「北の国から」田中邦衛は3度目に合格

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私、栢野は昔、よく田中邦衛に似ていると言われました。大昔は加山雄三の大ヒット映画「若大将」シリーズのコミカルな脇役やチンピラ役ばかり。その後、50才前から出たのが「北の国から」。これで大俳優の地位に這い上がりましたね。俳優としては加山雄三を完全に抜いた。あの顔で。だから、私も嬉しかったです。

 

「北の国から」が始まったのは1981年。当初見てなかったんですが、何作目かの「北の国から・初恋」のレイちゃんとのシーンが、私の高2の時の初恋と重なった。ほとんど似てた。純が高校卒業して上京する最後のシーンも最高でしたね。田中邦衛演じる父が、純を東京まで乗せるトラック運転手にお礼で渡した数万円の謝礼。その1万円札には泥の跡が。父が肉体労働で稼いだ証拠だ。とてもこんな謝礼は受け取れないと純に渡す。その泥を見て号泣する純。その2年後の「帰郷」は、ホタルの初恋と失恋、純の東京での挫折を描いた名作。これも、私の大阪や東京での転職失敗経験や失恋経験と重なり、他人ごとではなかった。まあ、みんな自分を重ねて見てるんですね。

 

「北の国から」シリーズは2002年に終了。もう10年以上経つんですね。その後はほとんど表に出てない?ふと、検索すると、2013年の記事が出ました。80歳を越えて体力の限界を感じ、実質、引退状態だと。役のイメージを壊したくないんですかね。渥美清に似てるな。ふと、田中邦衛はどうやって役者になったんだろう?wikiには教員を経て、3度めの受験で俳優養成座にとある。その後は経歴がサラっと。さらに調べると・・本人のインタビュー記事が出てきました。1980年の雑誌で「北の国から」放映前。この後に国民的大俳優になるとは、誰も思ってなかったでしょう。本人も。以下は記事からの引用です。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

◆不良にさえなれなかったんです

 

子供のころからダメだった、というのが、どうダメだったのか。

「小さいときは、とにかくやんちゃで、いたずらばかりしてましたよ。それで、親父に蔵の中に入れられたり、長いすに縛りつけられたりしてましたね」「それでいて、めめしいところがあってね。かわいがってくれていたおばあちゃんが死んだときには、ワーワーって泣いたんすよ」

 

だからダメだった、というのだが、このエピソードは、言葉をかえれば、元気な子供だった、気のやさしい子供だった、ということになる。

岐阜県土岐市の窯元“菊泉堂”の息子として生まれた。七人兄弟の四番め。

 

「窯元といってもね、ふだんは家族だけの仕事で、忙しいときでも四人か五人、手伝いの人がくる程度ですから、たいしたことはないんですよ」

中学一年のときにタバコを吸って、それが見つかり、父親が学校に呼び出されたりするが、そのていどのことは珍しいことであるまい。だからダメだ、というほどではない。だが、彼にいわせれば、

「いっぱしの不良にもなれなかったんだから、ダメなんすよ」

ということになるのだが……。

 

「こんな顔だから、劣等感が強かったんすね。鏡を見て、これでモテるわけがないと思って、女の子と口きけないんすよ」

 

それでも、同じ汽車で通う女の子が好きになった。好きになったのはいいが、すれ違うだけで、もう真っ赤になってしまうので、結局最後までそのままだった。思えば、それが初恋だったという。

 

ちょうど学制変更で、旧制中学も三年で終わる。卒業当時の成績は、二〇〇人中の一九四番、というから、かなりの低空飛行ではあった。
高校は、実家から遠く離れた、千葉県の市立広池学園麗沢高校に進んだ。

 

「成績はよくないし、悪いことはやるしで、しつけが厳しいところへやろうってことで、親父が知ってる麗沢高校へやらされたんすよ。道徳教育を重んじる全寮制の学校でね、最初は鑑別所に入れられたような感じでしたよ。あと何日したら家に帰れるかって、そればっかり考えていましたよ」

だが、実はそればかりではない。この高校の二年生のとき、田中邦衛は貴重なる初体験をもっているのだが、その事実を聞くのにたいそうときを要した。なにしろ、照れる人なので……。

 

上級生に連れられて、東京・亀有の遊郭に出かけた。四畳半ほどの部屋に通された彼は、礼儀正しくあいさつをした。
「初めてなんで、よろしくお願いします」

だが、相手の女性は、彼の顔を見て、
「うそでしょう。うそよ」と信じない。

 

「ところがいざというときに、ガタガタ震えちゃって、ようやくわかってくれましたよ。その女性は、東北出身の二十五か六の人だったけど、とてもやさしくてね、いい人だったなあ。二か月ほどしてまた出かけたら、もういなかった。寂しかったなあ」
という話をしてから、田中邦衛は顔を赤くしていった。

「こんな話、もうカンベンしてくださいよ。オレ、参るなあ。参っちゃうよ」

 

◆生徒に教えられる先生でした

 

高校を卒業し、自動的に麗沢短期大学に進んだが、田中邦衛と演劇との出合いは、そのころであった。

「遊び仲間に演劇青年がいて、そいつの影響で興味をもったんです。ほかに趣味はなかったもんすから、夢中になって……」

そして、在学中に俳優座養成所の試験を受けた。

 

「映画のニューフェイスじゃ無理だけど、新劇だったら顔なんかまずくてもいいんじゃないかって、それで受けたんすがね……」

朗読、パントマイム、リズム感テスト、筆記試験など、十数倍の競争率の一次試験には合格したが、二次試験で落ちた。

翌年の春、再度挑戦して、またもや不合格。

 

「こりゃダメだってあきらめて、田舎に帰ったんす。兄貴と一緒に茶碗屋でもやるのが一番いいって……。その茶碗屋をやってたとき、小学校時代にお世話になった先生に、新制中学の先生が足りないから、お前、やってみないかっていわれて……。それでしぶしぶだけど代用教員になったんだから、オレもいいかげんですね」

 

しかも、なんと英語、国語、体育の三課目も教えた。

「英語なんて、とっくに忘れてるから、授業の前の日、必死になって勉強しましたよ。でも、黒板に発音記号なんか書いてると、生徒に“先生、間違えてるよ”っていわれるんです。そうすると、オレ、“悪い、悪い”ってすぐにあやまっちゃう。権威のない先生だったなあ」

それで、やっぱり先生もダメだ、ということになって、翌年の春、三度めの俳優座養成所受験。

 

合格した。
俳優座養成所第七期生。同期に露口茂、井川比佐志などがいた。

 

「あとで聞いたら、三回も受けるというのも、これも一種の才能だからって、合格にしてくれたらしいんすよ。オレなんか、受かるわけ、ないすよ」

だが、本当はそうではあるまい。審判員たちは、田中邦衛の中に、なみなみならない演技への情熱を感じ取ったに違いない。

 

彼の演技への情熱というか、執念を物語る一つのエピソードがある。

 

短大に進んで間もなくのころ、友人が脚本を書いた『誤解』という芝居を上演したことがある。田中邦衛は、演出家の友人にいわれるままに稽古を続けていたが、最後はポロポロと涙を流していったのだ。

「オレ、お前のいうようにやれないよ。オレ、できないよ」

 

それほどまでに演技を愛し、打ち込んでいる若者を、審査員が見逃すはずがないではないか。もちろん、このエピソードは、照れ屋の本人から聞いたものではないが……。

 

◆生まれて初めて怒ったとき

 

念願の俳優座に入ったとはいうものの、それからがたいへんだった。無収入に近いのだ。

 

「いろんなアルバイトをしましたよ。家庭教師をやったり、サンドイッチマンや、ポスターはりや……。ポスターはりは、露口茂とやったんだけど、よその会社の壁にはって、よく守衛に追いかけられたなあ。キャバレーのサンドイッチマンのときには、“きれいなチャンネエ(ねえちゃん)がいるよォ”なんていってね……」

 

そのときの田中邦衛の顔を想像してもらいたい。

 

六本木の俳優座に近い、霞町の二畳間を借りて住んだ。ミカン箱の机と行李を置くと、まっすぐに寝られない。斜めに寝るくせは、そのときについたという。

 

朝は一〇円のコッペパン。昼と夜は四〇円で飯とサンマの開き定食。この食生活が三年続いた。

 

岐阜の実家に頼み込んで、茶碗を送ってもらい、それを個別販売するようになったが、生活は変わらない。

 

昭和三十二年に、今井正監督の『純愛物語』という映画に初めて出演し、ユニークな脇役として認められた。三十六年には、加山雄三の『若大将シリーズ』に出るようになったが、それでも、貧しさには変わりはなかった。

 

「そのころには、少し出世して、赤坂の三畳間に住んでいたんだけど、あるとき、加山が泊めてくれって来たんすよ。でも、三畳間に万年床でしょう。育ちのいい加山は、初めはおもしろがってたけど、“やっぱり、オレ、帰るわ”って帰っちゃった」

 

だが、田中邦衛の名をいっきょに高めたのが、この『若大将シリーズ』であることは間違いない。キザで、いやみで、情けなくて、ちょっぴりいいところのある、田中邦衛の“青大将”は、ときとして加山雄三の“若大将”を食ってしまうほどだった。

 

しかし、田中邦衛はいう。

 

「加山は、明るくて、スマートで、キラキラと才能があって、青春そのものでしたよ。オレは、その青春にぶらさがってただけです。オレって、いつもそうなんすよ。人の後ろにぶらさがって、この世界でやってきたんです」

 

この人ほどベテランになれば、たとえ脇役であっても、主役よりオレのほうがうまいんだ、といってもおかしくないのだが、田中邦衛はけっしてそんなことはいわない。

 

萩原健一、三浦友和、草刈正雄、水谷豊、火野正平……。田中邦衛はみんなをほめる。みんな、自分にないキラキラしたものをもっていると、本気で思っている。

 

役者とは、キャリアではない。理屈ではない、と信念をもっている。

 

だから、かつて俳優座で、中村敦夫を中心とする一派が、イデオロギー論争を起こし、そのために俳優座を脱退するというとき、田中邦衛はいったのだ。

 

「ショーケン(萩原健一)のように、芝居のシの字も知らないやつが、あんなにすばらしい演技をしているじゃないか。あれを見て、あんたたち、恥ずかしくないのか。理屈のための理屈をこねていて、むなしくないのか」

 

おそらくこのときが、田中邦衛が初めて怒ったときであったろう。最初で最後。心からの怒りをぶつけたときであったろう。

今になっては、
「いいじゃないすか。もうすんだことですよ」

と、再び照れのなかにはいりこむのだが……。

 

◆決死の覚悟のプロポーズで……。

 

田中邦衛には、二人の娘がいる。高校生の淳子さんと、中学生の千恵子さん。

 

「オレって、本当に恵まれていると思いますよ。妻と二人の子供に恵まれて、こんな顔して、役者で飯を食わせてもらってるんだから、オレ、本当にラッキーですよ」

 

康子夫人とは、アルバイトの茶碗売りをしているときに知り合った。すでに『若大将シリーズ』は始まっていたが、茶碗売りをやめたら生活できないころだった。

 

「彼女の姉が、俳優座の同期生でね、オレが茶碗を売り歩いてたころ、彼女の家で夕飯をご馳走になったりしてたんすよ。第一印象はよそよそしい女の子って感じだったな。おみやげにまんじゅうを買っていっても、うれしそうな顔をしないし……。でも、ミシンを踏んだり、夕方の買い物に出かけたりするのを見て、いいなあって思ってたんです。平凡なところに惚れたのかな」

 

それで、田中青年、決死の覚悟でプロポーズ。それまで、女性を誘ってうまくいった確率はゼロ。

「で、 OKしてくれればもうけものって感じでぶつかったら、意外にも承知してくれたんです」

 

それ以来、彼女の家にせっせと通って、彼女の親と花札をしたりしてゴマをすり、結婚二か月前から、ちゃっかり住みついてしまった。今でも、親子四人、康子夫人の実家の二階に住んでいる。

 

大恋愛だったんですね、というと、案の定、田中邦衛はおおいに照れていった。

 

「オレには“大”のつくようなものはなんにもないすよ。いやだなあ。からかわないでくださいよ。参っちゃうなあ」

 

田中邦衛--まもなく四十九歳になる。くるぶしから一〇センチも短い細いズボンをはき、人に見られるのが恥ずかしくてしかたがないといった顔で、きょうもひょこひょこと歩いている。

 

「そんなに見ないでくださいよ。かんべんしてくださいよ」

 

と、口の中でぶつぶついいながら……。そういう彼に道であったら、あなた、かんべんしてあげてください。田中邦衛は、本当に死にたいほど照れているのだから……。

 

■「婦人と暮らし」1980年11月号の記事より
http://kuniken.for.cx/oldkuniken/kuniken2003/siryou_hujin01.html

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