ホームレスから大逆転!

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「俺の人生は何なんだ!」と悩んだホームレス時代

 

極貧→成績最低→転職15回→ホームレスや板金工事経て、

今や九州一のコイン駐車場メーカーへ。

テクニカル電子株式会社 代表取締役 本房周作

 

九州一の駐車場管理機械メーカー。犬マークの100円コインパーキング等、福岡県だけでも約1万台以上の駐車施設を展開。元々は板金加工でスタートし、この10年で売上も10倍になった。近年はオフィス用小型自動販売機などの新規事業も活発で、2000年には株式上場会社の中央無線(株)を買収している。

 

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■極貧、成績最悪、転職人生。

 

本房社長の人生はメチャクチャ。昭和26年鹿児島生まれ。3人の姉がいたが、本房の生後間もなく母が病死。日雇い労働者だった父に、建設現場で育てられる。幼い頃は「建設現場近くの木に犬のように紐でくくられて」遊んだという。

 

小学校・中学校時代はほとんど生活保護状態。

母がいない為、昼の弁当は畑で芋や野菜を調達し、遊びの釣り竿も木を切って作ったりした。

 

中学時代の成績は53人中52番。高校は「名前を書けば入学できた」県下最低の工業高校を、姉の仕送りを受けながら昭和45年に卒業する。

集団就職でトヨタの下請け・豊田鉄工に入社。工場内の修理・保守を担当する。59秒に1台カローラを生産するラインで、勤務は朝・昼・晩の3交代制。トヨタのカンバン方式を学び、それなりに働いた。しかし、ある日、夜中に仲間と会社のバスを無断で拝借して飲みに繰り出す。それが発覚し、責任を取らされてクビになる。

 

一端、故郷の鹿児島に帰るが、何もない田舎。「お前は免許もあるから、商店の運転手でもやれば」と言われたが、「”あいつは失敗して帰ってきたらしいぞ”と思われるのも嫌。俺だって、いつか一旗揚げてやるぞ」。

 

■車で寝泊まりのホームレス時代

 

中古のバンに乗り、とりあえず人の多いところに行こうと福岡へ。しかし、友人知人はゼロで当てもない。月4000円の倉庫に泊まったり、車の中で寝泊まりするようになる。

住民票も保証人もないので、まともな会社には就職できない。履歴書が不要な仕事なら、何でもやった。日雇い建設現場、板金工、ガードマン、布団やアルカリイオン整水器の訪問販売など。

 

一時は、仲間と一緒に脱サラして様々なビジネスをやった。農薬を売ったり、国や県の助成金申請を代行したり、電話機の訪問販売・・etc。

しかし、どれも売りっぱなしで詐欺商法スレスレ。長く続くことはなく、毎日が食うに困る状態。

一時は、ホームレスの多い博多駅近くの音羽公園で寝泊まりを繰り返す。

 

「ホームレスの仲間から賞味期限の過ぎたパンを貰ったり、古道具屋のポットでボンカレーを温め、紙のトレーで食べた。”俺の人生は何なんだ”と、毎日考えていました」。

25歳の頃、電気工事店の下請けとして自動ドアの修理を始める。しかし、下請けだけでは食えない。「故障中」の張り紙がある自動ドアを見つけ、町の飲食店や企業に飛び込んだ。

 

「でも、あの頃は営業も苦手でね。飲食店に飛び込んで”いらっしゃい!”と言われると”じゃあ、カツ丼お願いします”と言う有り様。毎日毎日、何とかしなければという焦っていました」。

 

その後も職を転々と変え、30歳を迎える。

 

■捨てられた自動ドアを改良し、新商品を開発

 

ある時、自動ドアの取り替えをやっていて「捨てられた機械がもったいない」と家に持って帰る。そして、左右に動く自動ドアを上下に動くようにし、左右に鎖をつけてみた。

 

「単なる遊びだったが、これを何かに使えないか。そうだ、駐車場には無断駐車が多い。これを入り口につけ、リモコンで上下させれば不法侵入が防げる。これはイケル!」。

 

今やよく見かける、駐車場の入り口の鎖ガードがリモコンで上下するシステムだ。これが初の自社商品「テクニカルゲート」となる。

 

しかし、商品はできたがいいが、事務所は自宅のワンルーム。自分一人で電話が一つ。外に出ている時は注文も受けられない。日本パーク販売という名刺も作ったが、全くの無名で電話帳にも載ってない。カタログを作る金もない。

 

当初は全く売れず、相変わらず臨時のバイトや下請け工事を続ける。しかし、電話代行会社を使うことで営業に専念できるようになり、現物写真をカラーコピーして駐車場オーナーを廻る。

 

そして、オーナーと同時に賃借人の車にもチラシを配り、「これがあると、不法駐車や盗難が防げます」とPR。駐車場管理人の人件費より安く、管理も楽なことが徐々に浸透する。

 

しかし、やっと日銭も入るようになって妻子を福岡へ呼ぶも、事務所は自宅兼用のアパート。本来の「宵越しの金は待たない」性格もあり、ひと仕事決まるとパチンコ三昧の生活へ。

 

ここで大活躍したのが本房の妻。本房がパチンコに行ってる合間に、電話営業で次々に駐車場オーナーへアポイントを取り、帰ってくると「アンタ!明日はここへ行っといで!」とスケジュール表を渡された。

 

こうして個人営業を5年した後、昭和63年、本房が36歳の時に会社も株式会社に法人化した。

 

■金を飲み込む機械を開発

 

その後、昔の板金技術を活かし、各種カードの自動販売機を製作。当初は「会社が小さい」と言われて不採用だったが、粘りの営業活動でNTTのテレホンカード用に2000台を納入。

 

次はカラオケのミュージックカード販売機を開発。これが当時、バカ当たりした。カラオケ機器を作る日立・三菱・日光堂等のほぼ全メーカーに採用され、社員8名の時に10億円のビルを購入した。

 

「ちょっとした発想でした。カラオケカードは先払いだから店も売り上げが増え、客も便利で喜んだ。こういう仕組みが大事だと気づいた」。

 

しかし、カラオケブームは数年で去り、本房は新しいビジネスを模索する。そして目を付けたのが、当時流行り始めたのコインパーキング。駐車機械は板金技術でお手の物。コインの機械はカード販売機の応用。そして、営業先となる駐車場オーナーは、既にテクニカルゲートの販売で把握済み。

 

コインパーキングは、本房が今までに身につけた技術力・商品力・営業力・既存客が全て活かせる、まさに本房の天職だった。

 

同業他社に先駆け、領収書やお釣りの出る機械も開発。平成7年には「九州・山口地域企業育成金」の認定企業にも選ばれ、遠隔操作で駐車場を監視する「サクセス・アイ・ステーション」も完成させた。

 

こうして、わずか2年の間に瞬く間に市場を席巻。九州地区ではシェア50%以上となった。創業当時1億円の売上も、約30億円に迫る勢い。平成11年には「九州・山口地域経済貢献者財団」より経営者賞を受賞。株式上場を期待する声も多い。

 

しかし、本房は意外に冷静だ。

 

「コインパーキングも今や過当競争。今は見極めの時期です。こういう業界は、移り変わりが激しい。テレホンカードも大手が来た時にすぐ辞めた。結果は、もうテレカの時代じゃないですね。

 

カラオケカードも、曲売りから時間制度になってアッという間に終わり。調子に乗るのではなく、常に先を考えて手を打たないと」。

 

■上場会社を買収

 

’99年からは、飲料の小型自動販売機を開発。数十名の女性営業部隊を作り、コカコーラ等の大手巨大メーカーの市場に挑む。屋外や玄関ではなく、各会社の社内に自動販売機を設置していこうという考えだ。

 

「馬鹿なことをと言われますが、常に新しいことをやってないと落ち着かないんですよ。でも、やることは一貫してます。テレカもカラオケも駐車場も、そしてドリンクの自動販売機も、全てお金を飲み込むものばかり。私は貧乏でしたから、お金を飲み込むものばかり作るんです(笑)。

それに、”あいつは今は商売が当たっているが、そのうち痛い目に会うぜ”という廻りの期待もあります。それは何としても裏切らないとね(笑)」。

 

実際、2000年12月には、上場会社である大手無線メーカー・中央無線(株)を買収。本房は、いきなり上場会社の経営者となり、周りを驚かせた。

そして、赤字商品を全廃するなどのリストラや、仕入れ・営業方法を大幅に変更。自身の給与はゼロにして、役員車などの贅沢品も廃止するなどの再建策を強行した。

 

その結果、10億円の赤字で瀕死の状態にあった中央無線は1億弱の黒字会社に転換。オンボロ上場会社は、わずか1年で放送局向けの優良モニターメーカーに生まれ変わった。

 

当然、今までいた社員からは猛反発を受けたが、再建には外部からの人や応援は頼まず、本房は一人で中央無線に乗り込んだ。

 

「最初は刺し違えをする覚悟でした。でも、草を食って生きてきた極貧経験者からすれば、無駄や贅沢がいくらでも目に付いた。ぬるま湯に慣れた人間に、冷水を浴びせただけです」。

 

■まずはチャレンジ。限界を自分で作るな。

 

本業のコインパーキングでは一定のシェアを確保し、日銭は安定して入ってくる。もう、新たな冒険をしなくても充分食っていける。

経理や社員からは「もう変なことに頭を突っ込むのは辞めて」と言われるが、本房は新規事業には常に意欲的だ。法人化して15年。今まで一度も赤字になったことない。

 

「うちはゲリラ。大手じゃない。あえてチャレンジしなければ駄目。バカになること。そして、常に次の新しい手を考えねば。私の人生がまさにそうだったんで、これはもう習性ですね」。

 

戦後50年。良い学校→良い大学→大企業への入社がゴールの時代が終わった。今後はますます各人の自立が問われ、脱サラも考えざる得ない。

本房は自らの経験をふまえ、IB事業部=起業家を育てるインキュベーションも始めた。

 

「まだまだですが、俺でもここまでで来た。経歴の通り、俺は完全な劣等生・落ちこぼれですよ。でも、誰にでも可能性はあるんだ。できるよと言いたい。必要なのは、アクションを起こす勇気。日本は敗者には冷たい。”あいつは失敗したらしい”とか、”借金抱えたらしい”と無視する。

でも、そうなら、俺なんか過去に何遍死なないといけなかったか。自分の能力は過大評価したらいい。一所懸命やれば、誰かが補ってくれる。

そして、ちょっとしたアイデアや出会いが、人生が変える」。

 

■転職は自分探しの旅

 

当初のヒット商品「テクニカルゲート」を開発した時は、当時、電話代行もやっていた」「事務機ビル」のオーナー・中西社長が様々な相談に乗ってくれた。

 

また、ユーザー第一号は、福岡都心に多くの土地を持つことで有名な、紙与産業の渡辺会長。飛び込みで来た本房を見抜き、テクニカルゲートやコインパーキングを次々に導入した。

 

「私は汚い作業服に真っ黒な爪で、カラーコピーの手作りカタログで説明しました。でも、ああいう人は外見で人を判断しないんです。同業他社の製品を使う場合も、”じゃあ、テクニカル電子経由で”なんて言ってくれた。今でも可愛がって貰ってます」。

 

本房の転職回数は約15回。無学歴に等しく、最初の豊田鉄工を辞めた後は、まともな会社に就職できなかった。どの会社も無名で商品力もない。結果として、エスキモーに氷を売るような営業力を身に着けた。それは、後にメーカーとして出発する際には強力な武器となった。

 

「独立して今のようになるなんて思ってもみなかった。毎日が食うために必死でしたね。でも、転職で多くの業界と仕事を勉強した。自分で自分を発見するためには、何かをやらないとわからない。転職は、自分探しの旅でもあるんですよ」。

 

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