宇宙戦艦ヤマトの原作者・西崎義展の人生がスゴい。

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「宇宙戦艦ヤマト」とともに生きた 西崎義展さんの波乱万丈人生

 人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」シリーズを手掛けた映画プロデューサーの西崎義展(にしざき・よしのぶ、本名弘文=ひろふみ)さん(75)が7日午後、小笠原諸島(東京都小笠原村)の父島の二見港で停泊中の船から海中に転落し、死亡した。船名は「YAMATO」で、今回が初航海だった。

西崎さんは1934年(昭9)12月18日、東京都生まれ。57年、武蔵高校卒業。東大の受験に2度落ちた後に日大芸術学部に進んだ。ジャズ解説、舞台司会者などを経てプロデューサーとして独立した。

故手塚治虫さんのマネジャーも務め、72年に虫プロ商事の仲間たちと制作した最初のアニメ作品が「海のトリトン」。多くの手塚作品の中からこの作品を選んだのは海が好きだったからだ。

「宇宙戦艦ヤマト」も戦艦が宇宙に向かう大胆な発想が受けた。74年にテレビシリーズをスタートさせ、映画版も大ヒット。時代の寵児(ちょうじ)となったが、一方では薬物違反(98年と99年の2度)、銃刀法違反(銃器の密輸入容疑、99年)による逮捕など波乱に富んだ人生を送った。「ヤマト」の著作権が誰にあるのかをめぐって漫画家の松本零士氏(72)と争った(03年和解)こともあった。

罪に問われた覚せい剤取締法違反や銃刀法違反などは上告も却下され、03年に懲役5年6月が確定。07年12月に釈放されたが、その後は文字通り「ヤマト」の復活に命を削った。持病のヘルニアに苦しみながらも「復活編」の製作を陣頭指揮。昨年12月の公開が決まったとき「最後の作品」と言いながら満足そうな笑顔を浮かべた。12月1日公開予定の木村拓哉(37)主演の実写映画版「SPACE BATTLESHIP ヤマト」にはかかわっていないが、東宝関係者は「原案」もしくは「原作者」としてクレジットを入れるという。西崎さんにとって何よりの供養になる。

Yahoo!ブックマークに登録 [ 2010年11月08日

 

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「宇宙戦艦ヤマト」の発案者で制作プロデューサーで創業者・西崎善展さんのHPより抜粋 逮捕された1999年頃。

 

宇宙戦艦ヤマト・プロデューサー

      西崎義展西崎義展

– 獄中からのメッセージ –

 

「島、俺は死にいくんじゃない。新しい命を貰いにいくんだ。」というところまでの諦観の境地には、私はまだほど遠く、皆といろいろと語りたく相原の協力を得てこのページを開設しました。

私の不祥事については、”ヤマト”というイメージを損ない、誠に申し訳なく心からお詫びするものです。

ここ数年の出来事については、これからおいおいその事情を説明したいと思っていますが、ともあれ今現在は前のように制作に没頭したいと強く思うようになっています。私は結局ものづくりしか能のないバカ者。

今居るところには制服を着た人が時々顔を出す。なかなか美しい女性もいる。皆親切な人たち。この経験も機会を見て語りたい。これからは思い出や、つれづれ思いつくことなどを書きたいと思っています。意見があったらこのページに寄せてください。

 

NO.2

夢・ロマン・冒険心。人々の気持ちの中から、こう言った言葉が、消えていった昭和48年、第二次オイルショック・赤軍派事件、世の中まるで現在のように不況の中で当時の少年少女たちは夢を失いロマン, 殊に「冒険心」と言う言葉は死語に近い時代でした。

そんな時私は、「宇宙戦艦ヤマト」を発想・企画・実現しました。多くの人々の貴重な才能の結集により制作された「ヤマトTV シリーズ」は、私の制作作品の中でも誇りとする作品であります。

また、視聴率平均5.4%で(39話のはずで考えていたのが)早々に打ち切りが決まった中で最後まで手抜きをせずに、26話を完結させたスタッフの皆様方に心から感謝するものであります。

TVシリーズ終了後、何とか劇場上映をと思い舛田利夫監督、山本暎一氏(監督)・田代敦己氏(音響監督)のご協力を得て製作(編集制作)を黙々と行い劇場作品として昭和52年8月公開、大ヒットとなりました。

ここに至るまで、約三年私の知らぬ間にTVシリーズの再放送により全国に新たに再認識され当初東京四館の上映であったにもかかわらず、全国各地のファンクラブの皆様の協力を得て、成功いたしました。

封切り初日の朝、来るまで劇場に向かう途中、私の気持ちは観客が来てくれるかと言う不安でいっぱいでした。丁度、宮益坂を下っていく途中、坂の上から4列渋滞の長い列が、歩道を埋め少年少女が並んで居りさらにその列が渋谷の東急文化会館の入り口まで達しているのをみてもこれが私の映画を見に来た子供たちとは考えてもいませんでした。それが、地下の東急レックスの入り口に私の初の製作配給をした劇場用映画「宇宙戦艦ヤマト」を見に来た子達と判った時は、我には信じ難く感動の一言に尽きました。

その時始めて映画を見終わった子供たちから差し出された色紙、パンフレットにサインをした言葉が、

夢・ロマン・冒険心

宇宙戦艦ヤマト・プロデューサー

西崎義展

No.3

以来「さらば宇宙戦艦ヤマト」に始まり、昭和58年、ヤマト完結編に至るまで、劇場に足を運んでいただいた総観客動員数は一千万人を越えその後、他媒体、TV、VIDEOGRAMを通じて25年間、世代の入れ替わりを考えても、数千万人以上の方々がヤマトを御覧頂き、さらに(昭和50年以降)米国にてTVシリーズを苦労の末放映したところ、日本と同じ様にファンクラブも全米100を超え数千万人の人々が、ヤマトを受け入れて行きました。

全世界では優に1億を超えるヤマトを愛して下さった方々、又ともにヤマトを制作した方々に、製作者である私がこの度二度に亘って起した不祥事に付きましては、皆様に楽しんでいただき大切にして頂いた「ヤマト」というイメージを損なうことに連がり、誠に申し訳なく心から詫びるものであります。反省も含めお詫び申し上げます。

宇宙戦艦ヤマトのテーマは「愛」であります。唯、私にとってはテーマはテーマ、心の中から”夢・ロマン・冒険心”の三文字が消えぬ限り私は作品を造る!という目的に向かって努力するという目的観を失うことはありません。

気力ある限りプロデューサーとは生様である!

行動あって結果あり (今回は、駄目です)

そんな私が今出来ること、やって来たことの中で今一番大切なことは25年に亘るヤマトの制作資料(制作素材)の保存管理であります。完成作品、映像はネガ等管理されても制作素材は、殆どのプロデューサーは捨てる例が多いのが普通です。私は25年間、黙々とこれを保存してきました。これが有ることで作品の制作過程の中でこれに参加したスタッフの役割が明確に判り、メインスタッフタイトルに代表される以外の人々がどんなすばらしい仕事をしてこられたのかを証明できるのです。私は出来得る限りそれを残しています。

私がこれ等がどんなものであり、且つ、TVシリーズに始まるヤマトの現場も含めて最後の音をつける迄すべて立ち会い、キューだしをして来た私が、淡々とその事実を語ることが、映像作品がいかにして作られていくのか、又、スタッフの役割の証明であり、私の生き様の証明にもなっていくでありましょう。

 

NO.4

私のようなタイプの制作(舞台、音楽含)現場出身の製作者(Executive Producer)は例が少なく、多くのプロデューサーは原作を映像化している例が大半であります。私はこれを否定するものではなく、私の原作ありてという例は作品歴にございます。しかし、どうやって自分の持ち味を出していくのか!ということでその都度自分の体験で身につけたオリジナリティーを追求しました。

宇宙戦艦ヤマトは、その自分の20代~30代までの集大成であります。

その自分の持つオリジナリティーは自分1人で表現できるものではなく、その底に自分の必要とする才能の持ち主を見つけ配置し最後の編集とDB(音付け)は自分の感性で行います。私はそういうプロデューサーでありますので自分の映像、作家性を明確に主張しています。これを製作総指揮というタイトルを持って表示しています。

作品の語ることは自分の生き様を語る事であり、機会があれば今の情況をビシュアルに書き伝えられればと思っており、その日を楽しみにしています。

私は、人間の性善説で一生生きたかった。散々騙されました。でも性善説でありたい。

(好きな言葉)「オプティミズム」「初恋」「性愛一致」「己を宇宙に想大に夢みかける」「発想と感性」を大切にしたい。

 

前略

月日が過ぎるのは、早いものです。平成11年2月1日に銃砲刀剣類所持等取締法違反等によって逮捕されて、2年4ヶ月が過ぎました。私が逮捕されてから、ヤマトのゲームソフト等が発売されて、再び「宇宙戦艦ヤマト」という作品が、広く見直されて“ブーム”となり、多くの人々に支持をされていることは本当に嬉しいことです。

昔からのヤマトファンの皆さんに、新たに加わったヤマトファンの人達の中には、お父さん・お母さんが、昔、劇場に来て行列に並んでヤマトを観た!人の息子さん娘さんもいるのではないでしょうか。

ヤマトが劇場で大ヒットを記録した1997年~8年(昭和52年53年)頃は、ビデオも普及していなくて、レーザーディスク・DVD等は全くない時代でした。お父さんお母さんが、自分達の青春時代に観たヤマトをどのように受け止めたかを語り、息子さんや娘さんが、いまヤマトを見て感じた事を話すなど考えると微笑ましく、親子との間にそのような会話が交わされているのかな。

親子の間柄でなくても、世代を超えて広く話題とされていることを考えると、私も仲間入りがしたくて羨ましく思います。現代、親子の共通した話題も少なく、会話が成立しにくくなっている、といわれる時代に“感情”や“感動”の共有が出来るものがあるとしたら、それは本当に素晴らしいことであると思います。(それを機会に互いに理解し合えることが多くなると本当に良いと思います。)

私も今書きながらふと、“さらば宇宙戦艦ヤマト”のラストシーンとタイトルバックに音楽と沢田研二くんの歌を、自分でも泣きながらつけていたことを想い出して皆さんと感動の共有が出来た作品であったことを思い出して涙がこみあげて、零れそうになりました。

2回の刑事事件で“ヤマトの名を汚した”と言われ“破産宣告”も受け、今は拘留されている“受刑者”であり“被告人”の身ですが、そのような作品を製作したプロデューサーとして、ちょっぴり誇りにさせてください。

 

追伸

 

警視庁の留置場から、東京拘置所に移管されてきたときの私の状況は最悪でした。

昨年(平成11年)東京都済生会中央病院整形外科に平成11年2月22日に入院「検査」、3月2日“執刀”というスケジュールが決定していた「手術日」を目前にして2月1日に逮捕されて、その状態のまま“無治療”で無理を続けた結果、神経は炎症を起こし、腰だけではなく“下肢”“膝下”に至る迄激痛に苦しみ、油汗を流して耐えていたところ、幸いにも拘置所に来られる不定期の整形外科医師が、“硬膜外ブロック注射”を連続施行して頂いたことで、炎症は止まったものの、半年以上の無理が原因となり、まだこの頃は歩けたのですが、ある日、診察に歩いて行った時に、“突然”左足首にプツンと筋が切れるような感じがして、“転倒”(左足首が麻痺を起し)、歩行困難となって、「車椅子」「居房休養」という状態となりました。

しかし結局のところ、東京拘置所には(MRI等の施設がなく)手術等を判断するのに十分な施設、及び手術が行える施設も無いので、抜本的な治療ができないことと、放置することの危険性を書き、その時も「勾留執行停止の申立」をして病院に入院させて欲しい事についてお願いをしましたが実現せずに終わりました。

その後、専門的な治療は受けられぬまま(月1回のブロック注射以上の治療はなく)1年数ヶ月が経過して現在に至っています。

“居房休養”というのは、役務は免除されますが、定期的にある“運動”で戸外にでることが禁止されていますから、“立って歩く”ということがないので(さながら新潟県柏崎市の監禁少女のように)リハビリが制限されて“太陽の光”の下に1年以上出る機会もなく“ひと冬”が過ぎて頑張ってきました。

1年が過ぎて今、痛みは日増しにひどく、体力が衰え、筋力も衰え、という最近の状況は老廃に向かう道をたどり始めている、希望のない日々のくり返しであります。―健康に出獄できることが“希望”です。

 

更に具体的に言えば

神経を圧迫するところから来る痛みは、体を動かす度に四六時中あって、日常生活即ち、起床・洗面・着替え・点呼・三度の食事・食器洗い・用便・風呂・部屋の清掃・車椅子による面会・医務の対応等の立ち振る舞いが1日数十回あって、その都度痛み-時には激痛-を伴いますので“麻痺”や痺れもあって対応できなくなっているのです。

書面を書く為に、片膝立てて、机に向かって座っていることが、1年前とは違って、“1時間”も座っていられない状態が、ここ半年間位特にひどく、痛みは、腰・背中に、痺れは手足にきて腰が安定せず、センターが取れない状態になるのですぐ横になる。

従って「上申書」等“書面”は以前の半分も書けない状態で、手が震えるので、定規を使って書いています。

横になっていても、以前と違って起きているときと同じように神経を圧迫するのか“痛み”“痺れ”は治まらないが起きているよりは良いので、横になる時間が増える。人間の脳は起きている状態で正常に稼動するので、寝ている時間が多いと起き上がって立てばふらつき、座っても直ぐには“思考能力”が正常に働かない。気力を奮って起き上がり、座る又は寝る事のくり返しと、「日常生活の対応」で、1日1日が終ってゆく。

布団は、24時間敷いたままで、寝たり起きたりが頻繁である為「万年床」でいまでは1日中布団の上に居る生活です。夜中に最低2回以上は寝返りをした時の痛みで目が覚めて眠りが浅く、夜は9時に就寝して朝は6時40分に起床だが、暗い時間から目が覚めているのです。筋力の衰えを少しでも少なくしようと、整形外科医から教えられた「膝の屈伸運動」を毎日立って房内で百回以上行うのですが、半年位前からそれまで出来ていたこの“リハビリ運動”が痛みを伴うようになり、終れば“激痛”が待っていて痺れと共に足腰に広がり(治る迄に時間がかかって)毎日辛いが、(運動場で立って歩くことはさせてもらえないので、禁止されて機会がない以上)この唯一のリハビリを止めれば立つことも出来なくなる恐れがあるので、“痛くても”“辛くても”必ずやる!

他書けばまだ沢山ありますが、以上のような状態で頑張って生きています。

そして、“今”昨年の「勾留執行停止の申立」以後1年以上の間、頑張って公判の対応等も行ってきて“判決”も受けた現在、私の置かれている「環境」と「体の状態」の実情を書きこのままでは肉体的には更に悪化し、老廃していく以外に先が見えない状況であり、心身共に耐える極限の日々を過ごしていることをお伝えして、判決を前に御送りした「上申書」に書きましたように、専門的な施設のある病院において診察・検査を受けて、必要であるべき「手術」等の治療が受けられることを御願い申し上げます。

一口に「腰痛」といっても、人によって較差があって単に老化現象など軽視されがちですが、適切な処置・治療が施行されるか、されないかで、大きな違いが出ることは「私の1年半の結果」が物語っています。

1年-1年半とでは、極端に違う体の現状です。もしかしたら、私の体は既に手術に耐えられる体力が保持されていないのかもしれません。あるいは、ここ迄来た状態では、手術をしても無駄である状態なのかもしれません。

しかし、今ならまだ間に合うかもしれない!

と思いながら――――――続く―――――

 

以上のような上申書を出しましたが、却下されました。ただ私は、頑張っていることを具体的に書知って頂きたかったので、「追伸」としました。

平成13年6月5日

西崎義展こと 西崎弘文

 

―私の現状と私の心情を理解していただく為に―

以下は、昨年(平成12年10月25日)判決の直前に、私が書いて裁判長他裁判官の皆様に提出した最後の上申書の内容の一部を転記したものです。

 

上申書(平成12年9月16日)

 

1年以上の長きに亘るご審議を頂き、ありがとうございました。

―以下、中略―

 

私は現在65才(昨年)です。私の体は1年前とは大きく違っています。1日の半分は寝て過し、移動は車椅子で、早晩寝たきりの毎日になるのではないかと怯える毎日です。それでも、なんとか生きて刑務所を出て、再起し社会復帰をしたい、と思っています。

そうは言っても、「破産宣告」で全てを失い、その後「2度に亘る覚せい剤の使用」、加えてM/16等の「銃器事件」で裁かれている私が、たとえ70才を過ぎて刑務所から出所して来ても、社会が私を受け入れ私を必要として呉れるのか!といえば、皆様方が普通に考えられての答えは否定的であり、あり得ないことでしょう。しかし、私はどうしても再起をして作品を造りたいのです。

その理由のひとつとして、平成3年から具体化をして(一旦は脚本迄上って)破産宣告で中断された「宇宙戦艦ヤマト・復活編」の製作があります。この作品では、「我々の住む“地球”がいかに、かけがえのない貴重な、美しく素晴らしい“惑星”であることの“感動”と“人間の愛”を、「全人類の移住」という出来事の中で描いています。

私は自分の最後の劇場作品として、長い時間を費やして製作の準備を進めていましたが、心ない破産申請で破産をして、前回の覚せい剤事件を起こし、製作には至りませんでした。しかし、9年も前から発想して、準備をして来たこの作品は既に“私のオリジナルストーリー”は出来上がっていて、私の頭の中では、映像的にも完成されています。内容の一部は旧「最高裁判所宛の上申書」の中に書き、ネット上で公開されています。

この作品を完成させ、世に出し、その内容を伝えることで再起の証明とし、人間として社会復帰を果たしたいと思っています。私にそのような気持がまだあるということを私に対する御考えの中に加えていただきたいのです。“私は非常に欠点の多い人間ですが、”計画的に犯罪を犯す(銃器の密輸、覚せい剤の売買等)ことは、今迄の人生で1度もありません。―作品を見て頂ければ判ります。―

10代で文学座に入り、20代の時から、常に物造り-製作者-として作品に取り組み情熱を傾けて、質の良い作品を今日迄造ってきたという「自負」があります。私の最後の望みは“宇宙戦艦ヤマト”に限らず、「物造りである自分が」「もう1度物造りの場に戻れて」、最後迄「物造りとして生きて」“小さくても良い作品を造り”「物造りとして死んでいきたい」と思っています。このような自分を支える気持ちがあってこの1年間頑張ってこられたのだと思います。

「もう1度物造りの場に戻れる!」という言葉を“自分に言い聞かせる”ことで、身近になった“死”という時に対して怖くても不安があっても、立ち向かって生き続けているのです。私は、この一年半の間、取調べと裁判の対応をさせて頂くことと同時に、自分の“体”と闘って来ました。そして今、私の「体の状態」は本当に良くないのです。痛みは日増しにひどく、寝ているときも常にあり、膝から下は痺れて痛みます。1年半、1日中座っているか寝ていた為に筋力が低下して房内で立つのも座るのも痛みを伴い夜も眠れません。それでも、気力を失わないように努力して上申書を書いています。が、以前の半分も書けず、又、何度書き直したか判りません。でもこれが最後ですから読んでください。

 

私は昨年5月(平成11年)に主任弁護人より「勾留執行停止の申立」を行いました。それは、今のような「車椅子の生活」になる為にではなく刑務所に行き“相応の役務を行い”「模範囚」となり、1日でも早く「仮釈放」で出獄して社会に復帰をしたい。

その為には、主治医が診断をしているように、抜本的治療である“手術”が不可欠である。と決心して申立を起こしました。まだ、今回の銃器等の事件で警視庁に留置され、取調べを受けていて“起訴”させる直前の時です。

ところが、起訴後は何の対話も対応もなく、最高裁判所で“却下”され、病院に行くこともなく悪化して、東京拘置所に来てから、「麻痺」という症状も加わって「車椅子の生活」となりました。このような状態の中でも、私の考えは変わっていません。

私にとって最大の望みは「健康」と1日でも短い刑期を終って「もう1度物造り制作の場に戻れる」ことです。その為にもこれ以上体が悪化する前に、施設のある病院に行き、抜本的な対策を、自分自身に行うことは許されないことなのでしょうか。「勾留執行停止の申立」は、どのような時に聞き入れられるのか私には判りませんが、今のまま刑務所に行くことは、自由が束縛される、ということだけではなく、体の苦痛との闘いの二重苦であります。

懲役の役務のできぬ人間が「仮出獄」はおろか、生きて出獄する可能性すら遠くに去っていくような、不安な心境であります。なんとか、刑務所に行く前に私の現在の体の状態を施設のある病院で診察検査等を受けさせて頂くことで、正確に体の“現状の把握”をさせて頂けるよう御願い申し上げます。

“人の運命を決めるものが何かはしょせん〔不可知〕ですが、私の最後の分岐点とも言えるこの度の事件に対し”寛大なる判決を賜るよう御願い申し上げます。

 

平成12年9月16日

西崎 弘文

 

以上をお読み頂き、“私の現状”と“私の心境”をご理解頂き、そして、2度に亘る罪を犯した私を許していただけるのであれば……

 

私が作品の〈製〉制作に取り組んだときの“真摯な姿勢”と、過去の作品の内容をご評価頂き、私の〈製〉制作者としての“物造り”の能力に可能性を御期待頂き、信じていただけるのであれば……

 

どのような形でも結構ですから、私の為に「嘆願書」を書いて頂けることを御願い申し上げます。

どのような控訴審の判決になったとしても、私は皆様から寄せられた「嘆願書」があるとしたらそれを「励み」として、なんとか獄中を生き抜き、再び作品の製制作者として御目にかかりたい!と心から思います。

 

―感動が共有出来る作品を作る為に――決して絶望はしない。

 

“宇宙戦艦ヤマトプロデューサー”西崎義展こと    西崎弘文

 

久しぶりで、総統デスラーからメッセージが届きました。嘆願書を求めています。皆様の熱き思いである「嘆願書」を氏名・住所を記入のうえ、是非お送りください。(名前を公表したくない方はイニシャルでも結構です。)裁判で使われるかどうかは予想できませんが、皆様の声、心よりお待ちしております。

(相原)

「嘆願書」はこちらへお寄せください。

 

ヤマトファンからのメッセージ

 

K.H さんからのメッセージです。

かつて少年だった私も2児の親となり日々の糧を求めて何かに追われるように時をすごしている。 今、改めてヤマトを思うとき、ヤマトはいまだ私の根底の部分に深く根ざしており再び飛翔のときを待ち眠っているように思う。このところ松本先生のサイドでいろいろとヤマトを掘り起こす作業が進められ、あの雄姿を拝む機会にも何度となく恵まれた。 それはそれで非常に感動的な事件ではあった。ただ、残念なことはそのどれを見ても西崎というヤマトの代名詞でもあったプリントがなされていないことだ。 はっきり言って松本先生だけではヤマトは作れない、同じように西崎さんだけでもヤマトは作れない、少なくとも私はそう思っている。いま、松本ワールドというブラックホールに飲み込まれんとするヤマトに接するたびに不安な気持ちになってくる。何年か前に公開された映画と呼ぶにはあまりにも無責任な作りだった999の新作のラストにヤマトが飛んでいたのを覚えている。あまりにもミスマッチなその姿に、ヤマトがとても安っぽいものに見えた。ヤマトの敵は絶対に機械化人やプロメシュームであってはならないと思う。西崎さんの進めていた2520はスケールこそ壮大だが完全に松本カラーが抜け落ちた以上あれをヤマトだとは認めたくない。復活篇でやたらと便利になったヤマトも真田さんに血の通わない船だと一喝されてしまうのではないかとはらはらした。 唯一、私と同じように年齢を重ねた古代艦長に再会できることについては少なからぬ期待をもっていた。 思えば、幼かったあの日、私が、衝撃に震えたのはヤマトが決して強くなかったからだろう。 ぼろぼろになるヤマトが好きだった。重たいヤマトが好きだった。とてつもなく静寂で広大な宇宙が好きだった。そこに西崎さんがこだわりつづけた重厚な音楽が乗っかってヤマトは飛んでいたように思う。 これからヤマトは一体どこへ行くのだろう。松本先生も西崎さんもヤマトを愛する気持ちは一緒のはず。どうか、誰のヤマトということではなく宇宙でただ一隻の大戦艦として再びヤマトが飛翔せんことを祈るばかりである。 私は30歳を過ぎた今も懐かしく空を見上げることがある。そんな時、ふと見上げた夜空に再びあの日のヤマトがとんでいたら私はどんなにか勇気付けられることだろう。 そして、それを指差しあれがヤマトだと二人の息子たちに胸を張って教えてやろう。

T.T さんからのメッセージです。

はじめてメールを送らせていただきます。わたしは、小学4年生の頃から、再放送で『ヤマト』に熱中した者であり、以後、完結編に至るまで、そして『YAMATO2510』へと続く、一連のシリーズまで魅せられ続けたファンです。……他のメッセージを寄せられている方と同じですね。少し前の『週刊新潮』で、著作権をめぐる争いに関する記事を読んでショックを受けました。確かに、西崎プロデューサーはトラブルを起こし、現在は弱い立場にあります。しかし、『宇宙戦艦ヤマト』に関していうなら、プロデューサーの作品ではないか、と考えるのです。事実、わたしは『ヤマト』を見続けてきましたが、時折、作品に織り込まれたプロデューサーの言葉に、大いに感動したものでした。事実関係は、部外者ですからわかりかねますし、裁判で決着がつくことでしょうが、一ファンとして、これまで『ヤマト』を見続けてきた者として、同作品は西崎氏の作品であると、素直に感じております。こうした思いを伝えたからといって、どうなるわけでもありませんが、思春期を『ヤマト』を見て育った世代の中には、西崎氏の言葉に励まされた者がいることを、知っていただければ幸いに思います。そして再び、人々に感動を与えてくれる作品を発表してもらえれば、と。

Y.Sさんからのメッセージです。

はじめまして、僕は去年の深夜枠の映画放送がきっかけでヤマトを好きになりました。僕は高校1年という年齢ですがヤマトを心より愛しています(ヤマトより沖田艦長や島のほうが好きですね)。今はは牢屋にいますが1日も早く出所してヤマト復活編と2520の続きを作ってください。現在は松本零士氏が西崎プロデューサーの代打でヤマトの舵を担っていますが、松本零士のヤマトではなく西崎義展プロデューサーのヤマトになってくれることを一日も早く願っています。余談ですが小さいころに「さらば宇宙戦艦ヤマト -愛の戦士たち-」を見てトイレに行けなかったことを今でも覚えています(笑)最後に一ヤマトファンとして西崎プロデューサーにエール送ります!!
西崎プロデューサーFIGHT!!負けるな!西崎プロデューサー!!

A.U さんからのメッセージです。

西崎プロデューサー、お元気ですか。 著作権が松本氏に移ってから随分経ちますね・・・ この前、その松本氏の新ヤマトを読みました。・・もちろん立ち読みですが。 ・・ほとんど999とハーロックの世界でした・・ ヤマトである必然性がまったくありませんでした・・・ 現在あるヤマト関連のサイト(松本氏公認?)を見てみると、ほとんどの人が 松本派ですが、ヤマト=松本氏に疑問を感じる人もいます。 私は昭和41年生まれで、パート1のTVシリーズをリアルタイムで見てました。 当時、私の住んでる地域では「猿の軍団」と放送時間が重なっていたので、 交互に見てました・・・ 完全に?好きになったのは、再放送からですが・・ 徳間書店のロマンアルバムを、何度も何度も読み返しました。 ・・その頃からヤマト=松本零士という風潮があったように思います。 やっぱり漫画の影響でしょうか・・? 私は、当時から松本氏はスタッフの一人だと思ってます。現在も、ですが・・   YAMATO2520・VOL.3、とても面白かったです。 正直、それ以前の2520は作画面で不満が残りました・・ でもVOL.3は、素晴らしかったです。 オープニングの戦闘シーンも、壮大な音楽とマッチして、何度見ても飽きません。 第17代ヤマトもカッコ良かったです。個人的には18代より好きです・・・ 第7艦隊旗艦ブルーノア、こっちの活躍も楽しみです。   西崎プロデューサー、なるべく早く復帰してくださいね。 とりあえず、ヤマトの権利を取り戻しましょう。私も応援します。 松本氏の新ヤマトなどは、勝手にやってもらって構いません。 でも旧ヤマトシリーズは、断固死守しましょう。

ー相原よりー 若い世代のヤマトファンからの貴重なメッセージを頂きました。Y.S氏の承諾を得ましたので氏のコメントを紹介します。

初めまして、ヤマトのHPを持っているY,Sと申します。僕は、いわゆるヤマト世代の人間ではありません。「完結編」が公開された83年3月の時点では1歳でしかありませんでした。その僕が、ヤマトという作品に出会ったのは、とても幼い日のことだったと記憶しています。ちょうど、パート1のガミラス本星の戦いのシーンでした。その印象が今でも強烈に残っています。それから数年経って、その作品が「宇宙戦艦ヤマト」という作品であることを知り、TV版以外はすべて制覇しました。しかし、制覇した、とは言っても、ビデオ化されているもののみですから、パート1劇場版のスターシアが死んでいたバージョンや完結編の初期公開バージョンなどは見たことはありません。そんな僕がヤマトのHPを開設したのは中学3年生の時でした。インターネットという場を通じて、未だたくさんいるヤマトファンに出会えたのがとても嬉しかったのです。そして、その頃一番期待して待っていたのが、そう「復活編」です。「ヤマトとしてはどんな駄作でも良い。スクリーンを飛ぶ生きてヤマトを見られればそれで良い」そう思って。世間ではヤマトは松本作品だと言われていますが、実は西崎Pの作品であることを僕は知っています。「新たなる」以降は商業に走っている、とよく言われますがすべての作品が大好きです。

今のアニメよりも、いろんな点に置いて凌駕していると思います。ウエスト・ケープが倒産したときはショックでした。そして、その後の二度に渡る西崎Pの逮捕もショックでした。ヤマトの版権が松本氏に移り、著作権表示が「松本零士」と表示されるのに未だに違和感を感じます。そして、松本氏がヤマトを飛ばす、と言い本当にヤマトを再び飛ばすのは間違いないでしょう。しかし、ヤマトは松本氏の作品ではないのです。氏の最近の映像作品を見る限りでは不安でたまりません。西崎Pだったらきっと凄い作品になるのにな、と。その上、松本氏はヤマトを999やハーロックとリンクさせるつもりでいるのです。すなわち、ヤマトという作品に999が飛び、アルカディア号が飛び、ハーロックやメーテルが出現する、という可能性があるわけです。僕は、ヤマトは『ヤマト』という作品で作って貰いたいのです。それでも、松本新ヤマトを見るのでしょう。でも、本心はやはり西崎Pに飛ばして貰いたい。西崎Pの「こだわり」がヤマトという作品には必要なのです。長々と書いてしまいましたが、それだけヤマトが好きなのです。本当はもっともっと書きたいのですが、とりあえずここまでにしておきます。

こんな若いヤマトファンもいることを忘れないで下さい。それでは。

 

Y.N氏からのコメントです。

ホームページの若いヤマトファンの方の書かれているように、私も最近のヤマト関連の画像や写真にC:松本零士・東北新社と書かれているのはどうしても、「何か違う」と思っている一人です。ヤマトの版権が法律上は松本&東北新社が移っているとはいえ、最近の昔ヤマトに関わっていた人たちの発言にはあまりに酷すぎるものがあります。戦後まもなく、戦争中に使っていた教科書の一部に墨を塗らせて使用させたと言うことがありましたが、彼らの言動はそれに近い。松本氏の漫画を繰り返し読んでくれば分かるように、テレビ・映画のヤマトと、そのほかの松本氏の漫画・テレビ作品には明らかなスタンス・視点の違いがあります。それはやはり、西崎氏をはじめとするオフィス・アカデミーの面々の参加があったからでしょう。それを無視し、無かったかのようにする風潮にはやはりどこか疚しいものを感じざるを得ない。

間違いは間違いであり、西崎氏の二度の失敗はやはりしかるべき処で裁かれなくては為りませんが、西崎氏の作ったヤマト像まで無かったものにしようとする風潮は問題があると言わざるを得ないでしょう。それにしても、ヤマト復活編のアクエリアスの海から飛翔する大和の姿、YAMATO2520での宇宙の謎に挑もうとする18代YAMATOクルーたちの活躍というプロットがWCC社の倒産、西崎氏の逮捕という結果によってとん挫する事に相成ったのは誠に残念の限りです。それでもヤマトに関する商品・グッズの入手状況が5年前に比べると比べものにならぬ位改善されたことは良かった。5年前音楽集のCD化などを日本コロムビアに再三要請してきて、95年初頭に軒並み再販された時の喜びを今も昨日のことのように思い出します。ヤマト以外でも西崎氏の活躍する道は今後残されているのかもしれませんが、是非現在の版権者と上手く渡り合ってヤマトに関わっていって欲しいと考えています。

 

T.N氏からのコメントです。

ヤマト劇場版が、公開された年には、私は生まれておらず、初めてヤマトを見たのは3歳のとき(だと思う・・・)でした。その時は、おぼろげにしか覚えていただけでしたが、その時からその艦に対しあこがれを持ちはじめていたと言っても過言ではなく、小学4年頃になってヤマトの再放送が開始したときは、すっかし有頂天になったものです。だから、「復活編」の制作が開始されたと言うことを聞いたときすっかし喜んだだけに、西崎氏の逮捕はショックだったし、松本氏のヤマトの世界観を理解するのにも時間がかかりました。(それだけヤマトの印象は、強烈だったということなもかもしれませんけどネ。)他のヤマト関連のホームページを見て回り自分なりに出た結論をあえて言うなら、ヤマトの航海は、いまだにつづいているとゆうことです。それぞれの心のなかで、それぞれの心の中の、「未知の世界」にむけて・・・・・。

 

H.K氏からのコメントです。

月並みかも知れませんが言わせてください。

私の人生はヤマト抜きでは語れない。当時の私は小学校4年生でした。夕方5時30分からやっていたヤマトを毎日何気なく見ていました。そして迎えた最終回。私の人生で初めての感動を味わったのです。当時の私はそれをどのように表していいか分からず、多摩川の河原に犬の散歩を日課にしている祖母と一緒に行き、ただただ一心不乱に走りました。そして祖母に当時800円だったヤマトのハードカバーの小説(?)3巻をおねだりして買って貰いました。そしてその夏に公開した、さらば宇宙戦艦ヤマトの映画を生まれて初めて一人で見に行きました。感動しました。小学生にはちょっとつらい内容でしたが、でも、感動しました。彗星帝国のどうしようもない強さに、満身創痍となりながらも敢然と立ち向かっていくヤマト。忘れられません。

現在、私は32歳。いまだにアニメを見ています。ヤマトから始まったアニメ遍歴の中でいろいろな素晴らしい作品に合うことが出来ました。作りや内容ではヤマトを凌駕している作品もあります。正直言って私の心の中では、一瞬他の作品ベストになったりします。ですが、暫くするとやはりヤマトが私の心の中ではベスト作品に戻っているのです。何故でしょう。やはり青春(と、言うには幼すぎるような気もしますが)の一時をヤマトと共に過ごしたからなのでしょうか。さらば宇宙戦艦ヤマト以降の劇場版もすべて劇場にて観ました。残念ながら記憶に鮮明に残っているのはヤマトよ永遠に位までですが・・・。クラッシャージョウと幻魔大戦との同時公開の時ヤマトを観に行ったのは、ヤマトファンとしてのささやかな誇りです(ウェスト・ケープ・コーポレーションから、ヤマトファンの力を見せてやりましょうとの手紙も貰いましたし)。

西崎プロデューサーのことを悪く言う人間がいますが(事実多くの松本零士ファンとの交流の中で一度ならず非難されているのを耳にし、そのたびに私は下記のようなことを言ってきました)私は、西崎プロデューサーがヤマトに傾けた情熱というモノをいつまでも信じたいですし、それを疑う気持ちはありません。ただ、みんなに死ぬまで夢を与え続けなくてはいけない人として、西崎プロデューサーがしたことは確かに裏切りにも似ています。ですが、人間誰しもどうしようもないときがあります。若輩者の私が言うのも口はばったいですが、その人間的な弱さや悲しみを知らずに、人の弱さや悲しみを分かることが出来るのでしょうか?西崎プロデューサーがしたことは確かに誉められることではありません。でもそのことだけでその人格や存在を全否定することだけは間違っていると思います。きっと我々のような普通のサラーリーマンの社会とは違った流れの速い世界での苦労というのは私などには計り知れないモノがあると思います。まだまだ、西崎プロデューサーには頑張って貰わなくてはなりません。罪滅ぼしとでも言うのでしょうか。ですが、これらのネガティブな出来事も、きっと、これからの作品に活かされて行くはずです。また、そうでなければ、今まで多くの松本ファンに非難されながらも西崎プロデューサーを信じてきた自分が悲しくなります。

頑張ってください。世間が何と言おうと、ヤマトを作った西崎プロデューサーの情熱や思いを否定できる人はいないはずです。私はそう思います。

 

S氏からのコメントです。

西崎さん

私はヤマト放映時からのファンです。

私の人生の中でこれほど影響を与えたものはないといって良いほどヤマトは私とともに有ります。そう、今でもです。西崎さんの熱意、伝わっていました。製作側と視聴者側がこんなに接近した作品はヤマトが最初でしょう。そんなヤマトが好きだということに私は誇りを持っていましたし、今でもそうです。こうしてインターネットでヤマトファンが多くいることを知り、その人達と接することが出来、今までに無かったヤマトに対する充実感があります。そんな中であなたの逮捕…悲しかったです。版権が松本氏に移ったことで正直ホッとしました。あなたが事を起こすたびに必ず「ヤマトの」と言われ、私達がどんなに辛い思いをしていたか…

こう言う形でメールが送られているのですから、私以外の方で同じ事をおっしゃる方がいらっしゃったかもしれません。でも、正直な思いなのです。松本氏がヤマトを作りたいと言っていることに対し、私はそれでも良いと思う1人です。作ることに対する思いは、どんな人であれ持っているものですし、今ではヤマトファンから製作側に入った方が大勢いらっしゃる。もしそう言う方々が集まって作ってくれるヤマトならPART1のころに近い作品が出来るかもしれません。(これはあくまでも個人の希望です)いろんな意見があるのは知っています。それでも良いと思うのは、自分の中に確たるヤマトへの思いが有るからだと思います。松本氏が作ったヤマトを見ても、揺るぐことの無いものがあるから…。ただ、マンガを見ていたものとしては、松本ワールドのヤマトも決して悪くは無いと思っております。だから、版権が松本氏に移ったことを好意的に受け止められたのかもしれません。まったく関係の無い第三者に移るより、ずっと良いです。

あなたのした事は犯罪です。そして、あなたを信じていた多くのファンを、傷つけたのも事実です。最近のあなたの顔にはPART1を作っていた頃の輝きが無かった。

HPで雄弁をふるっておられますが、なぜ、こんな事になる前に思い返すことが出来なかったのですか?これほどの情熱をまだ持っているのなら、なぜ道を踏み外すよな事をされたのですか!!34歳の、あなたから見ればまだ一人前ではないかもしれない私が、こんな事を申しあげるのは失礼かもしれません。でも、どうしても伝えたかった。この悔しさを。正義と愛の何たるかを訴えていたあなたが…どうして…インターネットで知り合ったヤマトファンの方々は、素敵な方々でした。あなたが私達に植えた小さな種が、時を越えてめぐり合い、HPの中で大きな森を作っています。皆、ヤマトを愛しています。周りでいろんなことを言われてきても、それでもヤマトが好きでしょうがない人達です。わかりますか?あなたのされた事が。こんな素晴らしい事をしたと言うのに、それを裏切るような行為が…。

説教地味た話をしてすみません。失礼と思いつつこんな事をした私は子供かもしれませんね。でも、ヤマトの事となれば、25年前のあの頃の自分が蘇るのです。いえ、ヤマトだけじゃない。トリトンも、ワンサ君も…。どんなに楽しかったか…。いつか自分の子供に見せてやりたいと思っているくらいです。その時は、あなたのことを話したいと思います。だから、明日の判決を受けた後、私が胸を張って子供達にあなたのことが伝えられる様頑張って下さい。あなたが私達に伝えた事を次の世代に伝えることが、私達のするべき事なのですから…。

 

I氏からのコメントです。

私も、前々から訴えたかったことがあります。それは、松本氏が、あたかも原作者であり、製作者であるような捉え方をしているメディアが多いと言うことです。私は、そう言ったメディアに問いたい。「宇宙戦艦ヤマト」は誰が企画して、製作の陣頭指揮に立ったのか?この作品は、西崎氏が考え出し、スタッフを捜し、製作したのではないのでしょうか?そしてストーリーの性格上、魅力的な女性、マニアックなメカを必要とし、松本氏に声をかけたのではなかったのでしょうか?

 それをあたかも、自分が「製作」したかのようにビデオのオープニングで「監督 松本零士」と表示するのはおかしいのではないでしょうか?更に言うなら「2」「III」では、「私は、ヤマトが何処へ行くのかわからない」とかいうコメントを繰り返していました。なのにもかかわらず、自分の著作権表示をしてビデオを売り、その利益を得るというのは作り手として意に反することではないのでしょうか?確かに、あれだけのSF設定を行ったことは認めますが、製作の総指揮にあたった方をないがしろにし、ビデオやLDのスタッフクレジットに自分の名前を先頭に持って来るというのは、不思議なことです。アニメーションに携わることが出来た恩のある方の事を忘れてしまっています。(YAMATO2520の著作権まで表示しているのもげせません)「宇宙戦艦ヤマト」に関しては松本氏のオリジナルでないことを、広く一般の方に理解していただきたいと思います。「宇宙戦艦ヤマト」の全ての作品は西崎氏の生き様であり、心の鏡なのですから。以上です。

 

T.W 氏からのコメントです

私はTVシリーズ第1作でヤマトファンとなり、近年の西崎さんの3回に渡る新聞記事(W.C.C.倒産を含む)に大ショックを受けながらも、現在もヤマトファンを続けています。イヤ!今まで以上に強い気持ちで続ける様になりました。思い返せば数年前、VE社のGさんから砂町の倉庫整理を頼まれた頃、数回程、西崎さんとお会い出来たのが最後となってしまいました。あの時の元気一杯だった西崎さんからして、今ではもう夢のように思います。丁度その頃、倉庫内で東京ディズニーランドを上回る1000万坪と言う巨大レジャーランド構想の完成予想地図を見つけたのですが、あまりにも構想が巨大でボツになってホコリをかぶっていました。その中には、ヤマトのモニュメントもあったのを、西崎さんは覚えているのでしょうか?「完結編」が終わってから、ヤマトと言う作品はヤマトファン一人一人の中にまで生きている状態になったと思います。私はそんなヤマトだからこそ、そして日本のアニメーションブームを築き上げた世界的にも歴史に残るヤマトだからこそ、当時のブームで終わらせるのでなく、永遠に語り残したいと真剣に想いました。

私にも長年かけて集めたヤマトコレクションのグッズや資料を大切に保管しているのですが、将来はヤマトの博物館を作って歴史あるヤマトを、いつでも誰でも見られるようにしようと計画中です。幸いこの通信において協力してくれる友人達と共に、将来のヤマト博物館のために、経費をかけずに保管できる場所を確保できるようにもなりました。巨大レジャーランド構想の中には、ヤマト作品の展示場もあったはずです。私共はそのボツになった夢を、まだ数年かかる事でしょうが、博物館だけでも実現させたい思っています。西崎さんのメッセージを見て、私共の方はコレクションのレベルではありますが、この世に記録として残すと言う事では同様な考えを持っていると感じました。

現在では、ヤマトを作ってくれたスタッフの方々はバラバラになってしまいましたが、私はこのヤマトを築き上げてくれたスタッフ一人一人にとても感謝しています。ヤマト博物館のコレクション管理上で、もしもお役に立てるのでしたら、ぜひとも協力したいと思っております。最後にまた、以前の様なお元気な西崎さんに、もう一度会える事を祈っております。 T.W

 

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西崎義展 wiki

西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年(昭和9年)12月18日2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ[1])。

アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』などを企画製作した。

略歴[編集]

東京府に生まれる。父親は日本興業銀行勤務[2]、父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎[3]、母方の祖父は海軍大将[4]、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑[5][6]

私立武蔵高等学校卒業。文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に感動し、文学座を受験、2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される[6][7]日本大学芸術学部に入学。同時に文学座の養成所で学び、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した[6]1957年に日本大学卒業[8]

1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ[2][9]。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した[10]

1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る[8]

1963年10月、オフィス・アカデミーを設立[11]。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌ぎ、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友と水産品を扱うシーホースという会社に出資して共同経営した[6][2]。ショー製作の本数は約200本[8]。山崎によれば、民音事務局長の大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという [12]

1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた[10][9]

帰国後の1970年には手塚治虫の知人からの紹介で、手塚と個人契約を交わしてマネージャーを務めるようになり、手塚作品のテレビへのプロモートを行った[10][9][13][14]1971年2月頃より、手塚が社長の虫プロ商事に企画制作部長として就任。多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図ったが、急進的な改革は専横状態となって人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る[15][16]

1972年、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同年にオフィス・アカデミーの社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする[8][11]

続いて手塚治虫の『ワンサくん』の映像化権を取得。仕事のない虫プロダクションは自社での『ワンサくん』の制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される[17]

個人プロデューサーとして、1973年1月より瑞鷹エンタープライズのテレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』を製作[8]。同年4月より虫プロ制作で『ワンサくん』を放送した。放送終了後の11月に役員を務めた虫プロが倒産。

虫プロの再建運動を進めていた労働組合と交渉して、1974年6月に和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容[18]。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある[12]。この頃、手塚治虫とはトラブルから絶縁状態になる。

1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。

1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。 高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した[2][19]

1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫[20][21]

同時期には吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている[21][22]

1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』[23]、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』[24]では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた[25][26]。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた[27]

しかし出資していた山崎正友経営のシーホースが経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになり、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った[6]。前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した[6]

活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発し[6][28]、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉。『DESLAR’S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが[29]配給収入の推定は2億円[30]と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった[31]

初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した[32]

経営破綻したレンタルビデオの童夢の事業を1987年から引き継いだが営業不振によって1990年代になって資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。さらに1997年にウエストケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む製作した作品の著作権を失う結果を迎える[11]。1997年末と1999年には覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された[2]

1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる[11]

服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴[33]。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立[34]

一連の事件では、2003年2月に懲役5年6ヶ月の実刑判決が確定[35]。刑務所で服役した後、2007年12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。[7][2]

2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された[36][37]。75歳没。

2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した[38]

没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。

『宇宙戦艦ヤマト』関連年表[編集]

  • 1973年(昭和48年) – テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を企画。
  • 1974年(昭和49年) – オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』を製作。
  • 1977年(昭和52年) – オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)を製作。
  • 1978年(昭和53年) – オフィス・アカデミーで『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト2』を製作。
  • 1979年(昭和54年) – アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、『宇宙戦艦ヤマトII総集編 ヤマトよ永遠なれ!』を製作。
  • 1980年(昭和55年) – オフィス・アカデミーで『ヤマトよ永遠に』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作。
  • 1983年(昭和58年) – ウエスト・ケープ・コーポレーションで『宇宙戦艦ヤマト完結編』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII総集編 太陽系の破滅』を製作。
  • 1984年(昭和59年) – 10月12日付『報知新聞』で「ヤマト復活3ヵ年計画」を発表。その内容は、1985年『宇宙帆船スターシップ』(後の『オーディーン 光子帆船スターライト』)、1986年『DESLAR’S WAR I 戦艦スターシャ』、1987年『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』を公開するというもの。
  • 1994年(平成6年) – 2月、バンダイビジュアルよりビデオ『宇宙戦艦ヤマト胎動篇 -ヤマト!!わが心の不滅の艦』発売。映画『宇宙戦艦ヤマト 復活編』とOVA『YAMATO2520』のメイキングプロモーション。
  • 1995年(平成7年) – 2月『YAMATO2520』のVol.1を発売開始。1996年8月発売のVol.3を最後に未完に終わる。
  • 1996年(平成8年) – 『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙空母ブルーノア』などの著作権などを対象とする譲渡契約を東北新社と締結。
  • 1997年(平成9年) – 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権を長男に移転登録。
  • 1998年(平成10年) – 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作権などにつき東北新社と西崎・ウエストケープコーポレーションの破産管財人が譲渡契約の履行を選択する。
  • 1999年(平成11年)
『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転につき、破産管財人が抹消を求めて提訴。東北新社の許諾によりバンダイおよびバンダイビジュアルが製作したプレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償を求めて、西崎が東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルを提訴。
『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎を提訴。
『宇宙戦艦ヤマト』の著作権などにつき東北新社と西崎・ウエストケープコーポレーションの破産管財人の間で譲渡代金の支払の司法和解が成立。著作権者は東北新社であることが確定。
『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転取消請求事件に東北新社が参加。
『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、西崎であることの確認を求めて、西崎が松本零士に反訴。
『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転登録抹消の判決。
プレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償の請求を棄却する判決。西崎はこれを不服として控訴。
『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権は西崎である旨の判決。松本零士は控訴。西崎も反控訴。
西崎と東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルの間の控訴審で和解が成立。3社は西崎に対し「『宇宙戦艦ヤマト』の原作者である旨を公表しても異議を唱えない」ことを認めた。
『新宇宙戦艦ヤマト 復活編』の製作が養子である株式会社エナジオ社長の西崎彰司より発表される。
  • 2007年(平成19年)12月20日、総監修した「宇宙戦艦ヤマト デスラー総統ワインセット」と「宇宙戦艦ヤマト バイクヘルメット」の販売を発表して活動を再開する[39][40]
  • 2008年(平成20年)
2月22日に発売される『宇宙戦艦ヤマト』DVD-BOXに特典の監修を担当。これに伴う形で、2月発売の『週刊プレイボーイ』(2月25日号NO.8)と『オトナファミ』の「2008 Apri」で庵野秀明との対談記事により出所後初めてマスメディアに登場した。7月31日に東京都練馬区にアニメスタジオ「ヤマト・スタジオ」を開き、2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の製作を発表[41]

作品リスト[編集]

関連企業[編集]

アニメーション・スタッフ・ルーム
1972年、虫プロ商事に在籍したメンバーを中心に設立。同年『海のトリトン』を製作。
オフィス・アカデミー
1963年10月に設立。1972年に社長就任。1979年、2億7000万円の申告漏れが発覚[42]。1982年夏に整理[6]
ウエスト・ケープ・コーポレーション
1977年12月9日に設立し[43]、1982年以降はオフィス・アカデミーに代わって西崎の活動の拠点となり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの音楽などの著作権管理や出版物販売、アニメ映画の企画・制作などを行った[6][28]
アニメ制作に加えて洋画の輸入と配給を行った他[44]、1989年3月、アニメ映画化した『超神伝説うろつき童子』を松竹富士とともに配給。
1997年9月16日、会社および西崎個人に東京地方裁判所より破産が宣告される。負債額は48億3133万円。原因は不動産購入による借入金負担と新作の売上不振と報じられた[28][45]
アカデミー製作→東京動画
1979年、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』『宇宙空母ブルーノア』を製作。途中で「東京動画」に名を変えて、『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作したほか、東映本社の下請けとして『宇宙大帝ゴッドシグマ』『百獣王ゴライオン』の実制作も行った。1983年解散[46]
ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク
1984年11月設立。ウエスト・ケープ・コーポレーション、日本コロムビアを筆頭株主に、バンダイ松竹徳間書店社長徳間康快が出資。代表取締役を務める。
映画の製作、ビデオの製作・販売を行う。1987年、オリジナルビデオアニメ『超神伝説うろつき童子』を製作。1988年、倒産した大手ビデオレンタルチェーン童夢の営業を引き継ぐ。
1991年6月27日、東京地方裁判所に特別清算を申し立て、倒産。負債総額は約77億円。日本コロムビアが資金を引き上げたことが原因。レンタルビデオショップとカラオケボックスへの投資で資金繰りが悪化していた[47]

不祥事[編集]

1997年12月2日、東京都渋谷区宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚せい剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された[48]

覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける[49]。西崎側は判決を不服として控訴1999年1月21日、控訴棄却、西崎側は上告[要出典]

1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの[50][51]。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕[52][53]。西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港ドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた[54]。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張するも[55]「正当化する余地は全くない」と2001年の東京高裁判決で否定される。[要出典]

1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定[56]2002年、刑期満了により出所。[要出典]

2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける[57]。西崎は不服として控訴。2001年9月18日、控訴棄却[要出典]。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し収監[35]

2007年12月19日、刑期を終えて出所[41]

出典[編集]

  1. ^ 波乱万丈、覚醒剤逮捕も…宇宙戦艦ヤマトプロデューサー転落死の謎 – ZAKZAK、2010年11月8日。
  2. ^ a b c d e f 「最後はマグロ船『ヤマト』から転落死!『西崎プロデューサー』の破天荒な生涯」『週刊新潮』2010年11月18日号、pp.136-137
  3. ^ 西崎弘太郎 コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)
  4. ^ 『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正、山田 哲久著 講談社刊)』P151によれば、母方の祖父が海軍大将だったという記述は『キネマ旬報』の記事内にのみ登場し、母の旧姓と同じ苗字の海軍大将も実在せず、事実か否か断定できないとの事。
  5. ^ 西崎緑(初代) コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)
  6. ^ a b c d e f g h i 西沢正史「天国と地獄をみた男・西崎義展」『キネマ旬報』1983年3月下旬号、pp.96-99
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  8. ^ a b c d e 『ヤマトよ永遠に』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1980年。西崎義展プロフィールより。
  9. ^ a b c 「Producer Special Interview 『ヤマト』の10年は、またひとついい思い出と財産をもたらしてくれた…… 西崎義展」『ロマンアルバムエクセレント53 宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL 1』徳間書店、1983年、pp.205-209
  10. ^ a b c 『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1978年。西崎義展プロフィールより
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  12. ^ a b 山崎正友「宇宙戦艦『ヤマト』と民音」『池田大作 日本経済乗っ取りの野望 (四)』信教の自由を考える集い編、「自由の砦」編集局、1989年
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  14. ^ 手塚治虫「あとがき」『手塚治虫漫画全集192 海のトリトン4』講談社、1980年、p.231
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  16. ^ 「マンガ界の神話は不滅か」『朝日新聞』1980年3月11日号
  17. ^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.329-331
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  33. ^ ヤマト裁判、松本零士はなぜ負けた? 泥沼法廷闘争は終わらず… ZAKZAK 2002年3月29日
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  40. ^ 劇場公開30周年記念特別企画『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサー総監修「バイクヘルメット Type Cosmo-Zero」LaLaBit Marketで受注開始!」バンダイネットワークス・プレスリリース 2007年12月20日(2007年12月24日時点のアーカイブ
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  47. ^ 「特別精算申し立て ジャパン・オーディオビジュアル」『日本経済新聞』1991年6月29日付
  48. ^ 「宇宙戦艦ヤマトプロデューサー 覚せい剤所持容疑で逮捕」『朝日新聞』1998年1月17日付
  49. ^ 「宇宙戦艦ヤマト」元プロデューサの西崎被告に実刑判決『産経新聞』1998年6月2日付
  50. ^ 「宇宙戦艦ヤマト 製作者が銃所持 覚せい剤も」『日本経済新聞』1999年2月2日付
  51. ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』プロデューサー 短銃など所持容疑、逮捕」『朝日新聞』1992年2月2日付
  52. ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』製作の西崎容疑者を再逮捕 銃刀法違反容疑」『読売新聞』1999年5月12日付夕刊
  53. ^ 「自動小銃密輸容疑 西崎被告を再逮捕」『産経新聞』1999年5月12日付夕刊
  54. ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展容疑者が「覚醒剤と機関銃」でまた逮捕」『フライデー』1999年2月26日号、pp.68-69
  55. ^ 「スクープ 宇宙戦艦ヤマトのプロデューサーがマニラで積み込む 自動小銃2丁、砲弾30発、銃弾1800発–石原都知事尖閣諸島突入(97年)船に重火器搭載」『週刊朝日』1999年8月20日号、pp.28-31
  56. ^ 「覚せい剤所持違反の西崎被告の上告棄却 最高裁」『読売新聞』1999年6月10日付
  57. ^ 「銃刀法・覚せい剤取締法違反の西崎被告に実刑判決 東京地裁」『読売新聞』2000年10月25日付夕刊
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