明太子の元祖

「不良学生、銀行マンを経て老舗を改革」

 

日本一の明太子メーカー

  • (株)ふくや

代表取締役 川原正孝

 

福岡高校→甲南大学空手部→港湾荷役作業→福岡シティ銀行で営業→家業を経て

 

明太子は博多を代表する名産品だが、今や製造メーカーは全国に200とも300とも言われる。この明太子を日本で初めて製造販売したのが、トップブランドのふくやだ。

 

明太子の国内市場は約2000億円。その中で、ふくやは年商約200億円弱を売り上げる。他のメーカーと大きく違う点は、卸売りをしないこと。直営店と通信販売のみで、店舗は福岡を中心とした40店と、東京では浜松町のみ。空港や駅でもふくやの明太子を見かけるが、あれはあまりにふくやの指名買いが多いために、各店がふくや店頭で買ったものを2割上乗せして売っているのだ。

 

また、特筆すべきは、特別な広告をせずに通販のみで年70億円を売り上げていること。過去の店頭購入者にDMを出すだけだが、単品の通販でこれだけの売上を上げる会社は全国にも数少ない。

 

創業は昭和23年10月5日。韓国・釜山から引き揚げた亡父・川原俊夫夫婦が、天神の闇市を経て中洲で開いた食料品店が発祥。そして、翌昭和24年1月10日に韓国の食品をヒントに、俊男氏が考案して売り出したのがふくやの「味の明太子」だ。

 

当初はまったく売れずに川へ投げ捨てる日々が続いたが、ほどなく人気爆発。しかし、俊夫が最もすごかったのは、同業他社にも惜しみなく作り方を教え、現在のような市場を形成したこと。戦後の混乱期で皆が貧しかったとはいえ、なかなかできることではない。 また、明太子で財を成した俊夫だが、余分な金はすべて地域への寄付や山笠につぎ込んだ。正孝が家を継いだ時には、「驚くほど財産が残っていなかった」という。

 

関連会社では辛子高菜、化粧品通販、システム開発などを手がける。常に「もし、明太子の原料がなくなったらどうするか」という問題意識を持ち、新規事業やベンチャー育成にも意欲的だ。

 

■就職は港湾労働者の予定だった

 

川原は昭和25年3月18日、両親が引き揚げ後に開店していた中洲市場で生まれた。福岡高校から昭和44年に甲南大学へ入学した川原は、高校時代から続けていた空手に没頭。授業は全く出ず、空手に明け暮れていた。

 

昭和40年代当時の日本は景気も絶好調。平成バブルと同じく、人手不足で就職は簡単だった。早い学生は、3年の春には内定を貰っていたという。

しかし、川原は就職活動を全くせず、空手とアルバイトに明け暮れる。同級生が住友生命や安宅産業、UCCなどに決まっても焦りはなかった。アルバイト先の運輸会社で、そのまま働こうと思っていたからだ。大阪の港湾で荷物を上げ下げする仕事だが、空手部の先輩がいる会社でもあり、本当に好きな職場だったという。

 

「大企業のサラリーマンなんて興味なかったし、荒くれ男の職場が私には合っていた。ここで、将来は現場監督になって、仕事の後は皆と馬鹿騒ぎをする。それが私の生きる道と思ってましたよ。

 

それに、先輩から”お前は大卒だからすぐに現場監督だ。ここで3年頑張ったら、どんな人事や商売もやれるぞ”とも言われ、その気になってましたよ」。

 

大学4年の6月、空手の西日本大会が福岡で開催。4針を縫う怪我をしながらも、先鋒の川原が率いる甲南大はベスト8に入った。そして、久しぶりにあった母から「ようやく解放されたね。ところで就職はどうするんだい?」と聞かれた。

 

「いや、もうすでに決まっている。空手部の先輩がいる神戸の運輸会社で、俺は港湾労働者の現場監督や!」。

 

当然、博多に帰ってくると思っていた川原の母は、慌てて兄の健に相談。健が福岡相互銀行(現、福岡シティ銀行)に勤めていた関係で、すぐに銀行の面接を受けさせられた。

 

■最下位の成績で銀行へ入社

 

前述の通り、当時は平成バブルと同じ人手不足のまっただ中。川原は丸刈り頭にサングラスという、ヤクザそのものの姿で福岡相互銀行の面接・試験を受けた。

 

「英語は全くわからなかったので白紙で出しました。他の試験もガタガタ」だったが、7月末には内定が出た。兄の健は、当時の福岡では珍しい慶応大学卒の秀才。銀行も「あの健の弟ならいいだろう」ということで採用したらしい。後でわかったことだが、入社88人中、成績は最下位だったという。

 

兄の七光りで入社した川原は、田舎の荒江支店(福岡市早良区)に配属された。当時の支店は組合紛争がらみで最悪の状態。同期は皆、天神や博多駅周辺だったが、コネ・情実入社・成績最下位の川原には当然?の配置だった。

 

しかし、それから川原の本領が発揮される。銀行の仕事は、預金を集めることと集めた金を貸すことだが、川原は誰よりも多く廻った。「兄のコネと試験も最下位入社という後ろめたさがあった。だから、絶対に同期には負けられないと、強く意識はしていました」。

 

たまに支店長が同行営業することもあったが、1日に50~100件とあまりに多くのお客さんをハイペースで廻るので、いつも支店長は途中で「もういい」と退散。また、朝6時からはお年寄りのゲートボール集会にも参加して、年金預金をごっそり獲得するなどの奇行で毎月月末3日前にはノルマを達成。セカセカ歩く同業営業マンを横目で見ながら、喫茶店で一服するのが日課だった。

 

また、ある時には同業他社である西日本銀行や福岡銀行の従業員出口を張り込み、競合営業マンの後を着けて、行く先々の顧客をデータべース化。後日、その潜在顧客を片っ端から訪問し、ライバルから根こそぎ奪い取った。

 

一方では、真夏の暑い1時から3時までは管理人室で昼寝をしたり、営業時間中に公然とサウナに行ったりしたという。

 

「仕事をやるときはやる。遊ぶときは遊ぶ。だらだらと時間をかけるのは好きじゃなかった。だから、上司に文句を言わせないよう、数字はキチンとやってましたね。それに、空手で鍛えていたからか、キツイと思ったことは一度もない。何でも努力すれば結果は出ると、空手の試合経験でわかってましたから」。

 

川原は会社規定の日誌とは別に、独自の訪問日誌を前日1時間かけて作成。例えば団地1000件を1日あたり50~100件に分け、1件ずつ何をお願いするか、営業するかを決めていた。

 

この型破り営業で、新規契約高では常に社内NO1クラスの実績。「川原日誌」は全店の営業モデルツールとしても使われ、入社6年目には昭和48年入社同期トップで支店長代理に。29歳の時にはエリートコースの労働組合中央執行委員長にも選ばれた。

 

当時はオイルショック後で不況の昭和50年代前半。業界の労働組合の集まりがあったが「この不況には、47年~49年入社組は使いものにならないねえ。福相さん(福岡相互銀行)もその年代はカスばっかりでしょう。困ったもんですよ」と会話が弾んだ。

 

他行は皆33~35歳位で、29歳にしては老けて見られた48年入社の川原は笑うしかなかったという。まさに、今のバブル入社組と同じ様相だったのだ。

 

■父が倒れ、ふくやへ転職・入社

 

荒江支店でめざましい業績をあげた川原は、本店営業部へ異動となる。そんな昭和54年の夏、父・俊夫から、健と正孝に家業を手伝ってくれないかと打診があった。当時、俊夫は67歳。その3年前から胃潰瘍を患い、健康状態が急速に悪化しつつあったのだ。その時、兄の健は福岡相互銀行の大名支店長、正孝は本店営業部の部長代理。

 

正孝は部長代理とはいえ、身軽な営業の身。それに比べると、健の大名支店長という立場は銀行内でも重要で、すぐには離任できなかった。

 

「銀行の仕事も乗りに乗っている時で、かなり悩みました。大学卒業時には家業を継ぐとは全く考えていませんでしたが、徐々にいつかは帰らねばならないかなとは思ってました。

 

昭和50年代に入ってから、ふくやは新幹線の開通などもあって事業は急速に拡大。一方で、親父の体調が良くないのは知っていました。ただ、家業を継ぐにしても、銀行の仕事は手を抜きませんでしたよ。”あいつは銀行でダメだったから家業に戻った”とは言われたくなかったんでね。戻るなら、トップの時に戻ろうと思っていました」。

 

そして翌年の7月に俊夫が死去。母の千鶴子が社長となり、正孝は昭和55年の10月に銀行を退社。取締役営業部長としてふくやに転職した。

 

■店は大繁盛だが、接客は最悪

 

当時のふくやは年商20億で社員は約60名。創業以来の食材卸も手がけていたが、明太子が爆発的に売れていた。店は中洲本店と薬院店のみ。いつも店は満員状態で行列ができることもしばしば。しかし、その結果、店員は客を捌くことばかりで挨拶もしない。繁盛店にありがちな「売ってやる」という態度が見え見えだった。

 

「くわえタバコをしたままで商品を渡す。”いらっしゃませ”も”ありがとうございます”もない。それでも商品は売れる。だからますますつけ上がる。とにかく接客は最低でしたね」。

 

当時は同業他社も乱立状態。卸をせずに直営店も2店だけのふくやは、量販店向けに大量販売する同業に抜かれ、業界第3位に落ちていた。また、「先代が亡くなってふくやの味も落ちた」という中傷も流されていて「危機感は相当にありましたね。そして、まずは挨拶からだと思いました」。

 

銀行員時代に窓口応対コンクールで3位になった経験のある川原は、従業員教育に力を入れた。男性社員にはネクタイを義務づけ、接客マナー改善をを口うるさく言った。また、研修を頻繁に開き、講師は銀行時代の電話・応対コンクールトップの元同僚に頼んだ。

 

しかし、永年のぬるま湯に浸かっていた習慣はそう簡単には変わらない。川原は当時30歳。当然、古参社員とはぶつかった。パートのおばさんからは総スカンを喰い、多くの男性従業員が辞めて行った。

 

「多くの2代目は、先代と一緒にやってきた古参社員を大事にする代わりに悪弊をも温存する。悪いとわかっていてもなかなか変えられないんです。でも、僕は学生時代から喧嘩には慣れていたし、銀行時代も相手が年上であろうと正しいと思うことは貫いてきた。

 

辞めた従業員の方には申し訳なかったが、商店を企業にせねば生き残れないと思っていたしね」。

 

当時の社長・母の指導で、女子社員には書道や茶道を学ばせた。店頭での接客や、贈り物用ののし紙に宛名を書く時のためである。漢字検定試験を今だに受けさせているのも、その流れだ。また、川原は接客以外の生産や品質管理にも改革を進めた。昭和50年の新幹線博多乗り入れや地下鉄の開通で「博多の明太子」を土産に買う人が急増。同業も4年で50社が120社に増えた。

 

ブームとなった激辛志向も後押しし、ふくやも川端工場に続いて昭和56年には清川に第2工場を建設。57年には本社ビルをオープンし、58年には空港通り支店と早良区西支店を開設した。そして、59年には兄の健が銀行を退社して専務として入社。当時、年商は約62億円になっていたが、規模ではNO1の座を「やまや」に譲り渡していた。

 

そして、健の加入で新たな体制が整ったある日、ふくやの大発展のきっかけとなる記事が日経新聞に載った。

 

■老舗か業界最大手か

 

「業界最大手のやまや、老舗のふくや」。その記事は明太子業界の競争を扱ったものだったが、川原ら兄弟の心は悶々とした。直販にこだわり、卸をしないふくや。一方、他社は積極的に量販店などに卸し、規模は拡大の一途。「このままでいいのか」。健と正孝は話し合い、「やはり、老舗であり、かつ最大手でいこう」。

 

それからのふくやは多店舗展開に乗り出す。昭和59年までは4店だった直営店は、現在42店舗。しかし、県外は東京羽田店のみで、他はすべて福岡県内。あくまでも直販で「博多のふくや」にはこだわっている。

 

また、通販システムの構築も早かった。今から18年前、正孝は新工場建設の参考にと長野の菓子メーカーを視察。その会社が、電話受注だけで年間2億円を上げているのを目にする。当時のふくやは通販もしていたが、受付は現金書留のみ。先に現金を送ってくれた人にだけ販売するという前近代的なものだった。

 

「卸しをしない直営店のみ、それも福岡県内のみでは販売量は限られる。回収の心配や即時配送の課題は、電話・コンピュータシステムを開発すれば対応できるのではないか」。

 

正孝はすぐに兄の健に相談し、健が即座に決断。当時、出入りしていた福岡シティ銀行系列のSE・坂本(現、関連会社メディアシステム専務)と一緒に昭和60年、業界発の通販システムを開発した。

 

これで売上も急増。昭和60年68億の売上は翌61年には80億円、62年には100億円を突破。現在の年商200億体制でも、通販は約半分を占める。

 

あまり知られていないが、ふくやは生産設備・品質管理でも先駆的だ。昭和60年、多の津に建設した工場は当時、西日本の食品業界では初のクリーンルーム(部屋を密閉し、チリや細菌を除去する)を設置した最新鋭のものだった。そして平成6年には敷地面積約2000坪の「ふくやフーズファクトリー」を竣工。平成11年には環境マネジメントのISO14001を取得して最先端の品質検査体制を整え、新商品も次々に開発している。

 

■危機をチャンスに変える

 

明太子の売上は、原材料の高騰もあってこの数年は横ばい状態。しかし、関連会社の辛子高菜やシステム開発は好調だ。ふくや本体の新事業では、業務用食材C&Cの「エフフレンドリー」や小売の「たべごろ百旬館」を次々に開店。グループでは200億円を越える大会社に発展した。

 

一見、順調に家業を継承してきたように見える川原だが、実はふくや入社当時に大失敗を経験している。2代目の甘ちゃんと見られたのか、明太子の原卵仕入れでクズ物をつかまされたのだ。

 

「当時毎日2トンを漬け込んでましたが、その4分の1は商品にならない。毎月赤字が2000万円という状態が半年続き、会社が潰れるのではと、夜中に何度も飛び起きましたね」。

 

しかし、クズとは言っても原卵を包む袋が破れているだけで、中の卵には問題はない。これがきっかけで生まれたのが「数の子めんたい」で、翌年に大ヒット。今では貴重な主力商品の一つになった。まさに、危機をチャンスに変えたのだ。

 

元々のふくやの創業は、食材卸し・小売業。昭和30年代には福岡の食材卸しでベスト3に入っていたが、明太子の爆発的ヒットで今では明太子メーカーのイメージが強い。

 

「明太子はもちろん永久に続けます。でも、それだけでは成長には限界がある。今後は食材卸や小売業にも力を入れます。こちらは明太子よりも競争がめちゃくちゃ厳しい業界ですが、市場は明太子に比べると天と地ほどの差がある。

 

空手をやっていたので競争は大好き。銀行時代のように、暴れまくってやりますよ」。

 

RETURN TOP

著書

おすすめカテゴリー記事