デビュー30年の遅咲き・綾小路きみまろ

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   鳥越 「21世紀になってからブレイクした」
きみまろ 「2002年ですからね、それまでは潜伏期間。30年間売れなかったですから」

年間150本もの舞台をこなす。舞台オンリー。客は中高年だ。

 「中高年はどこが面白い?」
 「爪の先から足の先まで、全部笑いがとれるでしょうね。若い面影は何一つないわけですから。若い頃との比較、これが当たったんです」
 「みんな現実なんだよね。それをぴしっとつく」
 「当たり障りのないところで話を組み立てていく」
 「毒舌なんだけど・・・」

 「いいところは、名指しにしてないこと。中高年500万600万人がひとつになっている。そのグレーゾーンをねらっている」
 「中高年は、身体が弱ったとか、夢がみのらないとか‥‥」
 「その弱いところをガンガンガンガンいってる。でもいわれてる方は、おれのことじゃない、隣のおやじのことだ、女房のことだ、親戚のことだと置き換えているような感じがする」「よくいってくれた。頭に来るけど本当のことだよね、みたいな」

 「みな本当のことですよね」
 「本当の話でなくては伝わらない。それを短めにして伝えるのがわたしの仕事」
 「あきらめかけたことは?」
 「だめかなと思ったことは数回あった。仲間の芸人さんがテレビでバンバン活躍してる。見たくない・・・」
 「どういう人たちですか」
 「ビートたけし、きよしさん、片岡鶴太郎さん、泉ピン子さん。同じキャバレーまわってましたから。つらかった。テレビつけたくなかった」「ただ、どこかに私を分かってくれる人がいるんじゃないかと、切れない糸が少しあった」

20年前のテレビの映像が流れた。お笑いの挑戦番組だった。若い。歯切れはいまよりいい。だが、受けなかった。

 「おれはだめなんだと思ったことは?」
 「テレビはだめなんだなと思いましたね。そこで、テープを作って配ろうと、考え方をかえていった」
 「それが結果的にブレイクにつながったわけですね」
 「そうなんです」

そのテープをもって、サービスエリアの観光バスに渡してまわった。気に入ったら電話をくださいと。これが当たった。そして、

CD化の話になったが、最初は買い取りだった。

 「5000本くらいだったと思うが、5、600万円。テープの売り上げがあったので、そこで賭けたんです」

それが売れた。CDランキング初登場で47位。レコード会社が在庫がない、戻してという騒ぎ。

結局160万枚のメガヒットになった。

 「若い頃と同じこといっても、セクハラだ、年寄りいじめだと受け取られ、ブレイクしなかった。それが、

50すぎて自分もどうきやしびれを体験してから、共感してくれるようになった。それが2002年でした」

この月曜日、35周年記念のCDが発売された。売り上げ目標60万枚。

「カツラの中の髪の毛がほとんどなくなったら引退しようと。まだあります」

「もう一回生まれ変わっても漫談家になりたい。ただ、もうちょっと早めに売れたかった」「ただ、わたしが30代に売れてたらダメになったと思う。売れなかった30年、まったく楽しいことしか思い出さない。この6年で全部帳消し。ムダじゃなかったと」

鳥越は「いい話だった」としみじみ。

伊集院光が「テレビでは売れない、という自己分析力がすごい。いうのは簡単でも、売れたらテレビに出まくってバランス失うなんてよくある。あえて舞台を続けているなんてあまり例がないんじゃないか」

赤江珠緒も「熟成された芸なんだと思いますね」

カツラをカミングアウト

 

綾小路きみまろはテレビの名司会者・玉木宏に憧れ、司会者やアナウンサーを目指して高校卒業の18歳で上京。スグにアナとかになれると思っていたが、大学を出てないと難しいと、新聞配達のアルバイトをしながら拓殖大学へ。配達先にキャバレーのオーナーがいて、キャバレーの司会などをやるように。足立区や新宿のキャバレーを転々。歌舞伎町のキャバレーでは、下積み時代の春日八郎、ディック・ミネ、ツービート、泉ピン子などと一緒になる。30才の頃、日劇に雇われ、森進一や小林幸子、伍代夏子の司会や前座を45才までつとめる。その頃、ビートたけしや泉ピンコは売れまくるが自分はダメだった。テレビを見るのが嫌だった。諦めかけた。というのが人間らしいですね。ジェラシーと絶望。37才のショムニでやっと売れた俳優の高橋克実さんも言ってましたね。30前後で大半の人は役者を諦め、転職や故郷へ帰ると。きみまろの場合は「潜伏期間30年!」と本人も言うように、50才過ぎても売れなかったんですね。そして2002年、52才の時にCDが160万枚と大ブレイク。私もこの頃知って、講演の仕方を学ぼうと本を書い、研究もしました。ホンの少しですが。こんな風に大笑いしながら、小さな会社や独立起業向けの漫談風講演家になれればオモシロイなと。売るために自分でテープに漫談を吹き込み、それをダビングして観光バスへ配りまくったのがスゴいですね。長旅の途中、車内で映画なんかが流れますが、その時に使ってもらおうということですね。上には書いてないですが、そのテープ通信販売はCDの前、月に70万円ぐらい売れていた。と本か雑誌で見た記憶があります。スゴいですね。情報販売の先駆者。それも広告で通販でなく、観光バスに無料サンプル配布して放送して貰い、気に入った客が後でハガキで注文とか。最初のCDの話もスゴいですね。当初は買い取り=自費出版だったんですね。5000枚。それが160万枚とはね。あり得ない大ヒット。ちなみに、観光バスなどに配った無料テープは1万本ぐらいと、著書に書いてありました。スゴいっすね。

 

その他

・売れない時代は地方のドサ回りも自分の車で行き、宿代節約のために車の中で寝ていた。

・売れない時代にテープを配布したのは、こんな漫談家もいたんだと、その証を残したかったから。だから無料で。

・CDは2002年に出たが、メイン客層は中高年だからテープも出してと強く要望した。

・中高年向け毒舌は30代の頃からやっていたが、昔はウケなかった。が、自分も50歳を過ぎてからウケたと。

・観客がいないカメラの前で話すテレビは自分には向かないと。

・1980年台の漫才ブームの頃、やはりテレビに出たいとオーディションは受けまくったが落ちまくった。

・売れずに潜伏期間20年過ぎた頃、さすがにダメかもとマッサージ師を目指し、スキルと資格は保有。

・配布テープはCD化する前は有料(推定2000円)で、毎日50本の有料注文があった。=毎日10万円!

・当たりの講演は年に1回あるかどうか。その音声を繰り返し楽屋で聴くという。

「自分が歳を取ってきて、残った人生を考えた時、元気のない中高年を笑わせようと決心しました。受けようが受けまいが、別に有名にならなくてもいい。マイナーな舞台で、こういう芸人がいたんだという思い出話の一つになれればいい。アルバイトせず、それで食えればいいなと」(2003年PHP研究所・<きみまろ流>より)

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