タコ焼き世界一

「大学まで出てたこ焼き?何を血迷ったんだ!」

 

世界初の冷凍たこ焼きメーカー

  • (株)八ちゃん堂

代表取締役社長 川邊義隆

 

大学卒業→ヤナセ→大分スバル→たこ焼き移動販売→店舗展開→冷凍たこ焼きを開発

 

「ほんわか、ふんわか、ほんわかホイッ!」のTVCMでお馴染みの八ちゃん堂。スーパーやコンビニ、ドライブイン等で売られている冷凍たこ焼きでは国内トップクラスのメーカーだ。

実は、冷凍たこ焼きを世界で初めて作ったのは、この八ちゃん堂。最近では、冷凍焼きナスもヒットし、福岡を本社として、日本全国でその名が知られるようになった。売上高はこの5年で倍の約30億円に急成長し、経常利益も約3億円。

今や超優良の食品メーカーだが、そのスタートは車一台からの移動販売だった。

 

■山岳部を卒業後、車のヤナセへ。

 

川邊は昭和16年福岡生まれ。大濠高校から福岡大学へ進学し、学生時代は山岳部主将として、年間180日は山登り。富士山を除き、アルプス級の山はほとんど制覇した。

「あとで実感するんですが、登山と経営は全く同じ。大胆な目標に挑戦する行動力が必要だが、万が一の時のリスク回避や決断力も欠かせない。大胆さと繊細さ。この2つを登山からは学びましたね」。

就職は外車販売のヤナセ。父親が大分スバル自動車の社長で、周囲も自分も自動車の道に進むことには迷いはなかった。将来、川邊は父の後を継ぐまでの修行として、大阪支店で営業を始めた。

就職してしばらくは「登山で立て続けに仲間の死に会い、哲学というか、うつ病気味に人生を考える日々」で芽が出なかったが、ある事件がきっかけで車の仕事に燃え出す。

それは日産自動車とプリンス自動車の合併だ。後に、その合併効果でスカイラインという名車が誕生するのだが、実は川邊は大学の卒論で日産とプリンスの合併を予測・提言していた。それが1年後に現実のモノとなったのだ。

「大事件」を的中させ、川邊は自分の才覚と能力に自信を持つようになる。それからは闇雲に営業で走り始め、入社数ヶ月後に初受注を上げる。親父に報告すると「そうか、100件回って1台売れたのか。じゃあ10台売るのも簡単だ。1000件回ればいいんだから」。

なるほど確率論だと、川邊は毎日数をこなすことだけを考えて回った。当時は舗装されてない道も多く、川邊のズボンは下半分が砂塵で真っ白になるほどだった。

こうして1年後、川邊は新入社員ながら全社で営業トップになる。

「売ってナンボの大阪商人。いくら商品が良くても、売らねば意味がない。営業力の大事さ、大阪商人の力強さというか、ここでビジネスの基礎を叩き込まれたましたね」。

 

■このままでいいのか

 

ヤナセには5年在籍したが、結婚していた妻の父が急逝。乞われて妻の実家の家業である藤原竹材本店に入社し、経営の立て直しに従事する。

そして役目を終えた4年後、川邊の父が経営する大分スバル自動車に入社。営業課長、営業所長を経て、周囲も本人も誰もが将来の社長を継ぐものと考えていた。

「でも、なぜかわかりませんが、何か自分でやりたかったんです。何でもいいから自分で経営したかった。それと、自動車販売に魅力を失ってもいましたね。車はメーカーの縦割り世界で自由に販売できない。自主独立の何か商売はできないかと。

当時35歳を迎え、焦っていました。このまま40歳を超えるとぬるま湯に使ってしまう。独立する最後のチャンスではないかと考えました」。

当初は大分スバルの新規事業として、ホームセンター、住宅展示場、造園・エクステリアを考えた。会社が6000坪の土地を持っており、その有効活用が出来ないかと考えたのだ。

特に住宅展示場は真剣に入れ込み、各社バラバラの展示場を一ヶ所に集約すれば、客が喜ぶのではないかと大手住宅メーカーを説得。今ではメーカー共同の住宅展示場は当たり前だが、当時はほとんどなく、3社から内定を取り付けていた。メーカー縦割りの自動車業界で出来ないことを、住宅業界でできないかと一生懸命考えたのだ。

しかし、親父は川邊の提案にことごとく反対した。

「車だけでも大変なのに、本業以外のことがやれるか。そんなに事業がしたいのなら一人でやれ。事業というものは、本来、一人でやるものだ」。

 

■なぜ、たこ焼きだったのか?

 

こうして父から勘当同然で追い出された川邊は、昭和52年、36歳の時にたこ焼きの移動販売を始めることに決める。

「そのまま居れば、大分スバルの社長の椅子が待っているのに。それもたこ焼きだなんて、何を血迷ったのか。大学まで出たのに、バカじゃないか」と周りは大反対だった。

なぜ、たこ焼きだったのか。実はその2年前、営業所長をやっていた川邊のもとに、後藤という男がスバルのバンを買いに来た。50万円の新車を買いたいが、所持金は5万円。何とか分割で売って欲しいという。

規程の頭金にも足りなかったが、月間目標まであと一台ということもあり、川邊は所長権限で販売。聞くと、車でたこ焼きの移動販売をやるという。

商売に興味を持っていた川邊は、回収の心配もあり、後藤に毎日3ヶ月間、売上の報告をするように約束を取り付けた。

後藤は大分の飲屋街の一角で販売していたが、土日は1日6万円。平日も悪くても3万5千円で、1カ月で約130万円くらい。それから1年以内に後藤から車の発注が2台、2台、7台と来た。計算上は車1台で年間売上1500万円で、原価なんかは知れている。この商売はスゴイと思ったという。

ただ、その後、後藤は商売の成功に酔ってしまい、放漫経営で事業を廃業。成功が原因で金銭感覚が狂い、失敗するパターンを初めて知った。

親父と対立し、もはや資金援助も得られない川邊は、この時のたこ焼きを思い出した。「あれなら資金がなくてもできる。ライバルもいないに等しい。当時は小僧寿司やマクドナルドが広がり始めた時期だが、たこ焼きは和製ファーストフードとしても面白い。移動販売でも、企業化ができるんではないか。とにかくやってみよう」。

 

■中古18万円の車でスタート

 

妻に相談すると、意外にも「それはいいわ。面白いじゃない。やりましょう」と賛成。こうしてたこ焼きを始めることにしたが、当時の貯金は18万円しかない。山岳部の親友で資産家の息子だった中山に借金の相談をすると、ポンと200万円を振り込んでくれた。

さて、場所をどうするか。最初は博多駅近くの民家でやろうと準備をしていたが、目の前がヤクザの親分だとわかり、恐くなって撤退。当初は人口100万人の福岡市しか頭にはなかったが、ある日、福岡県の地図を逆さまに見てみた。

すると、福岡県南部の大牟田・久留米・八女等の人口を調べると、車の30分圏内で約70万人の商圏があることを発見する。その範囲をコンパスでグルリとやると、中心に当たるのが瀬高という町(現在の本社がある場所)。見たことも聞いたこともない町だったが、「こんな田舎なら土地も人件費も安いはず。直感で決めました」。

瀬高の町を車で何度も行き来し、火事で燃えたガソリンスタンドの跡地を格安の月3万円で賃借。事務所は火事で窓硝子も割れていたため、なんとダンボールの上に寝袋で寝泊まりしながら準備にかかった。

ビニールとパイプで「本社」を作り、夜はろうそくで生活。水道や電気の配管工事も自分でやり、そこには約20日間ほど泊まり込んで作業した。

後で聞くと、周囲の人は「火事場の跡に乞食が住み着いた」と思ったらしいが、川邊は「山岳部出身だから野宿は慣れている。全く苦にはならなかった」という。

18万円の中古のバンを分割払いで買い、プロパンガスと作業台を入れ、宣伝の為のマイクも設置。一台しかなかったが、車体にはペンキで「八ちゃん堂・全国FC本部」と入れた。最初からチェーン展開を考えたのだ。

作り方は全くの素人。見よう見まねで小麦粉を溶き、タコとキャベツを切って走りだした。初出動は昭和52年2月。久留米の町中でマイクを握り、「おいしいたこ焼きだよー」と意を決して叫んだが、通りがかりの人は遠巻きに眺めるだけ。初日は数千円の売上に終わった。

その後も1日1万円~2万円の時期が続いたが、徐々にファンも着いてきて5月の連休前後からブレイク。すぐに2台目の車を購入し、妻にも回らせると1日で6万円の売上になった。

今でこそ、たこ焼き店はスーパーや専門店も沢山あるが、当時は祭りの露天や移動販売のみ。接客はないに等しく、たこ焼きも新聞紙に包む程度で不衛生だった。

タコ焼きの企業化を目指していた川邊は、制服制帽を着用し、髪や爪の身だしなみも清潔にした。「いらっしやいませ、ありがとうございます」という接客サービスも徹底。マニュアルもつくり、たこ焼き移動販売の近代化を実行に移していく。

従業員の採用も進め、夏には車は5台となり、年末には11台になった。売れる時には1台で1日6万円の売上。その1/3は売り子さんに払い、そこから材料の仕入れ代やプロパンガス代、車代を差し引いても、粗利は5割前後になった。

創業1年後に納税した金額は約800万円。元来、領収書も請求書もない商売なのでいくらでも誤魔化せたが、川邊は正直に申告した。

税務署は「創業初年度に数百万円も納税した人は初めて」とビックリしていたという。

 

■移動販売から固定店舗へ転換

 

翌年には移動販売車は25台となったが、規模の拡大と共に問題も発生した。ヤクザからの脅しである。元々、露天商や移動販売の世界はヤクザが取り仕切っていたが、新参者の八ちゃん堂が「挨拶もなしに」伸びてきたことで、ヤクザが激怒。撤退するか、1台当たり月4万円を払えと言う。

そんな世界とは露とも知らない川邊は「筋の通らぬことには1円も払わない」と断固拒否。ベルトにドライバーを装備し、事務所には「たこ焼きに市民権を!」と決意表明。命の危険を感じながらも抵抗を続けた。しかし、ある時にはパトカーが10台も殺到するほどの騒ぎが幾度も起き、従業員も怖がって皆辞めてしまう。

言ってみればピンチであるが、この頃にあらためて川邊は確信する。

「同業他社はヤクザかそれに近い人達。とても大企業やエリートは嫌がって参入できない。しかし、市場は確実にある。

俺は大学を出て、車業界でビジネスやマーケティングも学んでいる。おそらく、たこ焼き業界では最高学歴ではないか。正当なビジネスとして闘えば、必ず勝てる。これはスゴイ宝の山を掘り当てたのではないか」。

しかし、移動販売のままでは企業化ができない。そんな時にヤクザの親分が言った言葉を思い出した。

「お前は素人のクセして俺達の領域に入ってきた。これが移動販売や露天商ではなく、店舗をやってたら何も言えないがね」と。

そこで始めたのがロードサイドの固定店。建築基準法の対象外となる2,98坪の店を作り、これを390万円でFCとして売り出した。たこ焼きに加え、ソフトクリームも売れるようにして「明日からあなたもオーナーとしてやりませんか?」と。

これが当たった。3年後には九州全域で約150店舗にもなり、八ちゃん堂はFC本部として食材を供給。年商も約3億円へと大発展した。

ところが規模の拡大と共に、各店舗の衛生管理等に問題が次々に発生。チェーン店の統一性を持たせるのが難しくなり、数年後には固定店舗の新規募集はストップすることになる。移動販売に続き、固定店舗チェーンでも事業の壁に突き当たったのだ。

 

■冷凍タコ焼きへの進出

 

実は創業2年目頃から、川邊は当時出回りだした電子レンジにヒントを得て、冷凍たこ焼きの開発に着手している。最初は焼いたたこ焼きを家の冷蔵庫で凍らせ、解凍して食べてみた。

しかし、単純に焼いたモノを冷凍するだけではまずい。焼きたてではなく、一旦冷凍して解凍したときに上手くなければ意味がない。

何度も試行錯誤していたある時、内部に空洞があるたこ焼きが偶然出来た。食べてみると、焼き立てと変わらない美味しさが再現できている。

「まさに、これが追い求めていた味だと確信しました」。

日本初・世界初の冷凍たこ焼きの完成である。

こうして冷凍たこ焼きの自動製造装置を自社で開発し、製造特許を出願。川邊はドライアイスで冷やしたたこ焼きを背中に背負い、アチコチの商社や問屋・小売店を訪ねた。

どの問屋からも「たこ焼きの冷凍?そんなものが売れるはずがない」と相手にされなかった、小麦粉の仕入れでつき合っていた日清製粉の担当課長に見せると

「これは面白い。味も冷凍品とは思えないほど美味い。本社に掛け合ってみましょう」。

当時、冷凍麺の次の商品を探していた日清製粉は、八ちゃん堂の冷凍たこ焼きの完成度を高く評価。全国販売を一手に引き受けることになった。

その後は甲子園球場や特急電車の機内食にも採用され、福岡地元の博覧会出店時には、半年で約4000万円もの利益を出すまでになる。

これで弾みがつき、大手スーパーやコンビニも次々に八ちゃん堂の冷凍たこ焼きを採用。全国チェーンの居酒屋やドライブインでも定番となった。

平成5年には敷地面積約1万坪の新工場も本格稼働。1日に100万個の冷凍たこ焼きを製造するまでになる。

今では大手冷凍食品メーカーも冷凍たこ焼きを作るが、八ちゃん堂は約40の製造特許を持ち、中に空洞が出来るたこ焼きは他がマネが出来ない。使うキャベツも輸入品ではなく、有機低農薬の地元産。卵も、仕入れて24時間以内のものしか使わない。

こうしたこだわりと味の良さは流通業界でも高く評価され、仕入れ商品の品質には一番厳しいセブンイレブンも、たこ焼きは八ちゃん堂を採用している。

平成7年からは、これも日本初・世界初となる「冷凍焼きナス」を発明して大ヒット。ベトナムに契約農場と加工工場を持ち、大手外食チェーンや一流レストランでも使用されている。

24年前、中古のバン1台で始めた露天商は、今や年商は約30億円で経常利益も3億円を突破。食品メーカーとしてはバツグンの財務内容を誇る。冷凍たこ焼き・焼きナスの専業メーカーでは日本一、世界一である。

成功の秘訣は何か。移動たこ焼きというアウトローな業界ではライバルがいなかったこと、山岳部出身で泥臭いことも平気だったこと、自動車業界で営業力やマーケティング力を持っていたこと、いろいろあるが、決めては妻・勝代の存在。

自動車会社の次期社長の座を捨て、たこ焼きをやるという夫に「それはいいわよ。ぜひやりましょう」と言える女房はそうはいない。しかも、当時は貯金は18万円しかなく、小学生以下3人の子供も抱えていた。何とも度胸のある妻である。

RETURN TOP

著書

おすすめカテゴリー記事