倒産を覚悟

「あの時は倒産も覚悟した」

 

福岡最大級の不動産会社

鳥飼ハウジンググループ

代表取締役 井口忠美

 

家事手伝い→大学1年で宅建取得→大京で営業2年→24歳で姉と2人で起業

 

福岡を代表する不動産会社、鳥飼ハウジング。市内アチコチにある自社ビルには、壁に大きなゴリラがぶら下がっていることでも有名だ。

創業は昭和50年だが、今や年商は約70億円と地場トップクラスに躍進した。賃貸や売買の仲介は市内6店舗で手がけ、賃貸管理戸数は1万戸を超える。また、自社ビルも約40棟保有し、賃ビル経営でも隠れた大手である。

2000年には創業25周年を迎え、一戸建て住宅やリフォーム事業にも進出。’97年には、東京永田町に迎賓館「九州倶楽部」を開設し、政財界・文化界の交流を促進している。2002年には14階建ての自社ビルを建設。ここを拠点に、全国へ飛び回る毎日だ。

 

■実家は菓子屋。子供の頃から労働。

 

井口は昭和25年生まれ。実家は飴などの菓子製造業で、生まれた時から工場の中で育った。中小零細企業だったので、家族総出で飴を袋やリンゴ箱に詰め込む毎日。井口も学校が終わると手伝った。配達や集金の手伝いもしたが、子供だと舐められ、なかなか払ってくれない。商売の難しさ、真剣さを子供心に痛感した。

父は菓子製造の傍ら、小さなアパートも経営していた。こちらも井口は集金を任されたが、この頃から不動産に興味を持つ。「不動産に同じ物件はないし、様々な入居者に会える。これは楽しい商売だと思いましたね」。

福岡大学に入った頃には、将来は不動産業で独立することを決意。大学1年の時には宅地建物取引主任者の資格を取り、様々なアルバイトをこなした。

生まれながらに、毎日休みなく働く両親家族を見たからか、「学生時代から働くことが自分の習性だった」という。

 

■大京観光に入社。モーレツな仕事

 

大学を卒業後、まずは修行とモーレツ営業で有名だった大京観光(現在の大京)へ入社。井口は大分・国東半島の別荘の販売を担当する。配属は福岡支店だったが、福岡市内から国東は遠い。販売ターゲットを北九州市内の人に絞り、朝礼が終わったら汽車に乗って小倉へ向かい、帰りは夜10時40分の最終という日々。

当時、大京はモーレツ営業で伸びていた。様々な名簿を元に、多い時は1日200~300件に電話。部署によっては、電話機に腕をテープでくくりつけるようなことも。ところが、井口を含め、営業マンが考えることは皆同じ。駅前の医者など、社内でお客がバッティングする事も多かった。ある時などは「朝から晩まで、同じ大京の営業マンから電話かかってくる」と、お客からクレームがあり、警察が来たこともあった。

ある営業マンなどは、お客をまず料理屋に連れていって腹一杯にし、郊外の別荘地に案内。そこで契約が貰えなければほったらかしにするという脅しまがいの営業もやっていた。

営業マンの行動チェックも厳しかった。当時は携帯電話もない時代。営業所に電話を入れ、一旦切って折り返しの電話を貰う。つまり、どこにいるかを常にチェックされていたのだ。

こういう経験を2年間したが「厳しかったが、大変な勉強になりました」。

 

■24歳で独立。初受注は2500円。

 

井口が24歳の時、姉と2人で独立する。しかし、金も物件も全くのゼロの状態。まずは賃貸管理からスタートしようと、朝や夜に他の不動産会社が貼りだしている物件をメモ。家主の自宅を一件一件訪問し、賃貸仲介や管理をさせてほしいとお願いに廻った。初受注は家賃5000円の物件。貸間の屋根裏のようなアパートの一室だったが、そこに借家人を紹介し、家賃の半分2500円を仲介手数料として貰った。

「まさにあれが原点ですねえ。ものすごく嬉しかった。今でもたまに、夢に出てきます。初心忘るべからずですねえ。小さなお客さんを大事にすることが大事です。バブル時代は、学生さんでも7万円~10万円のマンションに住むということが多かった。

バブル崩壊後は親御さんの負担も大きくなり、家賃相場は下落。福岡では、家賃3万円台の物件もたくさんあります。でも、そういう小さなお客さんを大事にしようと、常に社員には言っています」。

設立当時は、姉が店舗の中で電話や事務を担当し、井口が物件案内などの外回り担当。しかし、井口のあまりの若さに、お客は「あんた、預かった敷金を使わないだろうねえ。大丈夫かねえ。息子と同い年だし、心配だねえ」とよく言われたという。

 

■創業6年目に倒産の危機

 

不動産業界は浮き沈みが激しく、井口が創業した当時の同業他社は、そのほとんどが残っていない。管理や仲介には金がかからないが、金額の張る売買で失敗するケースが多いからだ。

「あれは創業6年頃でした。資金繰りに余裕がないのに売買に手を出し、お客さんから入金予定の日に入金がない。時間は銀行が閉まる3時10分前。こちらは小切手を振り出していて、このままだと不渡りになる。あの時は倒産も覚悟しましたね。終わったなと。幸い、ある銀行の支店長に頼み込み、緊急融資して貰って助かりました」。

この一件以来、井口は銀行の大切さを知る。そして、賃貸や管理で徐々に力をつけながら、良い物件を少しずつ自社資産として増やしていった。今や自社保有ビルは40棟を超え、余裕資金もある。信金繰りにも困っていない。しかし、盆暮れ正月は勿論、銀行には頻繁に挨拶回りをしている。

「企業には良い時もあれば悪い時もある。銀行との力関係も、こちらが有利な時もあれば不利な時もある。余裕がある時は、ついつい銀行に横柄な態度をとってしまうが、この驕りが恐い。自分を戒めるためにも、銀行への挨拶回りは欠かせません。信用の積み重ねが一番大事だと思います」。

 

■毎朝、頭のチャンネルを変える

 

安定収入の柱はアパート・マンション等の賃貸仲介・管理だが、バブル崩壊後は中古物件の売買を積極的に伸ばした。全国の不動産会社約170社と提携。これはという中古住宅・マンション・ビルなどを購入し、リフォームして売却。平均して、1日に1件は売買しているという。自社物件は、全国の100万都市すべてにある。

「毎朝起きると、日替わりで頭の中をガチャンガチャンと切り替えます。昨日は東京、今日は福岡、明日は仙台・・というように。全国で売買、自社物件を保有してしますからね。これが頭の体操には実に良い。九州に居て福岡を見るのと、東京から福岡を見るのでは全然違う。先を見通す感覚を養うためにも、月に一度は東京を訪れたいですね」。

バブル崩壊の時も、その動向をいち早く東京で察知。不良債権・物件はほとんど抱えていない。

 

■「出会い」がすべて

 

24歳で起業し、一代で地場業界トップクラスにまで築き上げた秘訣は何だろうか。

「とにかく不動産業が好きで、仕事が辛かった記憶もありません。不動産・住宅産業をサービス産業と捉え、住み良い住宅の提供に一生懸命にやってきただけです。ただ、あえて秘訣めいたものを上げるとしたら、それは”出会い”ですかね。多くの人と出会い、沢山のことを学ばせていただきました。それが私の財産であり、会社の経営にも大きく役立っています」。

井口は現在、九州・山口経済連合会、福岡経済同友会、ロータリー、福岡商工会議所、九州経済フォーラム等約50の団体に加盟。毎月50~60件、多いときは1日に3~4件の会合に顔を出す。時には、学生や女性、ITベンチャーの会合にも顔を出し、まさに「会合あるところに井口あり」である。

’97年には、東京・永田町に自社ビルである迎賓館「九州倶楽部」を開設。自ら、出会いと交流を演出する場をつくった。豪華なサロンの他、格安で宿泊もできる本格的な施設だ。現在、九州出身の政財官・文化・スポーツ界約500人が会員となり、東京での貴重な社交場となっている。

「IT時代になっても、直接人と会い、話すことに勝るコミュニケーションはありません。今の時代も、ビジネスに成功する一番の近道は、出会いのチャンスを増やすことだと思います。

それと、出会いで大事なのは、相手が調子が良いときも悪いときも、同じスタンスでつき合うこと。その人が調子が良いときだけでなく、悪いとき、苦しいときも変わらぬ接し方をし、自分ができることは極力お手伝いする。勿論、ビジネスの見返りは考えずにです。本当の人間関係は、そうやって築かれていくのではないでしょうか」。

 

■実るほど、頭を垂れる稲穂かな

 

井口はこの数年、年賀状の代わりとして、敬愛する松下幸之助のカレンダーを送っている。”悩みあるところに改善点あり””不況もまた良しと考える”等の訓示が入った特注品だ。

井口は、この業界にありがちなヤリ手さを全く感じさせない。いつもまゆ毛が下がった穏和な笑顔で、どんな場所、どんな人にも頭を下げて挨拶しまくる。「いつも有り難うございます。お陰様です」と。

まさに文字通り、腰が低い人物だ。普通は、年商70億までになれば、成功者としての面構えも出てくるのだが、井口にはそんなそぶりは全くない。まさに”実るほど、頭を垂れる稲穂かな”を地で行く人(石村萬盛堂・石村社長)だ。

「24歳で何もわからぬままに独立して27年。まさに、お客さんを始めてとして、今まで出会った人のお陰です。自分一人で成し遂げた事なんて何もない。それを常に忘れてはならない。社員にも常にそう言ってます。毎年、それを忘れないためにも、感謝を地で行って成功された、松下幸之助さんのカレンダーを送っているのです」。

数年前より新卒採用にも力を入れ始め、今では毎年約2000人の学生が応募。地元企業の人気ランキングでも上位に位置するようになった。

「この業界はまだまだ近代化も遅れ、人の定着もよくありません。でも、だからこそチャンスがあるのです。私も24歳で起業して、家主やオーナーさんや様々な人に助けられました。今度は私がお返しする番。今後は社会貢献にも力を入れ、明日の不動産業界を担う人を沢山育てたいですね」。

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