は日本最大級・常時400~800の和洋菓子を製造販売。店舗は「いしむら」「ボンサンク」「萬盛堂」等の名称で、福岡を中心に約60店をチェーン展開し、年商は70億円を超える。

 

商品では宮内庁御用達の「鶴乃子」が有名だが、最近では「塩豆大福」「小さなショコラもち」などがヒット。ケーキ菓子「ショコラボア」が第32回のモンドセレクション(世界的な食品コンクール)で金賞に選ばれるなど、業界内での評価も高い。菓子業界も長期不況だが、石村萬盛堂は過去10年連続で増収を続けている。

 

創業は明治38年(1905年)。初代石村善太郎が博多の演劇家・川上音二郎(オッペケペ節を作曲)の家の1階を間借りして開業。間もなく、餡をマシュマロで包んだ「鶴乃子」が大ヒットし、博多の銘菓としてその名を全国に轟かせた。

 

その後、戦争で事業を中断したが、終戦直後の昭和20年に二代目石村善右により再興された。現社長・石村は昭和46年に入社。昭和54年に3代目の社長となり、前記のように社業を大発展させている。

 

10年前より、郊外型の和洋菓子複合店舗「いしむら」を次々に展開。一店舗の平均年商は1億3000万円で、初年度から黒字という新業態を確立した。また、平成5年よりスタートした「いしむら」のFC店は年商2億を超える店もあり、加盟希望者が殺到している。

 

今後も九州一円に「いしむら」を積極展開。2005年の年商100億円・株式公開を目指す。

 

■高校の生徒会長から東大へ

 

石村は昭和23年6月、博多区の石村萬盛堂本店で生まれた。小学生時代は野球に没頭。当時は西鉄ライオンズ全盛期で、石村は小学校のエースで4番を務めた。また、当時の萬盛堂で菓子職人をしていた俳優の小松政夫には、剣道を教えてもらった。

 

県下有数の進学高校である修猷館時代では生徒会長を務める一方、当時流行っていたベンチャーズの影響を受けてエレキバンドを結成。「この頃の修猷館はバンカラ校風で良かった」という。

 

大学は東京大学経済学部へ現役で入学。

 

「最初は商科が充実した一橋を考えていましたが、恩師の強い勧めがあって東大を受験。商売人に東大は無意味と親父は反対しましたが、卒業したら家業を継ぐと約束しました」。 余談だが、石村は修猶館時代に学年1番になったことが3回ある。普段は勉強せず、しかし、試験前に一夜漬け勉強すると「出題が読めた」という。いわゆる天才肌だ。

 

大学入学直後、石村は大失恋する。高校時代に付き合っていた彼女を、なんと親友に奪われたのだ。ノイローゼ状態になり、「夜も真っ暗になるのが恐くて電球を着けたまま」。そんな石村に、親父は迷いを断ち切れと「莫妄想」(考えても仕方がないことは考えるな:無学祖元)の言葉を贈る。

 

当時の東大は学園紛争の真っ盛り。失恋から立ち直った石村は東大紛争にのめり込み、経済学部自治委員長として左翼学生と闘う。しかし、福岡出身の総理大臣・広田耕毅が創設した下宿では、外では闘っていた福岡出身の全共闘とも仲良く語り合ったという。

 

卒業後は大学院に数カ月籍を置いたが、結局その年の10月に石村萬盛堂へ入社した。

 

「やはり、親父との約束を守るためです。同期が大蔵官僚や超大手企業に就職し、多少は羨ましかったですね。当時から鶴乃子は有名でしたが、年商は3億円位で従業員もパート含めて50人位。まあ、零細家業ですよ。おそらく、もっと小さいか、もっと規模が大きければ、そのまま家業には入らなかった。

 

本音を言えば、最初の10年間位は菓子屋じゃなくて、”もっと他の道があったかも知れないなあ”と考えることはありましたね」。

 

■飛び込みで結婚式場を新規開拓

 

昭和46年、”しかたなく”萬盛堂の東京営業所に配属された石村は、当時の看板商品「鶴乃子」を抱えて土産物屋などへ卸売り営業=飛び込み訪問した。営業所とはいっても、社員は石村を入れて数名。博多では石村・鶴乃子の知名度はあったが東京では無名に等しく、どこも門前払いの日々が続いた。

 

その後、徐々に百貨店には物が入るようになるが、需要に限界を感じる。そこで石村が目を付けたのが、結婚式での引き出物需要だった。当時の引き出物はかさばる和菓子が中心。そこに石村は和洋折衷菓子の「鶴の巣ごもり」や洋菓子を提案。また、菓子屋が式場に提案営業しに来るのも珍しく、この石村の提案には式場が飛びついた。

 

「当時、和菓子が主流の引き出物市場に、洋菓子という新しい需要を開拓できた。同じパイを食い合う競争ではなく、新しい需要を創造すれば共存共栄できる。今のような経済情勢では甘い考えかも知れませんが、本当は競争をしたくない」。

 

祖父は、”他人が四角ならこっちは丸だ。人マネはするな”と丸いパッケージの鶴乃子を開発したという。その言い伝えは石村の中にも受け継がれていたのか。

 

ちなみに、現在の結婚式の引き出物市場で、萬盛堂は東京でベスト3。九州では約34%のシェアでトップだ。

 

こうして東京で5年間過ごた石村は昭和51年、福岡へ戻る。石村28歳の春だ。

 

■親父との格闘。そして、乗り越える日。

 

昭和52年、石村は帰福早々に、今では国民行事になるイベントを実施する。日経のデータブックにも記されている、ホワイトデーの創案だ。

 

ある日、石村が何気なく少女雑誌を見ていたところ”バレンタインデーに私達があげるのに、お返しがないなんて不公平ね”という記事があった。

 

「そうだ、男性から女性へのお返しの日を提案すれば面白い。すぐに社内で会議をし、企画を岩田屋(福岡の老舗百貨店)に持ち込みました」。

 

チョコレートのお返しは、鶴乃子等で得意だったマシュマロを提案。「マシュマロデー」としてイベントを実施した。イベント自体の売上は大したことはなかったが、マスコミがこぞって取材。数年後からは同業他社もイベントを実施し、いつのまにか「ホワイトデー」として定着した。今では菓子業界のみでなく、あらゆる業界がホワイトデーに参入し、その市場は1000億円といわれる。まさに究極の「需要の創造」だ。

 

また、昭和54年には洋菓子の別ブランド「ボンサンク」を開発。”和菓子屋がやる洋菓子は成功しない”というジンクスを打ち破った。その方法はこうだ。

 

当初は洋菓子を和菓子と同じ「萬盛堂」の売り場で売っていたが、なかなか思ったように売れない。そこで石村は、店を間仕切りで完全に半分に分断。電話も別にした。

 

「設備も人員も倍かかる無駄なことをしている」といわれたが、結果は新しい顧客が大幅に増え、現在では「ボンサンク」は洋菓子ブランドとして完全に定着した。

 

「どの業界もそうですが、会社・店舗に知名度が出れば、本業以外の商品もついでに売れるのではないかと思う。うちも鶴乃子・石村萬盛堂の知名度を使えば洋菓子も売れると踏んだが、なかなか売れない。萬盛堂=和菓子のイメージがありますからね。

 

消費者はやはり、洋菓子は洋菓子の店に行くんですよ。餅は餅屋です。思い切って新ブランドを創って良かったですね」。

 

実際、別ブランドを創るのは新しい会社をやることと同じ。起業家精神・行動が必要になる。しかし、2代目・3代目はどうしても先代のやり方を守るというか、起業家意識がないことが多い。石村には3代目としては珍しい起業家精神がある。

 

このように、石村は新しいことを次々に手がけたが、結果として親父・善右と対立することは多かった。最大の対決は昭和54年の博多駅店改装。石村は約3000万円をかけ、洋菓子を強化した斬新なアイデアを提案したが、父はすぐに却下。800万円の改装しか許さない。「ボンサンク」には許可を出した父だが、「メインは鶴乃子を中心とした和菓子でいい。大改革は不要だ。あんたの代になったらやれば」と無視を繰り返す。

 

「あの時は、もう会社を辞めようと、何度も本気で悩んだ」が、当時、父は病気で寝たきりの状態。”身の丈以上のことはするな”という、2代目らしい慎重な父の教えにも重みはあった。

 

しかし、昭和54年末に父が死去。3代目の社長に就任した石村は、「父の死を乗り越えるためもあって」念願の博多駅店大改装に取り組む。周囲は大反対したが、結果は年間売上で初の1億円を突破する店になった。

 

「あれで周囲も見る目が変わり、強烈な自信となりましたね」。

 

31歳という若社長の派手な船出だった。

 

■過大投資でピンチに。本社屋も売却。

 

博多駅店の成功で勢いに乗った石村は、和菓子・洋菓子の新商品開発を次々に実施。鶴乃子に依存していた老舗の構造改革を進める。店舗も、和菓子の「萬盛堂」・洋菓子の「ボンサンク」に加え、高級菓子の「萬年屋」・手軽な和菓子の「甘市場」などの新業態を開発した。昭和62年には、現在の発展の基礎となる和洋菓子複合店舗「いしむら」第1号店を大橋駅前に出店。これも当たり、生産が間に合わなくなることもあった。

 

そして、石村は、当時の年商の半分にあたる約14億円をかけて新宮に最新鋭工場建設に着手。工場は昭和63年6月に完成し、大発展の礎ができた。

ところが翌年に金利が暴騰。当時、勢いに乗って年商を越える借金をしていた石村は、一気に窮地に陥る。「まさに親父のいう、身の丈以上のことをしてしまった」のだ。

 

加えて、中央から進出した大手菓子チェーンとの競合も激しくなり、売上の伸びにも急激にブレーキがかかる。まさにダブルパンチで、創業以来最大の経営危機を迎えた。

 

石村は毎日早朝に出勤し、神棚に祈って策を練る。そして、金利暴騰の数週間後から思い切ってリストラに着手した。7店の赤字店を閉鎖し、FCのドーナツ事業や関連の印刷会社を売却。果ては、石村の母が住んでいた本社屋も土地ごと売り払った。

 

しかし、人材面では定年退職・自然減のみで、解雇や給与削減はしなかった。各部署に目標を設定し、達成した場合は逆に大幅な昇給・賞与アップを実施。そして、今まで5人でやっていた仕事を3人で済むような業務の効率化をすすめ、結果として筋肉質の会社に生まれ変わったという。

 

「最大の敵は、自分の見栄でしたね。老舗で名も知られているし、店舗の閉鎖などは恥ずかしかった。ましてや本社屋を売却するときは、まさに清水の舞台から飛び降りるような決断でしたね。

 

でも、あの窮地があったからこそ、大きく成長できたし、今の会社と私がある。ピンチに遭い、リストラに成功したのは本当に良い経験だった」。

 

結果としては赤字転落も免れ、リストラは平成3年に終了。翌、平成4年から再び「いしむら」等の積極展開を始めた。

 

この頃は、世間は逆にバブル崩壊でリストラに走る企業が続出。一足先に脱した石村の元には、「リストラ成功者」として講演依頼やマスコミが殺到した。

 

■郊外店「いしむら」の成功でFC積極展開へ。

 

平成不況の中、石村萬盛堂の平成4年以降の業績は毎年増収増益。菓子業界も長期低迷を続けているが、石村は社長就任時の売上8億円を、現在では9倍の約70億円に持っていった。

 

「いしむら」の強さはその商品力。商品アイテム(種類)は、季節にもよるが約400~800種類を開発。今も毎月新商品を5~10種類は発売する。

 

「”いつ来ても何か新しい”と感じてもらうのがポイント。競争ではなく、新しい需要を創造すること。そして、常に顧客のニーズを先取りした”変化対応業”であること。古い業界にありがちな”俺は老舗の菓子屋だ”では取り残される。伝統に甘んじることなく、常に革新することが大事だと思います」。

 

コンビニ業界に見られるように、店舗の業績は競合店の出店で激変するが、「いしむら」はどの店も地域一番店。その圧倒的な商品力を恐れてか、「いしむら」が出店した半径1キロ圏には、この15年間で同業は1店しか出店していないという。

 

新商品でも「水まんじゅう」や「塩豆大福」「小さなショコラもち」などのヒットを毎年連発。今後は「400億円の未開拓市場がある」九州を中心に、近い将来の株式公開も視野に入れる。

 

■「人生という経営」の革新

 

「企業にとって、レーゾンデートル=存在意義が非常に重要。何のために商売をしているのか。会社の社会的な存在意義は何かを明確にすることが大事です。

 

菓子は人と人との出逢いに欠かせないコミュニケーション産業ですが、その中でいかに当社の個性を発揮するか。これは個人のレベルでも同じですね。その基本はプラス発想。出来ない理由を探すのではなく、出来る方法を探すこと。

 

そして、常に自分を変えること=脱皮が大事。人生という経営も、死ぬまで変化対応だと思う。いやいや継いだ家業ですが(笑)、この考え方で僕は菓子屋という仕事に天職を発見しました」。

 

今の大企業のように、成功した企業でも良い時は20年も続かない。また、創業者が亡くなくなると、その13回忌までにほとんどの企業は潰れる(ランチェスター経営・竹田氏談)という。かつ、東大出身者は大企業サラリーマン経営者には多いが、オーナー事業家では滅多に成功しない。石村はそのジンクスを克服した希にみる3代目だ。

 

石村は「思うところがあり」8年前より、本店のトイレを毎朝7時から素手で掃除している。出張や早朝会議の朝も欠かさない。

 

「僕は派手なことばかりやってきて、性格が飽きやすい。ある時、社員に向かって”君たちはなぜ、大事な基本が守れないのか”と叱ったのですが、考えてみると、言ってる本人が実行していない。まずは自分を変えようと始めました。

 

革新や変化対応も大事ですが、一方では挨拶や掃除など、平凡なことを非凡に継続することはもっと大切。老舗として、または自分の生き方として、守るべきところは守る。大切なことは貫かねばならない。トイレ掃除という平凡なことを続けることで、自分自身も少しずつ変えていきたいですね」。

 

伝統と革新。これは各人の人生の命題でもある。

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