倒産を経験して九州一へ

「倒産の日、街は黄色に変わった」

 

九州トップの洋服リフォーム業へ

  • (有)リフォーム三光サービス

代表取締役 宮崎 栄二

 

工業高校卒→設計事務所→洋服店→テーラー創業→倒産→贈答品店へ就職→再度の起業

 

リフォーム三光サービスは、洋服リフォームのチェーン店。ズボンの裾を上げたり、ウエストを短くしたりする地味な修繕・お直し業だ。1件数百円~という地味な仕事だが、現在は福岡中心として約50店を展開。毎年2ケタ成長を続け、特にこの数年は前年対比30~40%成長で年商も3億円を突破した。※2016年現在はグループ110店で8億円。

当初は紳士服販売店の下請けとしてスタートしたが、徐々に百貨店やスーパーの店内に自社店舗を出店。九州では業界最大手になった。

実は、宮崎社長の起業は2度目。一度目は倒産し、サラリーマンを経ての再チャレンジだ。地獄を見た男の、敗者復活物語。

今は元気に、お陰様で商売も順調にやらさせてもらっています。しかし、今から10数年前に私は倒産し、周りの方、様々な人に迷惑をかけました。私の保証人だった親友の家にも借金取りが来て、泣き叫ぶ子供の目の前で、ベタベタ差し押さえということもやらかしました。

倒産したらどうなるのか、そしてどうやって立ち直ったのか、気づいたこと、そう言う話をしてみようと思います。

 

■ある日突然、親父の意志を継ごうと

 

私は昭和23年生まれ。父は「三光洋服店」という洋服のオーダー製作をやってました。親父は私に継がしたいと思っていたようですが、いつも「大変だ、大変だ」と聞かされ、子供心にも家業には魅力がなかったですね。日本人もまだ貧しかった頃ですが、両親の苦労した後ろ姿しか見てません。

だから継いでも仕方ないと、私は福岡工業高校の建築科に入り、家を建てる設計技師になろう思いました。卒業1年前に親父は食道ガンで亡くなり、そこで三光洋服店は一度消滅。幸い、母は仮縫いの技術があり、細々と養ってくれました。

卒業後、大阪で働いていたある日突然、何故か分かりませんが「このままでいいのか、親父は無念だったんではないか」と悶々としました。

そして「親父の果たせなかった夢を継ごう。やはり洋服屋になろう」と、ある日突然、大阪から帰りました。

母は、「馬鹿か。洋服屋がもうダメなのは知ってるだろう」と大反対。しかし、何かが突き動かしたんですかねえ。洋服職人である親父の友人宅に、布団を持って押し掛けました。「住み込みさせて下さい」と。夜の10時くらいでした。

後で聞いたんですが、「2ヶ月も持たない。どうせ逃げ出すから」と母には言ったそうです。実際、洋服職人は上下関係や礼儀作法も厳しい、徒弟制度の世界でした。

そこで洋服の技術をしっかり覚えました。5年縫製をやった後に、裁断や営業も経験。その後、そこのお嬢さんと結婚・養子にという話が来ました。可愛い女性でしたし、その店には財産もあって将来も約束される。

迷いはしましたが「いや違う。自分は親父の意志を継ぐのだ。その為に大阪から戻ってきたんじゃないか」と、7年間やった後、テーラー三光として独立しました。

 

■順調な独立。しかし、長くは続かない。

 

最初は順調でした。一着10数万円の服を周りの人が作ってくれ、いい商売だなと思いました。27歳で「社長、社長」と言われ、「若いのにスゴイですね」などといい気になり、見栄もあって家も2件ほど買っていました。ちやほやされ、おだてられると人間は乗ってしまう、自分は特別な存在ではないかと思うんですね。

そんな時に、ダイエー等大手からテナント出店の話があり、保証金が700万位の店を2~3店舗、借金して出店しました。今考えると、本当に無謀な出店だったんですが、見栄ですね。有名店の中に店を出すのは、気分がいいですから。

最初は国民金融公庫や銀行から借りていましたが、段々と返済が苦しくなり、目に付いたのが高利の街金。思い切って電話すると、「ああいいですよ」と手形一枚で借りました。

当時の金利は60%。100万円で60万円の金利ですから、どう考えても異常ですね。でも、簡単に借りられるもんですから次々に手を出しし、アッと気が付いたら借金は3000万円で月の利息だけで180万。2年後には、借金5000万円に対して金利だけで月250万円。

どうにもならなくなって、社長やってた姉の婿に相談したんですが、「こりゃもうダメ。倒産だよ」と。でも、自分は倒産なんて全く考えてない。苦しかったが、倒産なんて人ごとで、自分がまさかと。しかし、現実に月に利息250万円なんて払える状態ではなかったんですね。仕事も手に着かない。人から言われて、初めて気がつきました。

 

■倒産の日は景色が変わって見える

 

その頃は、午後2時半になると、銀行に手形決済の金を入れに行ってました。毎日その繰り返しで、もう火の車。倒産の2カ月前頃でしたか、何度も夜中にポッと目が覚めるんです。寝ている妻や子供の顔を見て、この子達は大変な家庭に生まれ、なんて可哀想なんだと思いましたね。

で、もうダメだと、ある日倒産を覚悟しました。不渡りを出す日は、景色が変わりましたね。町に出ても何か黄色い霞がかかり、音も聞こえにくくなる。極度の恐怖で、体も異常になるんでしょうね。その日、兄に頼んで弁護士の費用を用立てて貰い、倒産の手続きをしました。

そして倒産になった明くる日、家にダーとヤクザっぽい借金取りが来ました。暴力は振るわれませんでしたが、かなり厳しいことをいわれましたね。

自己破産すると自分は借金チャラで楽になりますが、保証人に取り立てが行く。でも、世話になった人に迷惑はかけたくない。結局、破産はせず、何年かかけても絶対払うからと、何度も債権者と交渉。少しずつ返していくことを決意しました。

 

■素晴らしい人生の出逢い

 

人生で素晴らしいと思うのは人との出逢い。倒産経験者の再就職は難しいんですが、前から友達だった贈答品㈱美紀屋の中村社長が「うちに入りなさい。アナタの力をうちで試しなさい」と言ってくれました。それどころか、当座の借金返済の金も用意してくれたんです。未だに胸が震える話ですね。

そして計画通り、債権者1件あたりに毎月数万円ずつ、どんなことがあっても、毎月毎月誠意を持って返済しました。

美紀屋では、主に葬式の時のお返し物・引き出物を売る仕事をしました。ある意味で売りづらい商売でしたが、中村社長の恩にも答えねばと、懸命に働きました。

ある日、4歳の女の子が事故で亡くなった家庭を訪問。私も7歳の女の子を事故で亡くした経験があったので、悲しんでいるご両親に「今は娘さんは仏さんと一緒で幸せなんですよ。そう思うことが供養になりますよ」と切々と言いました。

すると、「気が晴れました。アナタの一言で立ち直れました」と、そのご両親から大変喜ばれたんですね。このことがきっかけで、これからは人が立ち直り、復活する元気を与えられるような人になろうと強く思いました。

美紀屋では一所懸命やり、業績もそこそこ上げました。そんなある日、社長と奥さんから「専務でやってくれんか」と言われました。光栄でしたね。うれしかったし、収入もこれで安定する。借金返済もあと少しでした。

しかし、考えました。自分はポッと入ってきて、少し業績を上げたから専務では、他の下積みでやってきた社員さんが浮かばれない。もう自分が引く時だ、もう一度自分でやってみようと思いました。三光をもう一度、復活させたい。

こうして、7年間お世話になった美紀屋さんを辞めました。35歳の時でした。

 

■再起を賭けて、再度の独立

 

以前は洋服のオーダーメイドで、相手は金持ち・特殊層だけでした。でも、痛い目にも会ったお陰で、今の自分はおばあちゃんにも子供にも、どんな人にでも頭を下げられる。今度は一部の人だけでなく、洋服に関わる皆を相手にしたい。

洋服のリフォーム、お直し屋さんになろう。「お直し」は業界の中では都落ちだが、技術を活かして、これからはリフォームを深く掘り下げよう。洋服のリフォーム三光で復活しようと決めました。

資金もなかったですが、人間が真剣になると相手に伝わるんですね。近くの呉服屋さんや洋服店に飛び込んで、どんどん注文を貰いました。そして、フタタ(福岡の大手紳士服チェーン)の片江店からも仕事を受注し、仕事も多くなって職安さんから人を採用。それで運が開けたましたね。聾唖者の方だったんですが、その人と二人三脚で始めました。

うちは障害者、高齢者も大歓迎なんです。他の企業は敬遠しますが、そういう方達はマジメで熱心。素晴らしい縫製の技術を持った人が多いんです。

一所懸命やっていたら北九州のフタタからも依頼を頂き、一気に4~5店を任せてもらえました。その後、はるやま、岩田屋と、とんとん拍子にチェーン展開が始まるんです。

 

■障害者の人に教えられる

 

今は従業員90名のうち35名が障害者です。手話で朝礼もし、見てるとこちらが勇気づけられる。少ない給料でも、彼らは本当に喜んでくれ、有り難がってくれます。心が洗われるますね。

以前、宮崎の都城店で、左手の手首から先がない19歳の女の子が面接に来ました。できるかなと心配したんですが、布切れを一所懸命右手で切っている。ああ、これは何とか育てたいと。しかし1週間後、そこの上司から「どうしてもあの子は使えません。辞めるように言ってほしい」と。それでしかたなく辞めて貰ったんです。

ところがある日、うちの取引先に行くと、左手の上腕部から手がない人がいました。見ると、口や足も使いながら、もの凄くうまく仕事をするのです。衝撃でしたね。やればできるんだと。あの女の子を解雇したのは間違いだったと後悔しました。

翌日、全社員を集めて言いました。「多少の障害で諦めるな。出来ない理由を探すのではなく、今後はどうしたら出来るかを考えよう」と。そして、うちはこれから障害者を100名雇うぞと決意しました。何としてもやるぞと。

この仕事は単価400円~1000円などの積み重ねで、年商3億やっても利益は少し。でもうちの良さは、今現在35名の障害者の方が生活できていること。10億やれば100名の障害者を雇うことができる。これがうちの社会的存在意義だ。これが実現すれば、誇れるのではと思います。

また、衣服も、人に着て貰おうという使命感があるはず。洋服に命があれば、捨てられるのは悔しいはず。そういう使命感を持とう。各家庭にある古い衣服を出して貰い、綺麗にリフォームしよう。これが私の生きる道だと、40歳を過ぎて天職を発見しました。

 

■潰れない経営とは

 

これから起業を目指す人のために、潰れないために、体験からいくつかお話をします。

第一は、見栄を捨てるということ。前はショッピングセンターなどの一等地に、見栄で多額の出店料を払って出店。その結果、借金だるまになって倒産しました。ですから、今は、保証金とか固定家賃が条件の場合は出店しません。支払うのは売上に応じた15%だけ。自分のスタンス以外のことはしない。無理はしないと決めました。

今も有名百貨店やJR系からテナント出店の話がありますが、保証金や固定家賃の場合は全て断っています。でも、逆に説得はします。

「うちが出ると、お客は便利で喜びます。また、預ける時と取りに来る時で、2度お客さんは来店します。結局、お店にもプラスです。家賃で儲けるのではなく、相乗効果でお客が増えますよ」と。

第二に、月次の赤字は厳禁。前は赤字が出てもまあ仕方ないでしたが、今は一ヶ月も赤字は許さない。各店長への意識付けは徹底しています。ウチはわずか数百円の積み重ね。だから、少しの意識の違いで変わるんです。

第三に、直取引を増やすこと。大手の下請けは恐い。急に取り引きがなくなることがある。いかに一般家庭との直取引を増やすか。宅配方式も含め、積極的にやっていきます。

第四に、私生活も見栄をはらない。車とか豪邸も建てない。質素でいい。地獄を見ると、今のことは普通じゃない。無くした時にわかる。今というのがどれだけ恵まれているかを。

以前は、数字も全く見てなかった。全くのどんぶり勘定。今は月次決算。月末で締め、翌月の10日にはわかるようにしています。税理士さんにも、「良いことはいい。悪いことを言ってほしい」と頼んでいます。

 

■日々の奇跡に感謝する

 

人間はいつ死ぬか分かりません。これは娘が水難事故で亡くなった時に思いました。朝、元気だった娘が、夜には棺桶の中に入っている。人間の命ははかないと、骨身にしみましたね。

また、あれだけの失敗をして、今は家も建てさせて貰い、90名の従業員に囲まれている。これはもう普通じゃない。ものすごく有り難いこと。

こういうことに、気が付きながら生きていくのが大事です。母ちゃんが家でフトンを引いてくれて、お茶も出してくれて、当たり前と思う。でも、これを隣の奥さんがやってくれたら、有り難うと思うでしょう。感謝なんです。

人間は、失って分かる事が多い。倒産してわかる。毎月の給与も、実は奇跡で有り難い。沢山あるお店の中から選んでくれたお客に、来店を有り難い、奇跡だと思って頭を下げるのと、そうでないことは大違い。まさに、有り難いというお客様への挨拶が大事です。

そういうことを忘れないと、運も開けるのではないか。自分がこういう気持ちになったことに感謝します。障害者の方々も雇い、過去に2度潰れた三光を復活させて、これは何か使命があると感じられるようになりました。

自分の家族、自分の周りの人への感謝。一見、毎日当たり前のことにどれだけ感謝できるか。これを忘れないことですね。

そして、人に対して自分が何ができるのかという使命感。これを考えて仕事をしていけば、商売はうまくいくんではないか。本当にそう思います。

倒産と離婚と娘の死で、多くのことを学ばせて戴きました。有り難うございます。

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