大学出て露天商!

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「大学出て、妻子もいるのに露天商か」

 

日本一のカギチェーン(株)カギの110番/(株)カギの救急車

代表取締役 上野耕右

大学卒業→商社→トランプ会社→倒産→失業→市場調査会社→露天商→カギメーカー勤務→独立

 

「カギの110番」や「カギの救急車」のブランドでお馴染みの(株)カギの救急車。全国に約200店をチェーン展開し、合い鍵の製作や修理、錠前の販売を行っている。この数年、ピッキング等の犯罪急増もあり、事業は急拡大。カギに加え、防犯装置や防犯ガラスの販売等の総合セキュリティ企業に脱皮した。2001年には九州で初めて日本フランチャイズチェーン協会の役員に就任。2005年の500店体制を目指す。

 

■3歳で父が戦死。金持ちになりたい。

 

上野は昭和15年福岡県嘉穂郡生まれ。実家は元々造り酒屋だったが、上野が3歳の時に父が戦死。一気に貧乏生活に追い込まれる。「戦後のドサクサの中、母は女手一つで私ら3人の子供を育ててくれました。当時は女が働くなんて考えられない時代。母はあらゆる仕事をやりながら、一言も泣き言も言わなかった。スゴイお袋です」。

高校卒業後は働くつもりだったが、剣道の先輩からの推薦で関東学院大学に入学。「とても大学なんて無理だと思ったんですが、お袋が”男がこんな田舎で燻っていても駄目だ。東京へ行って頑張れ。お金は何とかするから”と。アチコチから借金してくれて大学へ行かせてもらいました」。

学生時代は体育会剣道部の活動に熱中。合間には港湾荷揚げの警備員等をやり、「今に見ておれ。俺は金持ちになるぞ」と誓った。

 

就職活動では測定器大手のミツトヨ製作所に内定を貰うが、希望だった海外貿易ではなく国内営業だったので辞退。工具商社の(株)ミネギシへ入社する。建築現場用の機械等の営業でトップセールスになるが、悪い先輩とパチンコや映画にはまりこみのサボりがばれて2年後に退社。その後、東洋トランプという会社に当時としては高給の3万8千円で入るが、入社10カ月で会社が倒産。社会人のスタートで立て続けに就職で挫折する。

しかし、持ち前の営業力が認められ、職安経由等で3社に内定。一番給与の良かった会社に行こうと思っていたところ、倒産した東洋トランプの業務にいた人間と会う。事情を話すと「金だけじゃない。金よりも大事なことがあるのでは」とアドバイスを受け、3社で一番給与が低かった商工研究所という市場調査・マーケティング会社へ入社することになる。

この会社はミネギシ時代の先輩の奥さんの紹介だった。「出会いですねえ。この会社で僕の一生を決める天職を見つけるんですから。あの業務の人間のアドバイス、先輩の奥さんの紹介がなければ商工研究所には入らなかった。出会いで人生はいかようにも変わるんです」。

商工研究所では営業を担当。ガソリンスタンド・運送業・建設業等、様々な業種を対象に市場調査の仕事を提案していった。また、この時に出会った専務に強い影響を受ける。仕事の仕方、営業の仕方、商売の仕方等、徹底的に鍛えられた。

■カギとの出会い。いきなり露天商に。

 

ある日、上野がマーケティング活動中に歩いていると金物屋からキーンという音がする。見ると黒山の人だかり。合い鍵を作っていたのだ。

「ピンと来ました。これはいけるんではないかと。当時、マンモス団地が次々に立っていました。カギの需要はこれから益々増える。でも、ライバルはこんな小さな店ばかり。勝てると思いました」。

上野はその場で仕入先を教えて貰い、カギの材料と加工機械を調達。しかし、店を構えるほどの金はない。ならば、こちらからお客さんを回ろうと、団地の中で露天商を始める。日本初の「出張カギ屋」の誕生だ。上野27歳の時である。

「友人知人からは”大学まで出て、妻子もいるのに露天商か”と言われました。でも、やってみなくちゃわからないし、やりたかった」。

商売は最初からうまくいった。団地のポストにチラシを入れると、アッという間に主婦が殺到。当時の20代サラリーマンの平均給与は月2~3万円だったが、上野の手取りは毎月10万円を超えた。

 

■仕入れ会社にスカウトされる

 

カギは(株)フキというメーカーから仕入れていたが、ある日、そこの社長から声を掛けられる。「上野さん、あんたはカギを沢山売ってるようだが、露天商じゃもったいない。うちで働かないか」。

充分稼いでいた上野は断るが、その後もフキの社長からの誘いはしつこい。頼まれて、名古屋で行われたビジネスショーにフキの応援要員として参加する。ショーの目的はカギの加工機械PRだが、そこでも上野は目覚ましい業績を上げる。

普通はブースに来たお客にのみPRするが、上野は会場内を動き回り、キャッチセールスさながらに見学者をブースに引っ張った。自らカギの修理・販売経験がある上野の話は説得力があり、商談は次々に成立。ますます上野に惚れたフキの社長は「将来は代理店を任す。うちに入社してくれ」と口説き、上野も代理店がやれるのならと承諾。独立を前提でフキに入ることになる。

平社員で入った上野は瞬く間に業績を上げ、アッという間にNO2の専務に昇格。入社当時は社員12名で10坪の貸間だった会社を、社員50名・7階建ての自社ビルを持つまでに成長させる。

そして入社8年目に退社。当初の約束通り、フキの九州地区代理店を福岡でスタートする。昭和51年3月、上野が35歳の時だ。

 

■卸から小売りへ。カギの110番の誕生

 

カギの材料・錠前・カギの加工機械などの販売会社として、上野は様々な小売店や会社を回った。「カギはこれから有望なビジネスです。是非、新規事業としてカギ屋を始めませんか? 材料や機械はウチが卸しますから」。

しかし、当時の九州では、カギ屋と言えば雑貨屋や金物屋が副業で細々とやる程度。カギ専業で本格的なビジネスとしてやっているところは一件もない。「お前はカギの機械を売れば儲かるだろう。でも、カギの小売店なんかがうまくいくはずがない。そんなに言うなら自分でやってみろ」。

行く先々で喧嘩を売られた上野は、ならば見本を見せてやろうと小売店「カギの110番」を開業。

卸売りと小売業を兼務することになる。

以前は出張露天商だったが、今度は店にいかに集客をするか。しかし、店構えに金を使い、宣伝広告する金もない。上野は考えた。「人はカギを無くした時にどういう行動をとるか」。市場調査時代のノウハウで調べた結果、電話の104に聞くという答えが一番多かった。

そして、上野は奇想天外な行動をとる。自ら、自分の店の電話番号を104に問い合わせたのだ。

「すいません。カギを無くしたんですが、カギの110番という店は何番ですか?」

「はい。カギの110番は***の***です」。

当時の104は無料。これを毎日、妻と2人で何百回も繰り返した。つまり、104の交換手に、カギの110番の存在を覚えて貰おうとしたのだ。

6カ月後、効果を確かめる電話をしてみた。

「鍵を無くしたんですが、どこかにカギ屋はありますか?」「えーっと、カギの110番という店がありますよ」と。上野は小躍りして喜んだ。

これだけではない。電話番号を教えてくれた104交換手には「いやー、さっき教えて貰ったカギの110番は技術力が高くて早い。大変助かった。ありがとう」と、後で電話を入れた。単に社名の認知だけでなく、あそこは腕も良いらしいという口コミを104の中で広めようとしたのだ。

また、ある時期は人の集まる新幹線や野球場でも、自分で自分を呼びだした。「カギの110番の上野さん、お電話がかかっています」。これで一気に数千人に社名をPR。しかも無料だ。

まさに法律違反すれすれ。今では時効の奇策だが、「金がないならないで、何か方法はある。追い込まれた時は知恵を出すチャンスですね」。

 

■FC希望者が殺到。2005年には500店へ

 

こうしたゲリラ戦法を地道に続ける一方、技術力とサービスでも他を圧倒した。カギと錠前の技術は、新たな犯罪に対応するために日進月歩で進歩していく。その為、カギ屋は常に最新の技術力を身につけねば顧客の要望に応えられない。

その点、上野はカギのトップメーカーである(株)フキの専務まで務め、その後も九州地区代理店としてカギの最新情報はいち早く入ってくる。通常3時間かかる開錠を10分でやったり、他社が断るベンツ等の外車にも対応。技術力の高さが認められ、福岡県警の指定店にもなった。

また、露天商の移動販売を発展させ、無線で市内を巡回するパトロールカーもいち早く導入。24時間365日体制で出張作業を実施した。このユニークさがマスコミにも度々報道され、開業希望者も殺到。創業2年目には早くも5つのFCがオープンし、その後も毎年店は増え続けた。

■東京・大阪へ進出。日本一のチェーンへ。

 

既に西日本一になっていた’95年、「カギの救急車」東京本部を設立し、全国展開へ乗り出す。

「最初は九州だけと考えていたんですが、ある東京の悪徳業者がカギの全国展開に乗り出した。技術力も最低なくせにFCを募っている。頭に来て、こちらから乗り込んでやろうと。勿論、市場の大きさも魅力でしたがね」。

東京はカギの需要に比べて業者の数が少なく、結果として、同業は待ちの商売で技術力も低い。小さな九州の市場で鍛えられた上野にとって、大市場での成功はたやすかった。東京に進出して2年で売上は倍増。’96年に51店だった店舗は、’97年には67店、’98年には78店と飛躍的に伸びる。

’99年には大阪本部も設立して100店舗を突破。’00年には123店、’01年には170店となり、2005年の全国500店体制も視野に入った。今や、業界では圧倒的なNO1チェーンである。

’01年には九州本社では初となる日本フランチャイズチェーン協会の役員にも就任。FC加盟店の育成と指導力も高く評価されている。

上野はその風貌から超ワンマンと見られるが、根はもの凄く素直。若い女性や新FC店の意見にも率直に耳を傾け、間違っていたらすぐに謝る。

上野の成長は、行動力とは裏腹の素直さがあったからこそ。それは、90歳になる上野の母の教育に他ならない。

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