夢はかなわない確率のほうがずっと高い

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※以下は偶然見つけた記事。山下達郎は有名ですが、曲は知ってますが、人物は知らなかった。ロングセラーの秘訣の一部がわかりました。計算してるんですね。良い意味で。シュミレーションでしてる。戦略的に。

 

◆「職人でいる覚悟」・歌手・山下達郎

 

以下、朝日新聞2011年より抜粋 http://www.asakyu.com/column/?id=1028

 

僕たちの時代に音楽の波が押し寄せる

 

ポピュラーミュージックが一番というか、音楽が文化の中心だった時代がありました。1950年代から60年代、70年代とそれが続くのですが、特に60年代は、ステレオやLPレコードの出現によって音質が革命的に進化したのです。そしてビートルズに代表されるロックンロールが流れ込んできた。

 

その時代に僕は小・中・高と一番多感な時代を過ごしたので、音楽が最も大事なものでしたね。レコードを聴くためには家に帰ってその場にいないとダメだから、音楽と対峙(たいじ)し集中する。するとそこに「ミクロコスモス」が出現するわけです(笑)。一人でそれと向き合っていると宇宙の果てまで連れて行ってもらえるような深い感動がありました。僕は浴びるように音楽を聴いていた子どもです。

 

中・高と6年間ブラスバンドにいて、ドラムとパーカッションだけは先生に習いましたが、それだけです。友人たちとバンドを組んだりして音楽は楽しかったけれど、ミュージシャンになろうなんて考えてもいなかったし、アカデミックな教育も受けていません。それでも時代の力は大きかったというべきか。中学を出るまでは理系志望だったのですが、高校でドロップアウトして。音楽著作権などを学ぼうと大学へ行きましたが、わずか3カ月で挫折。結局音楽そのもので生きていきたいという誘惑にはあらがえませんでした。

 

僕たちは70年安保という政治争乱に巻き込まれた世代です。既成の価値観に強い反発があり、音楽が文化の主流という時代の中で、人生に関わる音楽のパワーが今とは全く違っていて、ドロップアウトする人間はほとんどがミュージシャンか、その関係者になっていきました。もし僕があと3年早く、あるいは3年遅く生まれていたら絶対にミュージシャンにはなっていなかったでしょう。時代が僕を音楽の道に引き入れたのだと思いますね。

 

「30歳までにめどを」。親の言葉が胸にあった

 

スタートは「シュガー・ベイブ」というバンドです。「SONGS」というアルバムも出たのですが、そのレコード会社が3カ月でつぶれたために、僕らは一銭の印税ももらえませんでした。バンドの仕事は不定期だから、アルバイトもできなくて困窮しました。その時にCMで拾ってくれる人がいて、3時間で曲、編曲、歌唱をやって15秒CM一本を仕上げ4万円ちょっともらった。それが人生初の音楽収入(笑)。

 

その後CMで使ってくれる人が増え、何とか食べられるようになりました。ほかにも食べるためなら、コーラスボーイ、作曲、編曲など何でも引き受けましたが、その経験が後になって自分の身を助けてくれた。音楽業界のさまざまな注文に懸命に応えたことが、結局は僕を育ててくれたと思います。

 

音楽という予想もつかない世界に入り込んでいった一人息子に、両親は「30歳まではいい。でも30歳になったら、これが自分の一生の仕事だというめどをつけろ」と言い続けてくれたので、食べるための音楽って何だと考え、僕はアーティスト気分で浮かれなくてすんだのだと思います。

 

曲作りは苦しいが、妥協だけはしない

 

何のために音楽をやるのか、表現者としてどんな音楽活動をしていくのか。僕はそうした自分に対する問いかけを常にしてきました。功名のためとか、金もうけの手段として音楽を選んだわけではないがゆえに、自分の表現の必然性を自分なりに考えて生きてきたのです。

 

新人バンドなどがよく説得される言葉が「今だけ、ちょっと妥協しろよ」「売れたら好きなことができるから」。でもそれはうそです。自分の信じることを貫いてブレークスルーしなかったら、そこから先も絶対にやりたいことはできない。やりたくないことをやらされて売れたって意味がない。そういった音楽的信念、矜持(きょうじ)を保つ強さがないとプロミュージシャンは長くやっていけないのです。

 

自分の表現手段である音楽活動以外は、あれもやらない、これもやらないと、やらない尽くしのネガティブプロモーションが、結果的に僕には一番合っていたのだと思います。テレビCMに出演して「RIDE ON TIME」が大ヒットしてブレークした時、少し顔を覚えられただけで、新幹線の駅売店の売り子さんが、「ああ、あなた、昨日テレビ出てた、出てた」と、こっちがどこの誰だろうと関係なく、ただの有名人として扱う(笑)。僕はそういうのが苦手だったので、以後は大きなメディア露出をなるべく避けて今に至っています。

 

夫婦でCMに出ないかと誘われたことがあります。2日間の拘束で相当なギャラでした。でもそんなことをしたら、自分の曲が書けなくなります。曲を書くのは大げさに言えば命を削る作業なので、できなくて苦しんでる時に頭に浮かぶでしょう、またCMに出ようかなって(笑)。曲を書く以外に生きる道はないところに、いつも自身を追い込んでいなければと思うのです。

 

黙って真面目に働く人こそ仕事人だ

 

僕はアーティストという言葉が好きではありません。知識人とか文化人といった、上から目線の「私は君たちとは違う」と言わんばかりの呼称も全く受け入れられない。名が知られていることに何の意味があるのでしょうか。市井の黙々と真面目に働いている人間が一番偉い。それが僕の信念です。

昔からハワイやアジアなどの海外公演の誘いがたくさんありましたが、全く興味がありません。そんな時間があったら、日本のどこかで真面目に働いているファンのために演奏し、歌いたい。それが僕に課せられた責務だと思っています。

 

指物師が尺も何も使わずに目分量で切って、ビシッと寸分違わず枠をはめるとか、グラインダーの研磨の火花でアンチモンが何%入っているか分かるとか、本物の職人技を見ると心底感動します。きっとそういう職人たちは有名になることにはこだわりがないでしょう。人の役に立つ技術を自分の能力の限り追い求めているだけ。それが仕事をする人間の本来の姿だと思います。

 

僕も姿勢は職人です。作った曲が誰かに喜んでもらえればそれでいい。この社会は職種に関わらず、懸命な仕事人の働きによって回っていると思います。

 

魂の叫びだけで100曲は書けない

 

音楽の世界では、大きく二つの働き方があります。作品を自ら作り表現する側、作り手を助けることでビジネスをする側。作り手を目指すといっても、ロックンロールの場合、ギターコードを三つ知っていれば曲が作れてしまう。でもその程度では100曲は書けません。自分の魂の叫びがいくら強くても、すぐに限界が来るのは冷徹な事実です。音楽表現を長く続けていくためには、継続的な訓練と学習が必要なのです。

 

この世界は見切りが早く、3年くらいやって芽が出ないと簡単に切り捨てられてしまう。レコード会社の責任もありますが、プロとしてお金を稼ぐというのはどういうことか、趣味でやるのと何が違うのか、若い時から考えなくてはいけないと思う。「俺はいい曲を書ける天才だ」といくら言ってみても、それにお金を払ってくれる人がなければ自称にすぎない。逆に500円でも千円でもギャラをもらえば、金額に関係なくプロフェッショナルの責任と権利が生じてくる。

 

「夢は必ずかなう」という言葉が独り歩きしている時代ですが、僕は「夢はかなわない確率のほうがずっと高い」と思う人間です。ですから、懸命に努力し、その結果、夢がかなわなかった時にはどうするのか、それをも想定して仕事をするべきではないか。「夢」は魅力的で力があるけれど、あくまで結果であって、夢を最初から暴走させてはいけないのです。

 

技術変化の波も、泳がなくてはならない

 

僕がまだ若かった1980年代中期、押し寄せてきたオーディオ機器のデジタル化に翻弄(ほんろう)され、腹を立てていました。アナログメディアの限界による変化ではなく、メーカーが頭打ちになった需要を回復するために、レコードからCDへとデジタル化を推し進めていった結果、制作行程を根本的に変えなければならず、またその未完成さに作り手は振り回されました。

 

だからといって、いつまでも文句を言っているわけにもいかない。なぜならポピュラーミュージックというものは時代とともに生きている音楽だからです。僕は職人の魂で仕事をしたいと思いますが、自分の昔の価値観や経験則にこだわり過ぎるとたちまち時代に取り残される。それを避けるためには必死に自己変革や学習を続けるしかないのです。

 

以前のような響きが出なくなったとか、ちょっとしたニュアンスが得られないとか、その結果、こうしたらどうか、ああすればどうかと「たられば」の鬼になってしまった時代もありましたが、でもそうやって迷ったことに後悔はありません。自分の音楽性さえぶれていなければ、必ず改善できる。大切なのは音楽の作り手として何が重要か、自分はこれでいいのかという自問でしょうね。勢いと熱だけでは続かないのが仕事です。夢を抱きながらも、冷静さも併せ持って欲しいと思います。

 

やました・たつろう ●シンガー・ソングライター/音楽プロデューサー。1953年生まれ。75年バンド「シュガー・ベイブ」としてシングル「DOWN TOWN」、アルバム「SONGS」でデビュー。76年アルバム「CIRCUS TOWN」でソロデビュー。80年発表の「RIDE ON TIME」が大ヒットとなりブレークする。アルバム「MELODIES」(83年)に収められた「クリスマス・イブ」が89年にオリコンチャートで1位を記録。20年以上にわたってチャートイン。日本で屈指のクリスマス・スタンダード・ナンバーとなる。84年以降、竹内まりや全作品のアレンジ及びプロデュースを手がけ、またCMタイアップ楽曲の制作や、他アーティストへの楽曲提供など幅広い活動を続けている。

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