悪夢を経て高額納税日本一へ

「若手NO1の美容外科医」

 

日本有数の美容外科グループ

  • 聖心美容外科

総院長 山川雅之

 

昭和39年鳥取県生まれ→鳥取大学医学部卒→大学付属病院→大手美容外科勤務→29歳で独立

 

聖心美容外科は日本有数の美容外科。創業は1993年だが、既に福岡・東京・大阪・名古屋・広島にチェーン展開。ネット関連や予防医学の研究など、関連会社を含めた年商は30億円を超える。

総院長の山川は25歳で院長、29歳で開業、35歳で5店舗経営と業界最年少記録を塗り替えてきた人物。自らの手術症例も3万件を超え、遅れた美容外科の業界に新風を吹かせている。聖心は脂肪吸引や豊胸術等の大きな手術に強く、来院者の約5割は紹介やリピーターで占める。

山川自身、2003年の春に発表された2002年度の高額所得者ランキングで医者としては日本一、全分野でも全国第17位となった。マスコミは「プチ整形のブーム」とこぞって報道したが、勿論、山川が単にブームに乗ったわけではない。文字通り、血のにじむような努力の成果があったからだ。

 

■集中力の学生時代

 

山川は1964年、鳥取県米子市に生まれる。家は地元の小さな空調関係の設備業。零細企業の宿命で、商売が良い時も悪い時もある。風呂もトイレもない借家時代もあったが、両親は山川が小さい頃から図鑑や顕微鏡を与え、ピアノやスキースクールにも通わせた。 「両親は教育熱心でした。自分達と同じような商売人の苦労はさせたくないと、僕には公務員や医者の道を期待してました。でも、僕自身は漠然とですが、何となく商売的なことをしたいなと思ってました」。

中学時代は学級委員やテニス部再建に奔走。テニス部では部長として落ちこぼれの生徒をまとめ、県の総体で優勝するほどに。「人の潜在能力を引き出し、与えられた環境で結果を出す。これがリーダーシップだと学びましたね」。

高校の時、初めて東京に行く。米子時代、5階建て以上のものを見たことがなかった山川は、見るもの全てに驚いた。それからは夏休みや冬休みになると東京や京都に行き、「いつか、大きな舞台で仕事をしたいと思いました」。

大学は国立の鳥取大学へ進む。「東京の大学に行きたかったのですが、当時は家の商売が苦しかったようで、自宅から通えるところにしてくれと懇願された」。

医学部には、高校時代に理系だったというだけで入学。最初は血を見るのも嫌だったが、徐々に慣れたという。解剖実習では今日は指、明日は足などと、一つの死体を少しずつ数ヶ月かけて分解。「さすがにその間は焼き肉が食えなかった」。

学外ではヨット部に所属。これがのちの経営に役立ったという。「ヨットレースはまさに自然との闘い。風や波や潮流を計算し、船体を操って先を競う。しかし、風向きが突然変わったり、何が起こるかわからない。これは経営と同じです。

よく、”風が味方して運が良かった”などと言いますが、強い人は安定して強い。次々に起こる変化を瞬時に判断し、チャンスに変えています。

変化=運を天に任せるのでなく、いかに運をコントロールするか。これをヨットで学びました」。

授業には殆ど出なかったが、試験前には集中して勉強した。ダンボール一杯の授業ノートコピーを前に、1日15時間の勉強を2カ月半。これでいつも成績は校内ベスト5だった。

 

■連続84時間勤務の救急病院時代。

 

学部を卒業後は、研修医として鳥取大学付属病院に勤める。ここでは主に救急医療を担当した。連日、交通事故や重症の患者が運び込まれ、生死を争う危篤患者をいかに救うかが仕事。

6カ月で30人の死亡診断書を書き、ピーク時は連続84時間=3日半寝ずの勤務も経験。持ち場を離れる時も病院から5分以内の移動のみ。24時間365日のハードワークを2年間過ごした。

医者の限界を感じる衝撃的な経験もする。ある日、意識不明で重体の浮浪者がかつぎ込まれ、山川は徹夜で懸命に蘇生治療。患者は一命を取り留め、意識も回復する。医者が自分の職業に使命と誇りを持つ瞬間だ。

しかし、患者はまだ人工呼吸器を付けているので喋れない。そこで山川は50音の文字ボードを患者に差し出す。ところが、患者が震える手で一つ一つ示した文字は「こ、ろ、し、て、く、れ」。

「今でも延命治療には賛否両論がありますが、あの時は真剣に悩みましたね。自分が良かれと思ってしたことが、逆に患者に苦しみを与えることもある。初めて、医療とは何かを考えました」。

 

■美容外科への目覚め

 

激務の合間の当直の夜、山川は高校生の頃の夢を思い出す。「大きな舞台で自由にやりたい」。

通常の医者の世界は狭い。担当教授や出身学校による派閥や序列があり、所属する医師会は上下関係が厳しいピラミッド構造。また、現状の保険診療は構造的な限界もあり、将来性に疑問を抱くようになる。

「10年後の自分を考え、本当に自分がやりたいことができるのかと自問自答しました。もっと自由に、世の中を変えるような仕事をしたい。その結論が、自由診療の美容外科への転身です」。

現在は東大にも美容外科が設置され、美容外科に関するテレビ番組も毎週のように放送されている。しかし、10年前の当時は、病気やケガを直す内科や外科等に比べて美容外科に対する世間の評価は低く、医師の間でも、”あれは何か問題がある医者がやること。医療ではない”という偏見が強かった。

「10年前、既にアメリカや韓国では美容外科医はステイタスが高く、そのうち日本も変わると思いました。また、美に対するニーズはあるのに、既存の美容外科業界が遅れている。このイメージを変えたい。

それに、この業界にはエリートや優秀な医師は少ない。出身大学も親の力も関係ない。自由診療だから実力次第。大きな可能性を感じました」。

相談に行った担当教授からは「お前は成績もいいし、手術の腕もうまい。大学病院でもエリートコースを歩んでいるんだから、そんな馬鹿な事は辞めろ」と言われたが、山川は夢に賭けた。

 

■美容外科へ転職

 

山川は医師専門雑誌で求人情報を調べ、当時、業界最大手だった美容外科に転職。勤務は週休2日制だったが、山川は休日返上で出勤した。

「休みなしの救急病院に比べると楽でした。夜勤はないし、週休2日。でも早く仕事は覚えたい。休日出勤し、院長の手術を見学しました」。

こうして急速に技術を身につけた山川は、25歳の時に鹿児島院長、27歳で福岡院長となる。いずれも、当時では業界最年少記録だ。

そんなある日、山川にスカウトの電話が入る。当時、業界2位で急速に伸びていた美容外科チェーンの院長からだった。「今の1,5倍の給与を払うからうちに来ないか?」。

美容外科の世界では、引き抜きは日常茶飯事。特に、山川が勤めていた医院には優秀な医師が集まっていたため、他の医院からは多くの誘いがあった。

しかし、4時間ほどの電話説得の後、相手の院長は言った。

「君は人に使われるのではなく、自分でやるタイプだね」。

「そうか、僕はもうそんな時期なんだと、初めて独立という文字が浮かびました」。

 

■決意してから半年で独立開業。

 

独立を決意したが、医者は世間を知らない。手術の腕前と経営は全くの別物だ。他の業界のやり方も勉強しようと、山川は様々なセミナーや異業種交流会へ顔を出すようになる。

そして、経営の書物も読み、独立のシミュレーションもいろいろ考えた。

医院の開業には、ビル保証金や店舗内装等で数千万円はかかる。当時の自己資金は500万円のみ。山川は融資を得ようと事業計画書5枚を作り、飛び込みで住友銀行と第一勧銀に行った。しかし、住友銀行は窓口で断られ、第一勧銀は融資担当から「面白いですねえ。でも、担保もないんじゃ無理ですよ」と鼻で笑われた。

「銀行とは、行けばお金を貸してくれる場所だと思っていました。全く世間知らずでしたね」。

結局、田舎の父親に頼み、実家を担保に米子の信用組合から2000万円を借り入れ。それを担保に国金等から2000万円かき集め、合計で4500万円を調達。独立を考えてから、わずか半年で福岡・天神のテナントビルに医院を構えた。

しかし、資金の大半は医院開設費用に消え、開業時の運転資金は残りわずか2カ月分。

「腕に自信はあったんですが、もし、駄目だったら実家は取られ、借金まみれになる。相当なストレスがったのか、その頃は手の爪が生えてこなかったですね」。

口コミが期待できない美容外科は、広告が集客の命。しかし、同業の大手チェーン医院のように、TVCMや有名雑誌に載せる余裕はない。ローカルタウン誌にも地元の競合医院がひしめき、普通の広告では差別化ができない。そこで山川は、一か八かの勝負に出た。

それまでの美容外科の広告は術前・術後の写真が中心だったが、山川は自分の信念を手紙風にして訴えた。「美容外科は魔法ではありません。痛みや腫れもあります」「カウンセリングを通じて、医師を逆に選びましょう」・・etc。

イメージ広告が溢れる中で聖心の意見広告は異彩を放ち、開業2カ月目から黒字に転じた。また、当時は客の足元を見て料金を決める医院が多かったが、山川は手術料金を公開。手術方法やデメリットなども詳しく情報提供し、カウンセリングや相談のみの来院者も大切にした。アフターケアにも力を入れ、他院のトラブル患者も積極的に受け入れた。

医療の世界では、しばしばインフォームド・コンセント(医師からの充分な情報提供と受診者の同意)が問題になる。特に美容外科はイメージが先行し、不安を抱えた受診者も多い。聖心の積極的な情報公開と手術レベルの高さは同業者にも評価され、この世界では珍しく、口コミや紹介者も相次ぐようになる。

こうして開業3年目には九州NO1の美容外科に成長。診療姿勢に共感する医師も多数集まり、7年で広島・東京・大阪・名古屋に開業した。数年以内に横浜、仙台、札幌への開設も計画している。

 

■自由診療のチャレンジャーとして

 

勿論、今まで全てが順風満帆ではない。福岡と広島の2院体制だった開業4年目、事故で腕の腱を6本切る重傷を負って入院。利き腕ではなかったが、仕事=手術が全くできなくなった。直後に相棒の医師も退職し、医師不在の状況に追い込まれる。不安を感じた看護婦も、相前後して全員が退職した。まさに絶体絶命のピンチだ。

幸い1カ月で退院したが、新しい医師の採用には半年から1年はかかる。一時は廃業も考えたが、「やれるところまでやってみよう」と午前中は広島、午後は福岡という体制を組み、一人で2つの医院を1年間廻した。結果は、医師2人体制の時よりも診療報酬が増え、難局を乗り切った。

「やはり、不眠不休の救急医療経験があったからです。でも、自信もつきましたが、一人の限界もわかりました。あの経験以降は経営者としての意識にも芽生え、徐々に人に任すマネージメントが出来るようになりました。文字通り、怪我の功名ですね」。

現在は医師12人体制で、職員も総勢約100名。後発ながら規模・質共に全国トップクラスの美容外科と言われるようになった。

2000年にはバイオベンチャー分野にもチャレンジ。ネットによるDNA鑑定で糖尿病や心臓病等の危険性を予測する予防医学も研究中だ。まだ試験段階で市場規模は未知数だが、「健康食品と同じく、潜在ニーズはかなりある。しかし、この予防医学は保険が利かない自由診療で、民間企業並のサービスや営業力が求められる。現在は開店休業状態ですが、常に新しいチャレンジを続けたいですね」。

山川は独立前、様々な脱サラセミナーに参加した。その中で一番印象に残ったのは、創業開発研究所の小久保代表が言った次の言葉だ。

「独立や新規事業を考える人の90%は成功しない。それは、90%の人は最終的に何もしないから。チャレンジ無くして成功はない」。

チャレンジにはリスクも多いが、成功するためには、まずは10%のやる人になること。一歩踏み出すだけで、可能性は10倍になるのだ。

 

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