時代を超えたテーマパーク

「もうダメだ。どうにでもなれ」と自棄になった3年目

 

毎年20万人を集客する自然植物園

  • のこのしまアイランドパーク

創業者 久保田耕作

 

7歳で島に移住→中学卒業→農業に従事→35歳でテーマパーク開業→45歳で軌道に

 

福岡市内から船で10分。博多湾に浮かぶ能古島に、毎年約20万人が訪れるテーマパークがある。と言っても、ジェットコースターも観覧車もない。木や花や緑があり、寝ころべる芝生があるだけ。しかし、園内は季節ごとに七色の花が咲き乱れ、海をバックにした景観は秀逸だ。特に秋のコスモス30万本は大人気で、今や福岡の名所の一つになった。

一部を除く多くのテーマパークが経営不振に陥る中、のこのしまアイランドパークは開業30年を超えた今も客足に衰えはない。隠れた優良テーマパークとして、全国からの視察も多い。しかし、その始まりは、約60年前。鍬一つからの開墾だった。

 

■7歳で島に移住。鍬一つで開墾。

 

久保田は昭和9年、福岡三井郡の農家に生まれる。昭和16年、祖父が持っていた能古島の土地で農業をしようと、一家で移住。久保田の父、清は鍬一つで荒れ地を耕し始めた。土地と言っても草木が生い茂り、石や岩も多い山の中。当時、既に電気や水道は都会では当たり前だったが、島には何もなかった。

久保田も小学校時代より年間70日も学校を休み、農業の手伝いをした。最初は雑木林や原野を耕し、田や畑に直す開墾作業。大きな木の株を掘り出し、硬い竹の根を切り、岩や小石を取り除く。しかし、鍬を入れても石や硬い根に跳ね返され、手は豆だらけになって血だらけになる。気の遠くなるような作業の繰り返しだ。

まさに原始人と同じく、久保田は父や母と一緒に大地を耕し始めた。久保田7歳の時だった。

 

■19歳の時に夢を立てる。

 

中学を卒業し、本格的な農業人として走り始めた久保田は昭和28年、青年団で東京や大阪の青果市場を視察。近代農業の違いに衝撃を受ける。

「当時、ウチは島では先進的な農家で、出荷高も島で一番。芋を主体に優秀な農家と思っていました。ところが視察に行った東京や大阪の市場にビックリ。規模が全く違う。こっちでは数百キロ単位が向こうでは何トン単位の出荷。

当時、ウチは福岡市で最大級の芋生産者になっていたが、ケタが違う。いずれ、流通網が整ってくれば、市場間の競争に勝てないのは明らかでした。それまでは百姓で日本一になろうと思っていたが、完全に打ちのめされました」。

島での農業に限界を感じた久保田は、何をするかを考えた。ブラジルへの移住も考えたが、長男という立場では無理。そして「日本もあれだけの戦争をしたからもうしない。今後は経済が発展して機械化も進む。そして、人々は機械に使われて疲れる。すると、自然が見直されるはずだ。

幸い、能古島の前には福岡という大都会がある。都会の人を対象に、自然をキーワードにした事業ができないかと、来る日も来る日も考えました。

たまたま能古島の家の近くに桜並木があり、花見のお客さんが島に沢山来ていました。これがヒントでした。自然を活かした観光地、巨大な自然植物公園を能古島に造ろう。きっと、都会に疲れた人達が沢山来るに違いない。これだと決意しました」。

そして、「30歳で会社を設立。40歳で事業を軌道に乗せ、50歳で果実を実らせる。その後の60歳には引退し、70歳迄は嫁さん孝行、あとはおまけだ」と一生の計画を立てる。久保田が19歳の時である。

 

■毎年2万本の植樹。気の遠くなる作業。

 

それからは本業の芋栽培の傍ら、毎年2万本ものツツジや桜の苗を植え始めた。「10数年後、大きくなった頃には開園にこぎ着けるだろう」という遠大な計画だ。

当時の主な収入源はサツマイモやつくね芋。その畑を少しずつ潰し、花や木の苗を黙々と植えていった。島の人からは「薪にもならんモノを植えてバカじゃないか」と言われていたという。

しかし、島の観光客にツツジの苗を1本10円で数万本売ったり、東京オリンピックの頃には、貨車3台分のツツジを東京の造園業者に100万円で売却。その金でカイヅカイブキ、サルスベリ、タマツゲ等、樹木の苗木を購入し、将来の公園用として育てた。

カイヅカイブキの幼木は、その数1万本。大人の木に育てる為、その1本1本に竹の支柱を立てていったという。気の遠くなるような作業の繰り返しだ。

なぜ、花ではなく、植木ばかりを作ったのか。

「自然植物公園は夢だったが、事業としては海千山千。もし公園やってだめだったら、植木を売って食いつなごうと思っていた」という。

 

■構想から15年。ついに開業。

 

昭和44年、久保田35歳の時、ついに自然植物公園「のこのしまアイランドパーク」がオープンする。15ヘクタールの広さに、カイヅカイブキ1万2千本、ツツジ13万本、サザンカ1千本、ツゲ、しだれ梅、ニシキマツ各5百本。いずれも、公園をやろうと決意して15年間育ててきたものだ。

苗木以外に、造成等でかかった費用は約5千万円。コツコツ溜めた蓄えの他、農協などから借金をした。テレビや新聞に1千万円もの広告も出した。まさに、一世一代の大勝負だ。しかし、「何もないじゃないか」。多くの客からの声を聞き、久保田は青ざめた。

今もそうだが、当時も民間の公園と言えば観覧車やジェットコースターが当たり前。しかし、アイランドパークには植木や花や芝生しかなく、近代設備は何もない。

久保田は開業前の6年間、東京以西の公園をしらみ潰しに廻った。金沢の兼六園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園等、自分で車を運転し、一度に1週間から10日をかけた。先人に学ぶと同時に、何か独創性を出そうと研究を積み重ねていた。

例えば芝生。どこの公園も芝生は「立入禁止」だったが、アイランドパークでは自由に入れるようにした。通路と芝生の境目もなくし、自然に親しんで貰おうとした。

「遊具がある遊園地は子供は喜ぶが、親は疲れる。これはおかしい、逆だと思いました。子供が自由に遊べ、親は芝生で寝ころべる環境。つまり、極力、人工的なモノは排除し、自然を活かした公園にしようと思いました」。同じ理由で、観覧車等の遊戯施設もなしとしたのだ。

当初売り上げ目標は、年間1千万円。運営は5家族でやる予定だったが、「一家族に2百万円あればなんとか生活できる」という計算だった。

 

■開業3年目に絶体絶命の経営危機。

 

しかし、思った以上に入園者は伸びない。島まで船で行くというハンデに加え、知名度もないし、目玉施設もない。毎週のごとく「今後どうするか」という会合が開かれ、ついに開業3年目には事業売却=自力営業断念を考えるまでに追い込まれた。

当時は客の来ない冬場の3カ月は公園を閉鎖。従業員全員で出稼ぎ=造園のアルバイトに出ていた。その働きを分配しても一家族あたりの月収は4万円。高校生を持つ家庭などは生活が厳しく、魚を箱ごと安く買って皆で分け、塩漬けにして長持ちさせたりした。

しかし、生活は年々苦しくなるばかり。皆で話し合いの結果、公園の経営権を地場大手のバス会社・西鉄に譲ることを決めた。自力営業を断念したのだ。

「軌道に乗るまで10年は覚悟してくれと皆に言っていたが、3年目で挫折。広大な公園の運営は自分一人では無理で、皆の合意が必要だった。結果は多数決で辞めることに。もう、やけになって、どうにでもなれと思いました」。

西鉄側の雇用条件は、男は一人あたり月給7万円で女は5万円。自力営業よりは手取りは増えることになる。しかし、交渉は最後の最後に揉めた。園内にある樹木の売却価格で話が折り合わないのだ。原価は安いが、育てるのに10年以上かかっている。この価値を巡って、西鉄側との交渉は難題に乗り上げた。

毎晩毎晩、久保田らは話し合った。いかに西鉄側に高く買い取って貰うか、有利な条件を引き出すか。しかし、ある日の会合で久保田の妻が大声を張り上げた。

「将来は良くなる。経営権は売らん!」。この一言で、経営は続行することになった。

 

■時代が味方し、コスモスも大ヒット。

 

その後も、爪に灯をともすような生活が続いたが、ある時を境に風向きが変わった。水俣病や四日市の公害が社会問題になり、人々の目が自然に傾いてきた。福岡もビルや高層住宅が建ち並び、人々は都会の乾きを癒す場を求めるようになる。

久保田が予想したとおり、時代が「何もない自然公園」に追いついてきたのだ。同時に、子供を対象にしたイベントや、井上陽水や郷ひろみのコンサートなども誘致。また、博多の古い町並みを再現した「思ひ出通り」も、そのレトロ感覚が大当たりして、入場者が徐々に伸びてきた。

中でも、もっとも集客に貢献したのが開業10年目に植えた秋のコスモス。青い空と海をバックに、赤、白、ピンクに咲き乱れる30万本は絶景で、今や年間入場者の3分の1はこのコスモスで占める。その他も、早春のニホンスイセン、春の桜と菜の花、初夏はヒナゲシと、公園内は年中季節の花が咲き乱れる。

コスモス等の草花は種を撒いて苗を作り、それを2,3回移植して本植え。それからは毎日の水やりをする。この作業を総勢30人で数ヶ月間繰り返し、やっとコスモスの花畑が完成するという。大変な労力だ。

 

■20年先を考えた人生計画、夢を。

 

創業時、年間1千万円にも満たなかった売上は、今では年間入場者は約20万人で年商約3億円。テーマパークとしては決して規模は大きくない。しかし、開業30年を超えても入場者が減らず、かつ、リピーターが大半を占める黒字経営。大企業や第3セクターの施設が次々に破綻する中、のこのしまアイランドパークの「足(たる)を知る」堅実経営は異色だ。

「今の私があるのは、7歳からの農業経験と19歳の時の人生設計です。夢を立て、努力すると不思議と形になる。何があっても振り向かず、10年、20年先を考え、あとは実行努力。これが成功のコツです。

それと年寄りの話を聞くこと。同年輩ではなく、年上の人の話を聴くのは勉強になります。私は昔からそうしてきました。その人の人生を、1時間で聞ける。こんなに勉強になることはない。但し、鵜呑みはいかん。自分なりに解釈し、自分の夢に加工することが大事ですね。

旅行に行っても、酒を飲んで温泉に浸かる・・ではいかん。私はどこかへ行っても、その回りを歩き回った。朝晩の飯前にとにかく見る。何事も勉強です」。

と、偉そうなことを久保田は言うが、開業3年目には皆を説得できずに、一度は事業継続を断念。それを翻したのは久保田の妻だ。久保田の成功は、良いパートナーに恵まれたからに他ならない。「60歳過ぎたら嫁さん孝行」の約束を果たしているのか、気になる。

35歳で開業した久保田だが、創業はいわば7歳からの農業。その延長線上の「近代農業」が、自然植物公園のアイランドパークだ。祖父が買った土地を父が耕し、久保田が農業を発展させて公園を開業。2000年からは息子の晋平が経営を継いでいる。

時代はますます混迷化し、人々は自然の癒しを求める。島に移住して約60年。アイランドパークは都会のオアシスとして、その存在意義は年々大きくなるばかりだ。

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