恨み骨髄でコンサルへ

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「学業成績は450人中440番の劣等生」

九州トップクラスの経営コンサルタント
●ランチェスター経営(株)代表取締役 竹田陽一

 

福岡大学卒→建材会社で経理・営業6年→計量器の営業1ヶ月→住宅営業2ヶ月→失業→企業調査会社(東京商工リサーチ)で調査・営業16年→社内で業績・給与NO1→45歳で独立

 

経営・営業戦略を勉強した人なら、誰もが一度は耳にするランチェスター法則。英国のランチェスター氏(元自動車会社経営→技術コンサルタント)が第一次世界大戦時の戦争を基に編み出した「競争の法則」だが、日本では統計研究者の故・田岡信夫氏によって広く経済界へ紹介された。

 
ランチェスター法則は、中小・零細企業=弱者でも「大企業の苦手な業界・分野で営業エリアを絞り込み、かつ、商品・サービスも絞り込む。そして、一揆打撃戦的に長時間労働すれば、弱者でも強者=大企業に勝てる」という、日本の95%を占める中小企業にとってのいわば応援歌。

 
竹田陽一は、そのランチェスター法則を応用した経営コンサルタントでは日本の第一人者。特に中小企業経営者の間では神様的な存在で、著書も多く「独立を考えたら読む本」「社長の力を3倍高める本」「ランチェスター弱者必勝の戦略」「一枚のハガキで売上を伸ばす法」「人生を逆転する最強の法則」など、今まで著した本は約40万冊以上のロングセラー。これは九州在住の経営コンサルタントでは他に類を見ない実績で、本屋のビジネス書コーナーには必ず竹田氏の本がある。

 
独立は45歳の時だったが、サラリーマン時代より講演活動も活発に行い、全国での講演回数は約4000回を越える。

 

■成績は下の下。450人中440番の劣等生

 

竹田は昭和13年、福岡県久留米市生まれ。親父は当時としては珍しい、中央大学を卒業して国鉄の駅長というエリートだった。中学時代から物理や機械いじりが好きで、時計やラジオをよく分解していたという。高校時代には秋葉原まで行って部品を買い、自作のラジオを作っていた。

 
しかし、勉強はできなかった。高校は進学校の明善高校だったが、当時は無試験で中学からの割当入学。成績は450人中440番で完璧な劣等生。親や友人からもバカ呼ばわりされていたという。

 
就職も考えたが、「サラリーマン社会は学歴で決まる。どこでもいいから大学に行け」と親父から言われ、当時、無試験で入学金さえ用意すれば誰でも入れた福岡大学経済学部に入学した。

 

 

■親父のコネで中小建材会社に入社

 

今時の学生と同じく、無目的な学生生活を送った竹田の成績は大学でも下の下。当時の就職はほぼ100%が大学の就職課からの推薦だったが、成績の悪い竹田には証券会社か自動車ディーラーの営業職しかない。しかし、経済学部でありながら物理や機械の好きな根暗な竹田には、とてもセールスなどは考えられず、親父と同じ公務員=国鉄を志望した。

 

しかし、成績の悪い竹田は試験を受けさせてもらえず、しかたなく親父のコネで北九州の建材会社に就職することになる。昭和36年のことだ。

 

その会社は、当時従業員約150名で売上は20億円位の規模。大卒社員としては竹田が2人目だった。経理に配属されたが、またも竹田は悩むことになる。当時は計算はソロバンで行うのが当たり前だったが、竹田はできなかった。中卒の女の子のほうがはるかにうまく、かつ、竹田は字が下手で数字もよく間違えた。

 

社会人になっても劣等生なのかと竹田は悩み、ノイローゼ寸前になる。そして、竹田は意を決して社長に申し出て、戸畑の経理専門学校へ通う。
授業料は、社長がポンと出してくれた。

 

しかし、経理のイロハは徐々に覚えていったが、竹田は凡ミスをよくやった。手形にハンコを押し忘れる、数字は間違えるなどのミスが相次ぎ、月次決算でも数字が合わないことが多かったが、それは毎回竹田の数字のミスによるものだった。

 

そして3年後、竹田は当時出始めた新建材=断熱材の営業に転属する。経理のミスが多かったのもあるが、集金に来たバーへの支払時には「いらっしゃい!」と払うなど、気前の良さでは評判だったからだ。

 

営業相手は左官建材屋、金物屋、材木屋、瓦屋、ガラス屋などへのルートセールス。新建材の営業では社内・他社も含め、竹田がもっとも若かった。

 

そして、営業にも徐々に慣れ始めた頃、竹田は出張先の島根の本屋である本を手にする。アメリカの元保険屋でコンサルタントのフランク・ベドガーが書いた「私はどうして販売外交に成功したか」。

 

保険セールスの体験を元に、営業の基本やノウハウを書いたものだが、竹田は感動し「これはスゴイ。営業を勉強したら人生は変わるな」と思ったという。

 

■東京商工リサーチへ転職

 

営業に興味を持ち始めた竹田だが、結局はその建材会社を6年で退職する。2代目とソリが合わなかったからだ。創業者は毎日朝7時半には出社し、バリバリ仕事をやっていたが、2代目である息子は9時半出社。仕事もろくにしないのに威張ってばかりで、竹田は愛想をつかして辞めた。

 
その後、竹田は東京商工リサーチで頭角を現し始めるが、その前にも数社の経験がある。建材会社を辞めて、まずハカリの寺岡の販売会社に入る。乾物屋などの商店にハカリを売り込む営業だが、これは1カ月で退職。「商店相手の営業には、”よう、大将!”的なノリが必要なのですが、代々サラリーマンの私にはそれができなかった」。

 
次に殖産住宅の営業も2カ月。しかしこれも駄目で、タクシー会社へも「中古のタクシー車がもらえるらしいぞ」と職安から経理の仕事を紹介されたが、面接前にギブアップ。次に機械の販売会社も受けたが面接でアウト。

 
「23歳で結婚して、当時28歳。すでに子供も2人いました。でも、ことごとく転職に失敗して職も決まらない。あの頃は落ち込んでいて、暗かったですね。面接時にもそれが顔に出ていたんでしょう」。失業保険を貰ってはいたが、徐々に生活費が無くなっていく日々。電気もあと1カ月で止められる。金がない竹田は、駅の売店でいい求人が載っている時だけ新聞を買って就職活動をした。

 
そんな時に目にしたのが、朝日新聞に載っていた東京商工リサーチ=TSRの求人。「経理時代にリサーチの人間が出入りしていました。毎回、大したことも聞かずに調査報告書を作る仕事。あれなら俺にだって出来るかも、と思いました」。

 
仕事は企業の依頼を受けて、相手先企業の調査報告書の作成と調査チケットを売ること。要は調査と営業。営業はベドガーの勉強で多少の自信があったし、調査に必要な決算書・経理の知識はあった。あとは報告書を書く文章力だけ。

 
当時は調査会社=興信所=ヤクザ?というイメージだったが、金に困っていた竹田には初任給25000円+売上の15%の歩合給が付くのが魅力だった。 竹田は文章力に自信がなかったので、また履歴書に傷がつくのもはばかれ、「まずは、1カ月アルバイトで使ってください」と入社した。昭和42年5月14日、竹田陽一28歳の時である。

 

■入社5年目で日本一になる

 

今度はサラリーマンで失敗したくない。そう思った竹田は、まず、TSR社内を観察した。すると、9時始業だが、課長は9時過ぎ、部長は9時半、支店長は10時半出社だった。「これなら勝てる」と思った竹田は、毎日朝7時半に出社した。 ただ、これは単に気合いを入れるだけではなく、竹田は文章が下手だったので、調査報告書を書くのに時間がかかったためでもある。

 

調査会社の仕事は、調査に行って報告書を作るだけではない。調査の依頼を取る=調査チケットを売らねばならない。大概の場合は、調査に行った先で「お宅も取引先を調査することもあるでしょう」とチケットを売るのが普通だった。

 

しかし、中途入社の新人で既存客も少ない竹田は、ビルの飛び込みをしてチケットを売り込み始めた。同僚や先輩からは「保険屋や広告屋じゃあるまいし、飛び込みでは無理だよ」と笑われたが、金に困っていた竹田は成り振り構わず、しかし、フランク・ベドガーの本をヒントに、福岡のビル街の潜在顧客リストを作って戦略的に営業した。

 

結果、5月にアルバイト入社して9月に正社員になり、11月には給与は7万円になった。これは今の価値に換算すると約70万円。「これはいける、しめたと思いました」。

 

九州の社内売上NO1の人にも会いに行き、その秘訣を聞いた。しかし、いろいろ聞いたが結局、その人はヤクザ的な脅しで受注する、当時の調査会社=興信所によくいるタイプだった。「よし、これなら勝てる。正攻法でまじめにやればイケる、と思いました。3年で抜けると」。

 

それからは毎週火曜日を新規飛び込み営業の日と決め、30件のノルマを自らに課した。名刺が無くなるまでは営業所に帰ってこないと。

 

当時、企業調査会社で飛び込みをやる人間は他にいなかったので、客先は皆、驚いたという。冬の寒い日の夜などは、まだビルに明かりがついているオフィスに飛び込むと、普段は会えない社長や支社長がおり、次々に歓待してくれたという。

 

こうして入社3年目の昭和45年には当時の金額で月給100万円、入社5年目には調査・営業で社内日本一になった。竹田陽一34歳の時だ。

 

その時には、重い「会社年鑑」の営業では風呂敷に包んで走り回り、苦手だった文章も、朝の2時間で調査報告書が書けるようになる。

 

また、竹田は当時、より沢山のお客を廻るため、自転車で営業に走り回った。当時は都心を自転車で走り回ること自体が珍しく、しばしばマスコミの取材も受けたという。

 

■無料・出前講演の開始

 

社内日本一になり、竹田はあることを思いつく。講演をしようと。感銘したフランク・ベドガーの営業の本に「41歳から講演を始め、自分にますます力が着いた。大会社の社長に会ってもまったく物おじしないのだ」とあったのだ。

 
そして、当時年間10万円以上の仕事をもらっている顧客企業に、無料で「危ない会社の見分け方」という講演をしようと思い立った。

 
最初は福岡地場の老舗建材商社の吉田善平商店。当初は幹部数人の予定だったが、行ってみると全社員約80人が集まっていた。竹田は真っ青になって舞い上がり、何をしゃべったかもわからなかったという。評判も散々だったが、「ぜひ、もう一度話させてほしい」と頼み込んだ。その2回目も駄目だったらしいが、徐々に度胸がついたと。

 
2社目は、今や西日本NO1の建材商社になった越智産業での講演。ここではうまくいき、当時の越智社長からも誉められ、「よし、九州中の全営業所を廻って講演してほしい」といわれ、そこまでやってもらうのに無料では困るといわれ、1回当たり3万円をもらい、営業手数料として会社の売上にした。

 
こうして修行を積み、3年で100回の講演をやったという。そのうちに西日本新聞に取材され、次に九州生産性本部でやった講演がNHKで報道されて問い合わせが殺到。会社では単なるサラリーマンだったが「竹田先生をお願いします!」という電話もじゃんじゃんかかり、「上司はムカーっとしていましたね」。

 
しかし、企業調査で競合になっても「じゃあ、無料で講演しましょう」というと無競争で大口の仕事も取れ、三菱商事からも10回呼ばれたほど。完全な「出る杭」だったが、稼ぐ竹田には上司は何も云えなかった。

 

 

■ランチェスター・田岡氏との出逢い

 

以上のように精力的に仕事に没頭する合間を見て、竹田は外部の様々な講演・セミナーにも顔を出した。講演内容の勉強はもちろん、講演の仕方を学ぶためでもある。

 
そして35歳の6月、竹田は当時ランチェスター法則で売り出し中の田岡信夫の講演を聞いた。そしてその時に、身体中に電流が走ったような衝撃を受けたという。「ランチェスターの第一法則は攻撃力=兵力数×武器性能。第二法則は、攻撃力=兵力数の二乗×武器性能。これは私の好きな物理の公式と同じではないか。そうか、関係ないと思っていたが、ビジネスと物理は合い通じるものがあるんだ!」。

 
前述のように、ランチェスター法則は英国の技術コンサルタントだったフレデリック・ランチェスターが編み出した「競争の法則」だが、当時、日本での第一人者は統計研究者の田岡信夫氏。ランチェスター法則をビジネスの分野に分かりやすく導入し、ビジネス戦争にいかに勝つかという講演をやっていた。

 

 

「田岡先生のようになりたい!私の天職はこのランチェスター法則を極めることだと思いましたね」。それからは、田岡氏がセミナーで九州に来る度にお客を集め、カバン持ちとして夜は中洲でランチェスター論議に明け暮れた。

 

 

■本の出版でクビになりかけ、独立を決意

 

自転車飛び込み営業+フランク・ベドガー+ランチェスター法則で勢いに乗った竹田は、益々実力を発揮。38歳の時にはサラリーマンでありながら高額所得者になり、当時のTSR社長の給与も抜いてしまった。また、九州生産性本部での講演がNHKで報道され、依頼が殺到して講演回数も200回を越えた。そして、企業調査本の草分けとなる「危ない会社の見分け方」も出版した。

 
しかし、サラリーマン社会の常で「出る杭は打たれる」。あまりに目立ち過ぎた竹田はクビを宣告されそうになり、初めて独立を考えることになる。

 
「祖父の代からサラリーマンで、独立を考えたこともなかった。いざとなると恐くて悩み、自分はなんで独立できないのかとKJ法で考えました。

 
そして、不安原因の7割は経済的なものだとわかり、いろいろリスク計算をして手元に2500万円あれば大丈夫と。今では偉そうなことを云ってますが、実は臆病な性格なんですよ」。

 
それからは実力をさらにつけ、5年後の43歳で独立しようと計画を立てた。また、貯金目標2500万円のために金は使わないと決めた。移動は自転車で、服も靴も時計も買わない。一部の余裕資金は某金融会社に貸し付け、年間450万円の利息を稼いだりもしたことも。他に土地の購入でも才覚を発揮し、独立前の資産は6000万円になった。

 

 

■遅咲きの45歳で独立。東京に負けるかと決意。

 

 

独立は計画より2年遅れの45歳の時。薬院のマンションで妻とスタートし、初年度に303回、2年目に301回、そして翌年は295回と、わずか3年で約1000回の講演・セミナーを開催。自らランチェスター法則に基づいて講演戦略を立て、1ランチェスター弱者必勝の販売戦略、2危ない会社の見分け方、3人生を逆転する最強の法則/バカでも成功する長時間戦略、などのテーマを確立。

 
特に中小企業経営者からの支持は絶大で、「中小・弱者必勝のコンサルなら竹田陽一」の評価を築いた。しかし、その裏には地道な勉強があった。「日祭日も、自宅でドラッカー(米の経営学者)の本をテープに吹き込んだものを100回は聞きました。また、百科辞典も2セット買い込み、不明な点は勉強しましたね。努力すれば、40歳からでも知的水準がどんどんアップするのを実感しました」。

 

全国の人が集まる東京のパーティにも出かけ、名刺交換した商工会議所等へハガキで講演を売り込んだ。その経験が後に「一枚のハガキで売上を伸ばす法」として出版され、ビジネス書で20万部という大ベストセラーになる。

 

■経営オリジナルテープでも日本一に

 

年収は独立5年目には5000万円を突破し、経済的には何の不安もなかった。しかし竹田は、徐々に講演やコンサル活動に疑問を抱き始める。「こちらが精根込めて講演・指導しても、100人のうち実行するのは1人。講演に行けばわずかな短時間で金は稼げるが、何か虚しい。

 
私がいろんな人のテープを何十回と聴いて役立ったように、自分のノウハウをテープにしよう。テープなら何度も聞けるし、お客さんにとっても結果として安くつく。しかし、テープ制作の間は講演やコンサルはできなくなり、収入は激減する。

 
結局、1年半悩みましたが、妻と一緒に富士山ツアーに参加。頂上でインスタントラーメンを食べ、”よし、来年の元旦からやろう!”と決意しました」。その時の竹田は53歳。それから、講演に行かない、中洲も行かない、同窓会も出ない、金も使わない、の4ない運動を実施。結果、第1弾の経営ビジネステープ集「ランチェスター中小企業の経営戦略」が出来るまでに5年かかった。

 
その後も「スモールビジネスサクセスプログラム」や「逆転の人生戦略」「ベンチャーの経営戦略」などを完成。近年はビデオ版も次々に発行。経営のオリジナルテープは100巻を越え、この分野でも日本一になった。

 
「頭は普通でも、狭い分野で2500時間勉強すれば九州一になれます。そして、20000時間位やれば、その分野では日本一になれる。バカはあれこれ手を出すのではなく、得意な商品・サービスを1点に絞って長時間労働すれば、必ず芽が出ます。

 
あとは小成功しても生活態度を変えないこと。今まで約4000社の倒産取材・コンサル経験でわかったのは、ちょっと金が入ってくると、すぐに車や酒やバクチに溺れる経営者のなんと多いことか。

 
大胆さと臆病さ、この2つが人生には大事です」。竹田の作成した「中小企業の成功戦略・13条」には後から付け足した項目がある。

 
「番外:弱者は調子に乗るな」と。

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