マクドナルドを抜いて外食日本一「すき家」社長は「吉野家」出身を隠していた。

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ゼンショーが抱く、あまりにも壮大な夢

ゼンショー・小川社長が語る経営哲学(1)

抜粋元

小川賢太郎(おがわ・けんたろう)●1948年石川県生まれ。68年東京大学入学。82年ゼンショー設立
「週刊東洋経済」2010年11月27日号掲載の「トップの肖像」は、外食日本一の座にのぼりつめたゼンショーの小川賢太郎社長を取り上げた。この記事をまとめるために行った小川社長へのインタビューは2回、合計6時間以上に及んだ。
昨今、「ブラック批判」に揺れるゼンショー。しかし、このインタビューを読むことで、小川社長のブレることのない経営哲学、生き様が手に取るように伝わってくるはずだ。
ノーカット版を全4回にわけて掲載する。
第2回 「これがゼンショー流の成り上がり術だ」こちら
第3回 「こうしてゼンショーは危機を乗り越えてきた」こちら
第4回 「労働組合はアタマが古すぎる」 こちら

基本的な考えは「ユニークということ」

 

――「トップの肖像」は経営者の人物論をまとめる企画です。日本経済全体がずっと沈滞した中で、普通の経営者論ではなく、経営者の哲学なり、思いなり、生き様を書きたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

 

そもそも僕の基本的な考えは、ユニークということでしょうね。世界に一つしかないから価値があるじゃないかと。それぞれの人間が、みんな相応なわけですよね。だけど、日本の教育は一般的にはそれを否定する教育を50~60年やってきた。戦後の教育は特にですね。みんなで渡れば怖くねえと。

信じられないけど、運動会では徒競走を手をつないでやっている。笑ってしまうけど、そういうことが、社会常識とか教育の中に色濃くある。日本経済は誰が見たって沈滞している。沈滞の最大の要因というのは、私はそう思っているんですよね。

そういったみんな同じ、あるいは突出するやつは異端児だとか変わり者だといってたたく、という風土。これは、1990年まで私は復興経済と位置づけているんですけどね。

――90年まで。

ええ、90年まで。45年かけてGDPが2位になり、世界の中で経済的プレゼンスを高めてきた。これはやはり、欧米に追いつけ追い越せと明治維新以来やってきた。昭和20年8月15日から第2幕をスタートして、われわれの親父だとか、そういう世代が汗かいてみんなで頑張って、戦後の焼け野原からGDP2位にしたわけですよね。

これはすばらしい成功例だと思うんですよ。で、これができたんだけど、そこからはどうしたらいいのか、わからなくなった、価値観において。というのが、1990年からバブル崩壊、平成不況、その後も多少いろいろあったけど。

なんか日本は元気ないですよね、こういう社会になっちゃった、しちゃったというかな。という風に見ているんですね。だから、ユニークというのは、小川賢太郎というのは、68億の人類の中に1人しかいないというから価値があるのであって。みんな同じなんですよね。みんなうんうん言うんだけど、本当のところがわかっているのかと、本当のところがわかる必要があるのじゃないかと、こういうことが基本ですよね。だから冒頭にこういったことを申し上げたわけです。

――なるほど、自分ひとりしかないユニークさ。

だから、経営書とか、あるいは経営者がどうやっているとかいう情報がありますよね。

――あまりそういうものは読まれない、参考にされない。

うん、基本的には。ただ、事例研究として、こういう技術開発をやっていますよとか、それは興味あるから、自分でファイリングしているんですよね。ただし、人の生き様とか経営者が、ということは関係ない。会社のやっていることに関心がある場合はありますよ。

 

――ただ、経営のスタイル、生き様というのはどうしてきたかというのは、結実したもので、知りたいものではないのでしょうか。

そうであるがゆえに、1人の人間の創業から始まってね、ポピュラーな例で言えば、松下幸之助さん、ナショナルを作りましたと。これは松下幸之助さんの哲学であり、世界観であり、彼の生き様ですよね。それを株式会社という形にしたのが、昔のナショナル、あるいはナショナル電器というんですか。それを松下さんの生き方とか、そういうものを学んでも、役に立たないと、要はナショナルを見ればいいじゃないかと。

そこで変に学んじゃうと、日本人はまじめだから、二番煎じの松下幸之助、うまくいってね。大抵うまくいかないけど。たとえばその人が会社作ったらどうなるのかと、つまんない会社だよ、たぶんね。

コアの部分は10歳前後にできる

――小川さんはそういう思いというのは、ずっと創業の頃からお持ちなんですか。

基本的な哲学というのは変わらないと思うんですよね。人間20歳になると、精神的な世界観のコアな部分というのはできている。経験的に思っているんですね。逆に言うと、やはり10歳前後の教育は非常に大事だと思うんですよね。

20歳と言ったけども、実際にはコアとなる、そのまたコアになるものは10歳前後、小学校5年。だから教育がどうのこうのという議論も日本でもいろいろやられているけど、実は一番大切なのは、小学校5年生の教育だと僕は思ってるんですね。

――小学校5年、ちょっと早熟ですね。

早熟というか、自分のことを考えてみればわかるじゃないですか。5年生といったらいっぱしなんですよ。1年生はガキなんですよ、幼稚園からの延長線上みたいで、甘ったれだけど。5年生といったらいっぱしですよ、ね。たとえば学者が言うには、語学回路もこの辺で形成されるわけですよ。

ですから、うちにもいますけど、小学生の低学年の頃、7~8歳の頃、アメリカに行って育ちましたといっても、英語がしゃべれるかといってもしゃべれない。「お前、3年間いたことあるんじゃないか」と言っても、10歳前で回路が残っていないから、ゼロからのリスタートになる。

だけど、5年生から3年間いれば、それはできている。逆に下手すると、日本語の回路ができない。うちの社員にも前いたんだけど、ダブルランゲージで、うまくコミュニケーションできないんだよね。まあ、脇道に入ってしまいましたけど。

――ユニークさという点ですけど、ゼンショーは売り上げでマックを抜き、牛丼だけでいうと、去年末に国内で吉野家を抜いた。これについては、よくぞここまでという感じでしょうか。

全然ないですよ。そういうとウソだろうと思うかもしれないけど(笑)。僕は店数で吉野家を抜いたり、売り上げで日本マクドナルドを抜くためにやってきたわけではないから。全然関係ないわけですよ。隣の小学校に算数できる子がいるぞと言われても、そうなのと。でしょ。自分が算数なり国語をやっているわけであって、クラスの子ぐらいは気になるかもしれないけど。

感覚としていうとそういう感じ。原田なにがしさんが何をやっているといっても、隣の小学校というよりも、青森の弘前の小学校に算数できるやつがいるぞって、そうなの弘前にそんな子がいるのみたいな。でも、俺に関係ないだろバカヤローってさ(笑)。

――自分の考え方、ユニークさの自己展開でこうなったというわけですか。

ユニークさを求めているわけではないですよ。認識としては、そういう認識だというということですね。だから、やはり思うままにやっていくべきだし、やりたいし、他人がどう思うとか、弘前小学校に誰がいるとか関係ないわけですよ。感覚としての今の話。

でもそうじゃないですか。聞きたいんだけど、ほかのメディアに優秀なライターがいるとか、気にするんですか。書いたもの読むんですか。

――時々読みますよ(笑)。

でもそんなもんでしょ。あいつが書いたからどう思うとか、じゃあ俺はこう書こうとか、思わないでしょ。

――まず総括的になぜここまでゼンショーがのし上がったか、その理由はつまりなんでしょうか。

志だと思いますよ。つまんないでしょ。なんか色々聞いてよ。

 

起業家にとって重要なこと

――小川さんがおっしゃる、安全・品質・コストについては、外食産業としてこれはよくわかりやすい。しかし、もっと大きなテーマとして、世界中から貧困をなくす、と。これは、すばらしい理念なんですけどね、つまりゼンショーが成長することと、世界中から貧困をなくすというのは、小川さんの中ではどうつながっているんでしょうか。

そうですね、大変なテーマだろうと。大変なテーマだからこそ、チャレンジ意欲がわくし、やる必要がある。できなければ、俺の責任だと。要するに、この地球上に飢餓と貧困があるというのは、俺のせいだと思ってるんですね。自分のことなわけですよ。そもそも創業したというのは、そういう世界認識・歴史認識があって創業したわけですから、よくアントレプレナーとか起業といいますけども、ここが一番大切だと思うんですね。

もっと言っちゃうと、僕は社内でもたまに言うんですけども、みんな人間として生まれてきて、才能を持っている。だけど、才能を100~120%発揮している人にはほとんど会わない。みんな八掛けくらいで大抵頑張ってますという。それ以下の人も多いのが現状ですよ。自分の才能というのは、たとえば親にもらった才能だというんだけど、そんなのは馬鹿じゃないのと。親の親は何、ということでしょ。

調べてみると、最近この分野というのは、だいぶ発達しているんだけども、ミトコンドリアのDNAをずっとトレースしていくと、13万年くらい前に、1人のミトコンドリア・イブと呼ばれる西アフリカの女性にぶち当たると。何のことはない、直立歩行を始めて400万年といわれているけど、人類は。400万年直立歩行を始めてきて、つい最近の13万年前に、今いる68億人は、みんな同じお母さんだったということが、物質生物学的にわかりつつあるわけですよね。

そこからいろいろバリエーションが出てきたと。みんな同じ意味において、1人の同じ母親の遺伝子を受け継いで、肌の色が黒くなったり白くなったりしたけど、そんなの大した違いじゃない。だけど100メートル走れば10秒切るようなやつとか、数学とってもすごいとか、いろんなバリエーションができてきたということが13万年間でしょ。

才能持ってるんだよ、間違いなく。持ってないというんだったら、みんな持ってない、間違いなく。だって同じ母親なんだから。だけど、やはり100%発揮している人は実際非常に少ない。要するに自覚が足らないわけね。自分の才能に対する。じゃあ自分探しだとかすぐ言うんだけど、経験的に言えば、内向していけば内向していくほど、自分の才能なんかわかんない。わかるわけねえだろうと。

人類とは社会的な存在であり、昔は類的本質って言っていたけど、あれは本質においては正しかった。人類に対して、われわれは一部を担っている。人類全体の中で、仕事として。われわれの生活というのは人類全体的に成り立っている。特に20世紀後半から21世紀初頭、世界中でモノと人の流れが速くなって、モノについても、もう世界中の食品や世界中から来た衣料品を着ているわけでしょ。

人類全体で、1人の生活も成り立っている。構造にあるわけですね、構造に。その中で供給だけ世界から受けていて、アウトプットは自分発見のためにといったら、馬鹿でナンセンスで、論理矛盾なんですね。人類全体に対して、自分が供給側に回らなければいけない。こういうのが基本構造だと認識しているんですよね。

人類から飢餓と貧困をと言うと、そんなことできるわけがない。大げさだと思う人が多いと思うんだけど、そうではなくて僕自身のアウトプット、株式会社ゼンショーのアウトプットとして当然のこと。そういう中で、機能会社・機能組織と言っているんですけど、ゲゼルシャフトですよ。機能というもの、社会に対してどういう機能を果たすのかというのが、株式会社としてのレーゾンデートルであって、それがないんであれば商売なんか成り立つわけないし、意味がない、すぐ消えるでしょう。どうでもいい商品を提供したり、どうでもいいサービスを提供しても、社会的な意義なんか果たしてないんだからなくなる。

株式会社ゼンショーは、ゲマインシャフト・共同体ではなくて、共同体というのは内の論理なんですよ。わが村、わが社、わが部の利益ではなくて、最近批判されている省益とかね…わが省もへったくれも、国家のマネジメントをやっている一部でしょ。という認識なんですよ。

 

そういう基本的な認識と言うのは、会社にとっても経営者にとっても、それから従業員にとっても一番大切ということが、基本的考えです。社内的には、ゼンショーグループ憲章という形にして、われわれの宣言、地球上から飢餓と貧困をなくするぞと、なくするぞと言っただけではできないから、原材料の調達から加工・物流、店舗での販売、ここまでを一貫したシステムとして、自分たちで設計する。

それから自分たちで物質化する、作り上げる、そして自分たちでオペレーションする、汗をかいて。ということを宣言してるわけですよ。具体的にはということで、いろいろ組織論から批判まで、展開しているわけですよね。

インフラとしての「食」

――ゼンショーがグローバル企業になって、世界展開すれば、世界から飢餓と貧困はなくなりますか。

なくなります。なぜならば、原材料の調達から加工、一言で言ったけども、調達の部分というのは、産業別で言えば、農業、牧畜、こういうところですよね。そして、水の問題もある。それからこれらを供給する社会インフラ、いろいろ問題の挙がっている水道だとか、道路だとか冷蔵設備だとか。

加工の部分はハム・ソーセージから始まって味の素まで。これを3部隊で物流する物流システム、われわれは日本中に作り上げているわけですけども、24カ所にディストリビューションセンターを造って、26カ所に工場作って、毎日4000店に物流してるわけですよね。これをモデルとして、世界でシステムを作る、運営していくということが基本的考えですよね。

これをやっていくと、今は飢餓で死ぬ人が年間1400万人いると言われているわけですけど、食料は1400万人分ないのかといったら、あるわけですよ。最近、食料大丈夫かとかいうけど、はっきり言えば、余っている。偏在している。物流・加工・保管とか、そういう仕組みが不備な地域で、飢餓が発生している。

もう一つが所得の問題。所得が低すぎて買えないということがありますね。社会インフラとして、鶏と卵なんですけども、増える仕組みができるということは、僕らのこのシステムだけでまず相当な雇用ができるわけですよ。

産業連関物的に言えば、そういうインフラが整備されつつ、いろいろな産業が成立可能になってくるわけですよ。なぜなら働く人が増えるようになるから、増えるシステムがインフラとして整備されているから、工場で働ける人が増えて、サービス産業に従事できる人が増える。

これは表と裏です。実際は並行的に進められる。こういう構想を基に、社会インフラとしての安全な食を世界中に供給できる。僕らはマスマーチャンダイジングシステムと呼んでいるけども、このシステムを世界中に作り上げるのが、われわれの基本的な仕事だということですね。

――理念としては一番大きな理念。失礼な言い方ですが、本当に小川さんはそれを信じて、その達成のためにという思いでいらっしゃるわけですか。

そうです。出発点から、出発の前からそうです。

――先ほどおっしゃった10歳や学生運動あたりから形成されたんですか。

どこまで遡るか。僕が大学に入ったのは1968年。いい時に入ったと思うんだけども、時あたかも、東洋の一角、ベトナムでは、毎日空爆が行われ、ベトナムに対し、最大の国である米国が50万の陸上部隊をつぎ込んで、戦争やっていたということが一つ。

それから、隣の中国大陸では毛沢東が失脚して、揚子江で泳いでそこから文化大革命が起こり、つまり奪権闘争をスタートさせたのは1966年ですか。文化大革命が燎原の火のごとく広がって。日本でも、さっき言ったように1945年に戦争が終わって、本当にみんなで汗だくで働いて、GDP2位になったのが、この頃じゃないですか。

そういう中で、いろんな社会矛盾、高度成長のひずみが起きた。公害は垂れ流し、水俣病でいっぱい死んだり、半身不随になってもチッソは俺のとこは知らないと。今から思うと笑っちゃうくらいとぼけていた。ベトナムではがんがんベトナムの人たちは死んでいるし。

ドイツでは社会主義学生運動の連中がものすごい運動をやって、激動ですよ。フランスではカルチェラタン、火炎瓶投げて。後に僕は見に行きましたけどね、フランス行って。カルチェラタン、どうなってるんだろうと、創業してから(笑)。

 

それはそれとして、矛盾が露呈して、いちばん多感な学生というのは、やはりそういう矛盾に対して造反したわけですよ。僕が入ったのは東大だけど、入った頃から医学部紛争、要するに医局制、教授が天皇陛下でさ。封建的な体質をもとに、若い医者は何も言えなくて、そういう矛盾の中で医療をやらなきゃいけないということ、そういうことに対する不満とか、新しい時代、新しい仕組みを作らないと。

そして、全共闘運動というのが起きて、大学というのは何なんだという問いかけも自ら課して。東大なんか特にエリート養成校ですから、結局、自己否定的なね、社会に出たら旧体制温存派に回るんだろ、と。先輩である人たちが60年安保やったわけですよ。やったんだけど、学園に帰れば、元のエリート予備軍であり、その後どうなったかと言うと大部分は順調な。学生の頃、安保闘争やったよとか、ビール飲みながら、そういう風になっちゃったんだけど、それはないだろうと。これは歴史の進歩だと思いますけどね、8年前の先輩たちのことを総括して、なんだったのかと、ということもあった。

根底的に物事を考え、議論し、という時代でしたよね。そういう中から、僕もそうとう深入りして、革命をやらなきゃいかんと、国の仕組みを根本的にたたき直さないと、半端な改革じゃすまないな、ということでやった。

当時の思想というのは、マルクス・レーニン主義ですから、いわゆる反体制マルクス・レーニン主義によれば、革命が必然であって、革命の主力というのは 労働者階級であるプロレタリアートとしてね、方程式が決まっているわけだ。となると、日本における労働者の組織化をやらなければいかん。主力である労働者階級をいかにして組織し、決起する、ということがメインテーマなわけですよね。

労働者階級を組織するに当たり、魚を釣るには魚じゃダメだろうということで、いちばん厳しい労働条件のところが一番いいだろうということで、港湾労働者になったわけです。横浜港で。

ただ、ルンペンプロレタリアートになっても仕方がないので、マルクス主義というのは厳格だからね。ルンプロに対しては、屁のカッパで。組織された労働者に価値があるわけであって、横浜港で1000人くらいの荷役会社の中に何とか潜り込めて、時効だから言うけど(笑)。正規社員として ようやく組織労働者の一角になれたわけですよ。

1975年が歴史の節目

――東大を中退して港湾労働者というのは、ちょっと、いっぱいいた活動家の中でも、そこまでやる方というのはあんまりいませんよね。

あんまりいない。いないわけではないですけどね。

それはそれとして、1977年頃、具体的に言うとね、歴史には節目というのがいくつかあるけど、世界にとっては1975年が一つの節目だと思っているのね。ベトナムの傀儡政権のやつらが、とうとうアメリカ大使館に逃げ込んで、屋上から米軍のヘリにしがみついて逃げたと。

だけど、心せねばならないのは、試合に勝ったというときが頂点である場合がある、ということ。僕らの当時の側からすると、あれほど米国のベトナム侵略戦争に反対し、云々かんぬんやって1975年に勝ったわけだよね。最強の軍隊を撃退したわけ。だけど、そのときが節目だった。歴史が新たなページに入ったということだよね。

展望がないなと、社会主義革命というのは。1975年を回ったところで、僕としては。レーニンの革命というのは、そもそもパンと平和だから、逆に言えば、そういう情勢でのみ、権力奪取できる方程式なわけだよね。そういう情勢下でもって可能な権力奪取の方程式だったんだけど、戦争が世界的に見れば終わって、パックスになったわけ、平和な時代に。

そうすると、マルクス・レーニン主義方程式というのは終わったなと、できない。やっていればわかりますよ。ボール蹴っていれば、この試合、勝てるのかどうかわかるでしょ(笑)。社会主義によって飢餓と貧困をなくすことは、できないということで、資本主義の勉強を始めた。資本主義の勉強はしたことないから。

 

一つだけ、通産大臣登録中小企業診断士という制度があって、当時調べていたら、資本主義の基本なんだよね、財務管理、マーケティング、色々な法規、ビジネスの基本、そういうものがあるではありませんか(笑)。

調べたら、日本マンパワーというところが通信教育やっていて、申し込んでみると、そこで経理、経理なんかやったことないから。そこから資本主義の基本は簿記だから、借り方・貸し方から、PL(損益計算書)、BS(貸借対照表)の作り方、動態分析、そういうことを勉強して、マーケティング、法律も勉強して、中小企業診断士になったわけですよ。

それが1978年登録かな。だけど、人間はさっき言ったように、志は基本的には変わらない。飢餓と貧困を無くすのを、資本主義的な方法でやろうと。

資本主義はあと300年は続く

 

バッシングの2015年記者会見

 

 

――それがどうしてできると思われたんですか。

それしかないから。資本主義的生産様式を僕はぶっ潰すそうと思って、ぶっ潰すというか、マルクス主義だから新たな仕組みを作ろうと、頑張ってきた。いろいろ勉強もしたわけですよ、僕らのチームでね、東大のやつらが中心だから、結構そういう生産性は高い。

世界中の社会主義について勉強したわけですよ、まずソ連。僕らはハナから当時のソ連というのはビューロクラシー(官僚政治)でどうしようもねえと、反帝国・反スターリン主義と言っていたわけだから。そこはそこで内実をもっと勉強しなきゃいかんと。それから、当時チトーのユーゴスラビアの社会主義、それから中国の社会主義、やはり新しい試みとして、人民公社政策というのをやっていたわけですね、それも相当調べて。

それだけで1時間半かかるけど。さまざまな資本主義的な生産様式を乗り越える、生産様式を作ろうと思って人類があちこちで苦労していたわけ。そういうのを勉強して、われわれはもっと先進国でできる、やろうということやっていたんだけど、やればやるほど、勉強すればするほど、資本主義的生産様式はすげえなと(笑)。

19~20歳の頃はすぐぶっ壊せると思ってたんだけど、これはやっぱすごくて。試合やってみないとわからないじゃないですか、試合やってみた人間だからわかる、本当の強さとかはね。僕は資本主義があと1000年続くとは思わなかったけど、300年くらいはこの資本主義的生産様式が続くんじゃないかと。

ただ、目的は同じじゃないかと。最大多数の最大幸福と言った人もいるけど、要するにみんなが食えて、ハッピーに暮らせれば、それは資本主義も社会主義もへったくれもないわけで。そこの下部構造を作ろうというのが社会主義、もともとのマルクスの考えですよね。だから、資本主義的生産様式を物質化したのは株式会社である、ひっつめて言うとそういうこと。

なぜこういうことを言ったかというと、やはり最初ユニークと言ったことは、それはまずは世界をどう見るかということ、まずは。みんなそれぞれが。自分はその中で、どういう役割を果たしていくかということで、そこにおいていろんな会社であるとか、いろんな職業に就いていくわけですよ。ここの出発点が大事じゃないかと。

ともすれば、三菱商事に就職するとか、三菱商事で出世するとかになるんだけど、なりやすいんだけど、そうじゃないでしょ本当は。日本の株式会社が弱くなっているとすれば、みんながその思いをどこかに置いてきちゃって、あるいは思いの種があるはずなのに、さっき言ったように。それはさておいて、課長に気に入られるようなレポートを書こうとか、どうやったら同期のやつを出し抜いて出世できるのかとか、そういうハンド・トゥ・マウスの日常社会の中に、埋没・摩滅していくという人が増えると、会社というのは当然衰退するわけですよ。

いかに立派な経営戦略を立てようが、経営戦略を立てている人がそういう人であれば、それは絵に描いた餅だし、どんどん矮小化していく。それは非常に精神的な荒廃であり、社会の衰退ではないかと。

あまりにそこが日常的になってしまったがゆえに、僕が志とか世界観と言うと、たぶん違和感を持ったと思う。違和感を持つような、そういう社会になってしまったんですよ。そうじゃないと、だから僕が言った10歳の人間、彼ら・彼女らは志を持たせようという教育をやれば、間違いなく、ほぼ全員が。私が看護師になって病気の人の力になんとかなりたい。純粋に10歳の子は思うんだから。

 

「転向」ではない

――わかりました。資本主義で行こうと。よく言われる転向という意識はなかったんですか。

全然ない。全員とはいわないまでも、僕らの全共闘というのは、転向という言葉はあまり聞いたことない 挫折と言う言葉はいっぱい聞いたけど。

――1978年、29歳のときに吉野家に入られた。どういうきっかけだったんでしょうか。

そういう流れの中で、これからは就職しなきゃなんない。中小企業診断士の勉強もしてきていたから、これからはコンビニか外食産業かなと思ったわけですよ。今さら自動車産業ということもない、あの当時(笑)。

自分で考えていた、こだわってきた「食」ということ、世界の人間を食えるようにするという自分の人生のテーマからしても、どっちかというと外食産業がいいだろうと、ということで、入ったわけです。

――入られたときの吉野家はどうでしたか。2年後には倒産するわけですが。

なんていうんですかね、高成長してきた会社、している会社。当時、国内200店、米国200店というスローガンを掲げて求人広告を出していたわけですよ。これはちょっと見どころがあるかもしれないなと。ワサワサして、成長している企業。

当時は松田瑞穂さんが社長で。面接を受けて試験も受けて、入ったんですよ。人事部長のアリタさんに、初任給15万円やるからどうするっていうから、 普通にやってくださいということで入って、川崎店にトレーニングで入って、まずはカウンターサービスから。結構ご飯盛るのも難しいんですよね。自慢のお玉 で瞬間で並盛80グラム、大盛110グラム、時間帯200人くらい入る繁盛店でしたから、そこから出発しました。

最初は正月から入ってね、やっぱりお客さんがあまり来ない。店長が、今日は暇だから、目地磨きと言って。そのとき生まれて初めての目地磨き、やった ことないでしょ。トイレのセメントに目地があるでしょ、目地に汚れが入っているから、年1回はナイロンたわしで洗剤つけて磨けと。まずはトイレの目地磨き から始めて。正月明けからやりました。

――その後すぐに店長になって。

2カ月ぐらいで店長になった。当時はドシドシ出店しているから、早く店長になれて、それから本部に行ったわけですよね。

――松田さんが小川さんを、幹部候補生として採用したんですか。

松田さんが採用したんじゃなくて、人事部長が採用した。さっき言ったアリタさん、海軍兵学校出身の人なんだけどね。

海兵って優秀でしょ。僕の叔父貴も海軍出身なんだけど、母親の弟。そこから一つ学んだんだけど、海軍というのは早くしゃべんなきゃいけない、だからしゃべり方が同じなの。なるほどなあ、カルチャーとはこういうものなんだなあと。

それで、横須賀に戦艦三笠ってあるんだけど、見たことありますか。見たほうがいいですよ。日露戦争の旗艦。見に行って、なるほどなあと。帝国海軍の 原点だからね、原点ここにあり。英国で建造されて、日清戦争の賠償金で買った戦艦ですよ、当時最新鋭の。19世紀後半の生産力、技術力はすごいなあと、船 を見るとわかりますよ。

これをやっぱり駆使して、オペレーションして習熟してバルチック艦隊に勝ったわけですよね、わが帝国海軍は。そこがまた一つのエポックになったわけですよ。そういういろんな目で見ると面白いですよ。当時の帝国海軍、陸軍もそうだけど、強かった。

昭和の軍隊はなんで弱くなったのか、これも一つのテーマなんですけど、ちょっと脇道に行くけど。のちに柴五郎さんの本を紹介されて。柴五郎が昭和17年に、こういう風にインタビューされて、遺書代わりに出されたのが、『ある明治人の記録』。

昭和17年に提灯行列やったでしょ、シンガポール陥落した、勝った勝ったって。そのとき柴五郎は、この戦は残念だけど負けたという風に言ったと書い ているんですよ。なぜなら、というのが面白いですよね。中国において、こういうことをやっている軍隊は勝てるわけない。つまり非人道的なことをやっている。

柴五郎は明治維新のとき10歳だった、重要でしょ、ね。それで会津藩、薩軍がどんどん攻めてきて、という中で、明日薩軍が会津城を攻撃するという足 音が高まったときに、おばあちゃん、お母さんと、お姉さんと自刃した。親父とお兄ちゃんは殿様を守らなきゃいけないから。お母さんが自刃する前に、柴家の 男の子一人は何とか生きさせたいなと思ったんでしょ。負けるのはわかっていましたけど、逃がした。

 

会津藩が取り潰しにあって、弘前に移封されたわけですよ。そのときに生き残った柴五郎の、最初の冬は布団もなかったそうです、炭俵に包まって、たぶ んマイナス10度とかね。弘前の冬をなんとか生きながらえて、それから伝手を頼って、東京に出て、陸軍幼年学校に入ったんですよ。日本史っていうのはそう いう風に見ると、面白いですよね。

何が面白いかっていうと、柴五郎が陸軍幼年学校に入ったときに、校長がフランス人なんですよ。後に帝国陸軍がロシア化していくわけですから、最初は フランスモデルなんですよ。これも面白いですよね。地理の時間だというと、フランスの地図、歴史の時間だというと、もちろんフランスの歴史。それしか知ら ない教官が教えてるんだから。

という教育を受けてきて、後に長州閥の帝国陸軍になって、素晴らしかったんでしょうね、台湾軍総司令官陸軍大将にまで上って、という人なんですけどね。

その中で有名なのが、北京の80日、というのがあって、これもすごいですよ。東洋経済も取り上げた方がいいですよ。歴史書が出ていて、実に克明な記 録が残っているんですよね。紫禁城の中に日本大使館もあり、帝国大使館もあり、8カ国の軍隊が駐留して、当時実質植民地だったから、中国は列強の。

このことも大事ですよね。日本だけが悪いことをやったわけじゃない。実はフランスも英国もみんなさ、植民地化して軍隊を送り込んで、義和団の乱、そ して攻撃されたと。紫禁城を囲んで、国民党の軍も、当時は国民党じゃないか。ピンチに陥ったんだけど、最初は英国大使館の公使が指揮を執ったんだけど、ど うもうまくいかない、危ねえと。

戦いぶりを見ていたら、日本軍が最も優秀だと、そのとき指揮を執っていたのが柴五郎。当時中佐か大佐かな。それで、8カ国の軍隊の指揮を執って、英国をしっかり支えて、見事に切り抜けて、守ったわけですよ。それが後の日英同盟に直結してるわけですよ。

じゃないと、不思議じゃなかったですか、あの大英帝国が。今の米国より力あったわけですよね。ここで、日本人というのは大変なものだということを、 英国側が腑に落ちたわけですよ。こいつらと結ぶということは、いいことだという判断に結びついたわけですよ。時の英国大使が強く本国でも。そして日英同盟 になったわけですよ。脇道ですけども。

牛丼とは米国におけるハンバーガー

――ゼンショー創業のところまで話にたどり着きたいので。小川さんの経営の原点と言うのは、やっぱり吉野家と考えていいんですか。

原点は自分の思いですよ。

――もちろんそうですが。プロセスとして吉野家はあったという感じ。2年後に吉野家は倒産するわけですね。大株主の新橋商事が乗り込んできてと、吉野家の再建において。あの辺りで小川さんはどういう。

僕は当時経営が傾いてきたとき、たまたま人事部にいて、経理部にいて。経理部の次長になったんですよ、31歳。経理部長がマエダさんというんだけ ど、兄貴が吉野家のフランチャイズをやっていて、物件探しにすぐ外に行っちゃうんですよ。だからどうしても僕が、銀行との交渉の前線に立たざるを得ない。 たくさんいませんからね。やっていたわけですよね。やはり、銀行は雨が降ると傘を取るというのを、モロにそれを前線で経験しましたよね。

そういう中で、当時、吉野家は200店を超えていたんですけども、銀行からはもう200店は飽和じゃないですかと、もう業態のライフサイクルとして 下りになってきたんじゃないですかと、ガンガン言ってくるようになったんですよ。それに対して、わが方も防戦しなければいけないから、1年くらい前から僕 は米国も見ていたんですよ。外食産業とか、スーパーマーケットとか見て勉強していたので。だからそうじゃないですよと。外食産業というのは、日本でまだ産 業化が始まったばかりでしょと。

戦後そうでしょ、電機だって機械だって、流通のダイエーであり、みんな米国の5年から10年後を追っかけてやってきたし、そうなっているじゃないですかと。マネしたとはいわないけど、そういうモデルをやって成功してきただろうと。

外食ではまだ、当時向こうはハンバーガーのマクドナルドが1万店とか、確かに向こうの人口は2億4000万で、こちらは1億ちょっとで倍くらいある けど、だけど200店で飽和とかそういう段階じゃないでしょと。一つは日米比較であり、ということで、論陣を張ってやってきたわけですよね。

特に牛丼については、これはアメリカ人が一番展開しているハンバーガーの日本版ですよと。2000年コメを食ってきた国民の中で、コメというでんぷ んのうえに、人類の開発した最高の肉である牛肉を、最高の調味料である醤油で煮て、ポンと乗っけるというシンプルなストラクチャーが牛丼であって。パンと いうでんぷんに牛肉をパクっと挟んだシンプルな商品がハンバーガーであって。向こうでそういうシンプルな商品がある。

 

なんでシンプルか、安くできるからですよ。先ほどの工業簿記的に言えば、製造原価が安いから、手間をいろいろかけたら製造原価が高くなるんですよ。 そうじゃないだろうと、同じポジションだと。米国におけるハンバーガーと日本における同じポジションだと。だから、まだまだマーケットは開拓できるんだと いう論旨でもって、銀行に対して説明してきたわけですよね。

吉野家から教わったんじゃなくて、そういう中で、自分として、そういう普遍的なベーシックな商品ではないかと、当時思ったのは僕だけなんですよ。ほ かの人たちは攻勢にさらされて、牛丼はもうピークアウトじゃないかと、200店でどん詰まりじゃないかと言われて、みんなシュンとしちゃったわけですよ、 社内は。言っちゃ悪いけど、僕一人で銀行の強面に対しても、論陣を張り、やってきたわけですよ。僕としては、牛丼保守本流は俺だと言う意識が非常に強いで すよ。

――松田さん自身も、しょぼんとして。

そうですよ。何でかというと、当時の吉野家というのは、資本金2400万円だったんですよ。ピーク時の売り上げが167億円あったけど。3分の1 は、さっきおっしゃった新橋商事が持っていて、地主なんですけど、別に地主に株主になってもらわなくていいじゃないですか、松田さんとしては。

戦友だったんですよ。松田瑞穂さんと当時新橋商事の社長をやっていたトミタさんという方は。3分の1の株を持ってもらっていたと。そこまでならまだしも、今度は松田瑞穂さんの奥さんの親戚に3分の1持たせたわけですよ。それを返してくれだとか、係争していた、もめていた。

要するに資本政策がなってない。なってないと言ったら悪いけど、客観的に見ればね。経営が非常に悪くなったので、新橋商事に頼ったわけですよ。一時 的に6億円融資してもらって、そのときに担保で松田瑞穂さんの3分の1の株を新橋商事に入れたわけですよ。新橋商事は結局3分の2の株を持ってたわけですよ。

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吉野家倒産の深層

――完全にヘゲモニー(覇権)、マジョリティーを握ったわけですね。

その過程で、僕はプロパーですから、自力で再建したいと銀行と交渉もしていたわけですけど、新橋商事から、当時常務取締役のイデさんという方が来ら れて、吉野家の経営企画室長ということで、大株主として心配だからということで、来られた。経営企画室を軸に再建計画を作るということで、5人メンバーを 選び、その1人に僕も選ばれて、再建計画をやったわけですね。

徹夜の連続で、急ぎますから。当時、米国デンバーに7店舗、吉野家の店を出していて、それからカリフォルニアにも何店か出していて。国内再建計画は作って、銀行にも説明して、僕は当時の第一勧銀、東海銀行がメインでしたから、説明して。

向こうも国内においては、小川さんの言うような再建計画でいけるでしょうと、思いますと。だけど、米国が訳わかんないと言われまして、米国の再建計 画も出してもらわないと、取り組めないと言われて、僕と弁護士と会計士と3人で、米国に1週間調査に行って、大変でしたけど、再建計画を作って帰ってきた わけですよ。

昭和52年に安宅産業がつぶれたんですよね。米国で当時1000億円くらい食らったんですよ。当時の1000億円としたら、今の感覚でいえば10倍 くらいで、ものすごい強烈だったんですね。金融機関、都市銀行にとっても強烈で、米国は怖いというのが、当時の都市銀行にあって、だからそういうリアク ションになったんですね。

それで説得したんだけど、やっぱり米国が、ということで、端折って言うと会社更生法へと行かざるを得ないという流れになったんですね。

――モノの本によると、松田さんが途中で心変わりして、新橋商事と対立する形で会社更生法を申請しようと、そういう記述になっているんですが。

当時は末期症状ですから、いろんな動きがありましたよね、そういう風になると。僕としては、基本的にはいける業態だし、再建できる、すべき、したい と、まずそれですよね。それには、3分の2の株を押さえている新橋商事の理解と協力を得ながら再建をやろうと。確かに新橋商事も不動産管理会社ですから、 60年で回収するというようなビジネスモデルを日々やっていたわけですよ。

外食産業というのは今日いい物件出たら、今晩お前調べて来い、と。当時のビルトインの物件と言うのはそういう感覚なんですよね。そうしないと、いい 物件が取られちゃう、ディシジョンが早くないとダメなんですよ。こっちもそれがストレスだったんですよね、ディシジョンが遅いなと。

 

という状況の中で、松田社長が何月か忘れたけど退かれてという風になってきて、いろいろな中で更生法となったんですよ。そういう中で、新橋商事は当 時25店舗の優良な店舗をやっていて、直属上司の経営企画室のイデ常務が、独自再建というのは不可能となったから、新橋商事の25店を中心として、フラン チャイズのオーナーを集めて、こちらで再建やると。大株主としてはそういうディシジョンだと。

ついてはお前も来てくれと、流れとしては仕方ないと。僕としてはそういう、新橋商事の外食部門である、株式会社ニッショーというとこですけどね、そこに財務室長で行って、そちらを軸にした再建をやるという流れになった。

――松田さんと安部さんたちと袂を分かって、ということに結果的になったんですか。

袂を分かってというわけではなくて。そんな意識は全然なかった。流れの中で。安部さんもそうなんだけど、当時彼は有楽町店の店長をやっていて、株主 のことなんかわかんないですよね。そもそも3分の2の株を持つということはどういうことなのかと、言っちゃ悪いけどアルバイト出身ですから、定時制高校出て。

そういう人たちがオペレーションラインでほとんどでしたから、今でもそうですけど、そういうことってわかんないんですよね。僕は冗談半分で、吉野家 さんが本を出されて、ソ連邦の歴史って呼んでいる。もうちょっと包括的なことがある。そういうものかなと思っていますけど。外から見たときに、ソ連邦の歴 史が100%ソ連邦の歴史ではない。たぶん50%とか40%でしょう(笑)。

吉野家で学んだことはない

――結局、吉野家で学ばれたこととは、どういうことですか。

うん、社内にも言うんだけど、勉強になったとか、おかしいわけですよ。とりわけ何が勉強になったということはないですね。ただ、僕は僕なりにいつ も、労働運動やってきたときもそうだし、全力でやってきた。これはプライドを持っている。そういう中で、できることを120%やろうと思ってやってきた。

ただ、一つだけいえるのは、当時31〜32歳、もう10歳、年が欲しいなと、当時思いましたね。40代だったら。話しているのが、当時都市銀行の支 店長は50過ぎなわけですよ。やっぱり、僕はキャリアとか年齢は経営をやるうえで、ものすごい大事だと思うんですけど、やっぱりそこのところはありますよ ね。人間として、向こうから見れば若造ですから、正論を言ったって、同じこと言ったって、40代と30そこそこでは信頼感が違うだろうなと。

それからもう一人、俺が欲しいなと(笑)。一人で頑張ったけども、安部店長とか、コジマとか、戦える本当の意味での企業を守っていく人材がたくさん いればいいんだけど、少なくとももう一人いれば全然違うと、当時の実感。他人が聞くと、あいつはアレだと思うかもしれないけど。感覚としてそう思いました よね。徹夜徹夜で再建計画を作り、銀行と交渉し、株主に対して説得し、株主の何たるかもわからないような社内の文化でやっていたわけですから。

――しかし、新橋商事に行かれて、数年経って。

2年ですね、1980~82年。企画室長で、25店中心にやったわけですけども。虎穴に入らずんば何とかって言いますけども、虎穴に入って初めて本 当の意味の企業の体質とか、経営とかわかるんですよね。吉野家再建のときから感じていた、ディシジョンのスピードですよね。いい悪いじゃなくて業態が違う から、外食産業にとっては、遅いと。

実際にやってみると、具体的に日々そういう問題と直面せざるをえなくなったわけですよ。だから実質僕が率いて、前向きにやろうとしているのに、一向 に経営はディシジョンしてくれないわけですよね。2年間やったけど、このままでは飢餓と貧困をなくすどころか、100店舗のチェーンもできやしない、と。 ということで部下と、どうせやるなら、もっと可能性のあるやり方をしようということで、創業したわけですよ。

――25店から何店まで増やされたんですか。

増やせないんです。だって、ディシジョンしてくれないんです。それは辛いもんです。よく創業した頃、取引先とかから「社長、脱サラですか」なんて言われたんだけど、脱サラって言う感覚はまったくないし、違うだろうという違和感はすごくありましたよね、創業当時ね。

世間から見ると俺って、脱サラなのかなと。大体“脱〟というのはヘンじゃないですか。サラリーマンから逃げる、脱出するみたいな。もともとサラリーマンの意識で働いていませんからね。

 

ノーカット版を全4回にわけて掲載する。
第2回 「これがゼンショー流の成り上がり術だ」こちら
第3回 「こうしてゼンショーは危機を乗り越えてきた」こちら
第4回 「労働組合はアタマが古すぎる」 こちら
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  1. 2016 08.03

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