諦める力

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為末大さんは元陸上400mハードルの世界選手権メダリスト。引退後の第二の人生に成功している。言論者として。私は「諦める力」を2013年に読んで衝撃を受けた。為末さんは中学時代に100m日本一だったが、高校の後半から400mハードルに種目を変えた。小学生から中学までは100mで敵なしだったが、高校生になると為末さんの成長が鈍り、ライバルに追い越されることが多くなった。100mは人気種目でライバルも多い。が、400mハードルは地味な種目でライバルも少ない。100mでは世界どころか日本でもメダルが取れないが、400mハードルなら世界でもメダルに手が届くと。ビジネスと同じポジショニング。以前、「金メダルがとれるかどうか。それは生まれた時に9割決まっている。努力しても無駄」という意味のTwitterは炎上した。努力すればタイムも縮まる。ある程度は。が、世界一クラスの場合、100m短距離に向いた筋肉細胞を生まれながらに持っているかどうかが成否を決める。最後は。と。夢は叶う。というプラス思考は昔からある。イチローや本田は小学生の時に書いた作文通りに夢を叶えた。大リーガーとセリエAで。あなたも思ったとおりの人間になる。成功する。夢は叶うと思い、書いて壁に貼れば実現する。と。しかし、日本でプロの野球やサッカー選手になろうと思い、実際になれる人は2500人に1人。99,9%の夢は叶わない。私もマンガ「巨人の星」に憧れ、巨人の星を目指した。ホンキで思った。しかし、中学1年の二学期には諦めた。練習がきつくて。中二ではバレーボール選手に憧れた。が、中3前に諦めた。歌手も夢見た。千葉真一のようなアクションスター、ブルース・リーにも憧れた。大学時代は少林寺拳法の道場に通い、関西大会で2年連続優勝した。組演舞で。香川の本部道場指導員か映画スター・・ほんのちらっと夢見たが、10秒も持たなかった。そんな諸々の夢をあきらめ、普通の就職をした。それでも天下のヤマハ発動機。一部上場の有名大企業。誇らしかった。どや!と。次は一流企業のエリートサラリーマン目指して、研修時代から本を読みまくり、部長は最低、社長になると紙に書いたか。しかし、入社半年で営業できずに鬱になり、9ヶ月後の年末に惨めな退職。次のリクルート社もバイトから契約社員になれたが、正社員昇格試験で不合格。3社目のIBMリースも3年持たず、大企業でのエリートサラリーマンという夢も消えた。その時29才。4社目も大企業への転職活動をまた繰り返したが、人事も私もごまかすことはできなかった。仕方なく中小企業へ。スグに採用になったが、その会社は詐欺的FC本部企業で後に倒産破産。大企業から中小企業まで4社の就職転職に失敗し、どうしようかと様々なセミナーや交流会へ出まくった。そこで独立起業の選択肢に気づく。一種の逃げだ。憧れもあった。カッコつけもあった。見栄というかカンチガイ。当時、脱サラコンサルで著名だった創業開発研究所の小久保達さんの創業セミナーへ参加。2日間考えた挙句に出てきたのは、無料職業相談業+人材紹介。自分はリクルートにもいたのに就職転職で失敗した。普通、就職や転職は求人広告や人材銀行のカウンセラーから紹介されるが、企業サイドのおべんちゃらも多い。真実は表に出てない。だからミスマッチも多い。悩める転職者サイドに立ち、昔の自分のような人を救うのだと。正義感に燃えて、それは少しだが、32歳の2月に新宿御苑で独立。(株)アントロポス・データ・ジャパンを資本金150万円で設立。モデルは現代職業研究所・本多信一さん。時事通信社を経て「無料職業相談業」で独立し、本を数十冊出版。1万人以上の相談に乗っていた。原稿の執筆業や中小企業診断士で細々と稼ぎ、天職は相談業だった。私も独立相談で1回行ったが、ヒヤリングも傾聴もほぼなく「あなたは営業経験がありますね。大丈夫ですよ」。原稿の山に囲まれて何か仕事をしながら、私の顔をまともに見ることもなく、相談業としては手抜きだなあと内心思った。がっかり。が、その後、百貨店の商品券をお礼に送った。3000円ぐらいだったかな。丁寧にお礼を戴いたが。で、私の独立だが、開業案内をハガキで出したら、意外に相談者が来た。と行っても10人足らずだったが。そのうち4人が決まった。転職の人材紹介で。紹介先もベルシステム24とアートレンタシステム、ソフトウエアジャパン、ぱど、など。1回だけ、人材スカウトも受けてやった。リクルート社に人材スカウトの打診があったが、当時のリクルートではできない。それが私に廻ってきたのだ。一瞬迷ったが、お金の余裕もなく、とりあえずやってみようと。依頼主は杉並区の米国日本法人で半導体製造装置の会社。スカウト相手は、何かのセミナー参加者リストのだれでもイイと。社名と名前が書いてあり、友達を装って電話した。「山下さんお願いします。友人の栢野です」「お待ちください」「山下です」「いやーすいません。実はスカウト会社の者です。あなたに興味ある会社があり、一度、会っていただけませんか?」ってな感じ。意外に最初から反応は良い。最初か3人もいかずにシーメンスのエンジニアが乗ってきて、3回程度の面談で半年後には転職が決まった。スカウト活動としても成功だ。初めてなのに。しかし、後ろめたさが嫌で、スカウト活動はこれが最初で最後になった。さらに、他の転職相談+人材紹介も気乗りがせず、人も企業開拓もほとんどやってなかったのもあり、独立半年後には実質休業状態に。新宿御苑の家賃15万円から四谷の風呂なし木造6万円アパートへ引っ越し。堕ちたなあと思った。ちょうどその頃、出版社の文字起こしバイトも決まり、週に半分ほどで毎月20万円もらえるように。これでなんとか最低限は食える。しかし、その出版社・ビジネス社は、正社員の編集長も先輩社員も私より年下。未経験で年上の私がここの社員になることは想像できなかった。その頃、椎名誠が著者作家で売れまくり、その経歴が少し私と似たところもあり、オレも作家でどうかと考えたが、そんなことは夢想に過ぎなかった。沢木耕太郎にも憧れたかな。うん。天才と比べること自体がおかしい。夢も希望もなく、惰性のバイトを続ける日々。どうしよう。うなだれる日々。そこに、まさに青天の霹靂。福岡の実家・母が他人の連帯保証1億円をかぶったと。信じられない大事件。実家の差し押さえ。福岡地裁から競売開始決定。債権者は高利の街金。金利29%。父は高校の時に脳血栓でいなかった。弟は就職して結婚。母ひとり。先祖のおじいさんの土地と父の遺産。バブル時代は5億円の価値。それがバブル崩壊とともにいっきに下落し、同時に負債をかぶる。被った借金1億円に対し、手持ちの資産も1億円前後か。大幅下落で。オレは何も成していない。このまま故郷に帰るのは嫌だ。しかし、このまま東京にいてもしかたない。万事休す。迷った挙句、東京を引き払って帰郷することに。・・・・つづきはまたあとで。

 

第3回 有名になる能力はなかった。

元陸上選手・為末大vs糸井重里

以下から抜粋メモ http://www.1101.com/tamesue/2014-09-04.html

為末 陸上選手って、だいたい二十代中盤くらいから
「老いる」という感覚を味わっていくんですね。
体がちょっと固くなったり、
回復が遅くなったりという感じで。
そうすると、だんだん体が
思うように動かなくなる「かなしさ」と、
いましかできないことを最大限に
やっているという「よろこび」が
セットになってやってくるんですよ。
それは、まぁ、強烈な体験ですね。
糸井 強烈でしょうね。
とくに、トップクラスになればなるほど。
それは、やっぱり「死」に近いというか。
為末 いや、そう思います。
糸井 ぼくの知ってる野球選手で
田口壮さんという人がいるんですけど、
田口さんは、選手生活の晩年にケガをして、
手術をして、リハビリをしながら
ずっとオファーを待ってたんですが、
けっきょく行く道がなくて引退されたんです。
そのときに、よくない表現かもしれないけど、
やっぱり「死に近いもの」を感じました。
スポーツの選手って、二度死ぬんだな、って。
為末 たぶん、どの選手も、引退に向かうとき、
「ぼくの競技人生はいったいなんだったのか」
ということと向き合うんだと思います。
もちろん、客観的にじぶんを判断して、
「もう、現役を続けるのは厳しいな」
ということはわかるんですけど、
もしかしたら、あと一回くらい、
「あの体に戻れるんじゃないか」
という希望もかすかにあって、
それが最後まで消えないんです。
その希望の割合は、時とともに
どんどん小さくなっていくですけどね。
糸井 はーー。
為末 そのときに、やっぱり、意味を考える。
じぶんの競技人生は、
いったいなんだったのかと。
ぼくはまだ人が亡くなる局面に
はっきり直面したことがないんですが、
本の中などで、亡くなる人の遺書とか、
死ぬ間際の心理のこととかを読むと、
けっこう、競技人生の終わりと
近いものを感じます。
こう、終わりに向かって、
じぶんの整理をしていくような感じとか。
糸井 やはり、そこでひとつ、終わって、
別の人生がはじまるわけですね。
為末 はい。
糸井 それの二度目の生き方が、
別のすばらしさを得たとしたら、
競技を観ていた人もすごくうれしいでしょうね。
為末 それはそうでしょうね。
糸井 ぼくがいま、話しながら思い浮かべたのは、
被災地の人たちだったんですよ。
被災地の人たちと会っていると、
失ったつらさ、なくしてしまったかなしさ
というのはもちろん感じるんですが、
別のことに向かって歩き出している
強さみたいなものも、すごく感じるんですよ。
為末 ああーー。
糸井 あれだけのことに遭遇して、
なおかつ前を向いて、
また積み上げていくっていうのは、
すっごいんですよ、やっぱり。
それを見るときのぼくらの視線というのは、
こう、なんというか、
ありがたいんですよ。
為末 うーん。
糸井 だから、被災地の人たちに対して、
根っこのところに、
いつも尊敬の気持ちがあるんです。
それは、いま、為末さんの話を聞いていて
逆に整理ができた。
為末 なんていうんですかね、
まぁ、すごい不条理というかね、
理不尽だなって、思うことがあるんです。
たとえばあるとき、大きなケガをする。
しばらく愕然とするんですけど、
そこからまた積み上げていくしかないから、
淡々とリハビリをしていく。
でも、スポーツの現場って、
リハビリして、リハビリして、
やっと競技に復帰できた選手が、
最初の試合でまたケガをすることって
ときどき、あるんですね。
そういう選手が、次の週ぐらいに、
前と同じリハビリ室で、
また同じリハビリをやってるの見たりすると、
これは‥‥なんなんだろう?
っていうことを思うときがあって。
糸井 あああ。
為末 ぼくはそこまで激しいケガはしませんでしたが、
やっぱり、積んできたものが
なんの理由もなく、ガーッと崩されて、
崩されたあとに、またイチから積んでいく、
っていう姿を思い浮かべると、
まったく同じだとはいいませんけど、
被災地の方に通じるものがあるのかなと。
糸井 そういうふうに、
淡々と積み上げていくことって、
じぶんにはとてもできない、って思うけど、
実際にそうなったらやるしかないというか、
じぶんも淡々とそうしちゃうんじゃないか
っていう気もするんです。
為末 ええ、ええ。
糸井 もしかしたらじぶんもできるのかも、
って思う理由がひとつあって。
震災の直後に被災地に行くと、
向こうの人たちが、
ご飯をごちそうしてくださるんです。
ぼくらとしては、支援するつもりなのに、
ごちそうになっちゃいけないんじゃないか、
という思いがあるわけです。
ところが、被災地の人たちは、
「ごちそうしたいんだよ」って言うんですね。
それは、ぼくのなかで、
いろんなこと考えるときの原点になっていて。
人って、じぶんを生かすためのエネルギーを
ただただ吸収してるだけの生き物じゃなくて、
「人を生かす」ことを、やりたいんですよ。
それがもう、本能に組み込まれている気がする。
逆に、「そこはやんなくていいから」
って言われたら、すごくつらいと思う。
為末 うん、うん。
糸井 「ごちそうしたいんだよ」っていう、
その言葉に込められた「ほんとう」に、
ぼくはいろんなものを思い出させてもらった。
なんか、ちょっとね、ラクになったんですよ。
だから、それからは、
どんどんおごらせてあげるようにした(笑)。
為末 ぼくらも、震災のあと、被災地に行って、
子どもたちに陸上のことを
いろいろ教えてたりしていたんですけど、
あとから、手紙をもらったりすると、
「じぶんたちが手づくりしたストラップを
選手の人たちが受け取ってくれて、
身につけて『ありがとう』と
言ってくれたのがすごくうれしかった」
って書いてる子がすごく多かったんです。
糸井 それ、「ごちそうしたい」と
同じじゃないですか。
為末 そうなんですよ。
だからなんか、人って循環するっていうか、
やっぱり、感謝して、される、
っていうふうに、ぐるっと回ってないと
きっとダメなんでしょうね。
糸井 やせ我慢じゃなくてね、
もっとやわらかい気持ち、
人はありがとうって言われたい、っていうか。
為末 うん。
糸井 歳とってくると、
ますますそうなってくるんですよ。
じぶんができることの限界は知ってますし、
あと、ほしいものが減りますから。
為末 ああ、なるほど。
糸井 じぶんがおいしいご飯を食べるのもいいけど、
ごちそうしたご飯を
おいしく食べてる人がいるほうが、
じぶんがうれしい、みたいになっていく。
でも、そういう気持ちは、
ちっちゃい子どものなかにも
ちゃんとあるような気がするなあ。
為末 2つあるのかもしれないですね、段階が。
「生物」として生きてるという段階と、
「人」として生きてるという段階と。

 

第3回 有名になる能力はなかった。
糸井 引退してから変わったこと、
たくさんあると思いますけど、
意外だったことって、なにかありますか。
為末 感覚とか記憶の違いというのは、
おもしろいなと思いましたね。
あの、ぼくはヘルシンキというところで
メダルをとったんですね。
(2005年世界陸上ヘルシンキ大会、
400mハードル銅メダル)
そのとき、大雨の中、満員の競技場で
走って、ゴールして、メダルをとって、
その風景をすごく憶えているんですけど、
先日、そのヘルシンキの競技場に行ったら、
思ってたよりぜんぜんちっちゃくて(笑)。
糸井 ああー。
為末 じぶんの中では、もう、
10万人ぐらい入ってた気がしたけど、
4万人しか入らない競技場だったんです。
だから、見たものを記憶してるんじゃなくて、
見たときのじぶんの気持ちとか、
じぶんを取り巻く関係とかも含めて
記憶してたんだんだなぁと思って。
糸井 こころを記憶してるんですね。
為末 そうなんですよね。
そう考えると、同じものを見ても、
どんな気分で見てるかとか、
それとじぶんがどういう関係にあるのか、
ということによって、
記憶ってずいぶん違うんだろうなぁって、
引退したあと、あらためて思いましたね。
糸井 でも、その2つを比べられる人って、
なかなかしあわせですよね。
つまり、競技のときのじぶんと、
そこを離れたじぶんと。
為末 そうかもしれないですね。
糸井 その記憶そのものが、得がたい財産ですよね。
練習していた時間だとか、
悔しがってた時間も含めて。
それはもう、ぼくらには、
絶対に味わえないものですから。
ゴールしたときに、
なにをどんなふうに感じるか、とか。
為末 そうですね‥‥。
いいレースを走ったときは、
勝ったよろこびもあるんですけど、
走ってる瞬間に、なんかこう、
わーっと湧き出るものがあったりして。
糸井 ほーー。
為末 最後の直線に入ってくるときって、
大袈裟にいうと、
「思いっきり大きい声を出してる」
っていうような感じなんです。
こう、「わあーー!」って言ってる感じ。
走りながら、最後は、
「ああぁぁーーーー」って
息が続かなくなって、
小さくなって、最後に、
「うんんんーー‥‥」っていう感じで
なんとか辿り着く、みたいな。
糸井 はーー。
尽きる、という感じでしょうか。
為末 なんというか、苦しいことなんですけどね。
でも、振り返ってみると、
あの感じって、すごく、
「生きてる」っていうか、
気持ちよさがあったなぁと思うんです。
たしかに、そういうものって、
なかなか、引退したあとは‥‥。
糸井 ないでしょう。
為末 そうですね(笑)。
糸井 スポーツで努力してちゃんと上まで行った人は、
そこを大事にしてますよね。
その、得がたい感覚を。
だから、為末さんのこころのなかには、
やっぱり、グラウンドというか、
トラックがあるんですよ、たぶん。
為末 そうかもしれません。
糸井 引退したとしてもね。
なんか、それは、いいなぁ。
為末 それで思い出したんですが、
有森(裕子)さんが
引退した選手を対象にした講演のなかで、
こんなふうにおっしゃってたんです。
「現役時代にみなさんには、
すばらしい思い出と感動が
あったと思いますが、
引退後の世界には、
もう、そんなものはありません。
それを受け入れることから、
引退後の人生をはじめましょう」って。
それは、たしかにそのとおりだなと思いました。
競技のなかであれほど強烈な興奮を味わったら、
引退後の人生でも探してしまって、
そのまま、ここでもない、ここでもない、って
流浪の旅に出ちゃったりしますから。
そうなってしまうよりは、
「そんなものはもうないんだ」って
割り切ることを伝えてあげるほうが、
やさしさなのかもしれないな、って。
糸井 それほどのことなんですね、引退するって。
やめるとき、会見とかで
涙する選手も多いですけど、
為末さんはどうでした?
為末 うーん‥‥そうですね‥‥。
子どものころ、ぼくはレゴとかで、
夢中になって遊ぶ子だったんですけど、
ずーっとひとりで遊んでると、
ご飯のときに下の階から呼ばれても、
その声が聞こえない感じだったんですね。
すごく大きい声で呼ばれてはじめて
「あ、晩ご飯ができたんだ」
って気づくような感じで。
そのときの感覚と同じ感じでしたね、
引退した瞬間って。
糸井 あーー、そうですか。
為末 「なんだ、もう終わりの時間か」
っていう感じで。
糸井 はーー、
もう聞くだけです、そういう話は。
一同 (笑)
為末 ははははは。
糸井 聞くだけだなぁ。
いやぁ、そういう話が聞けて、うれしいです。
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