「遺書」瀬戸内寂聴の死に支度

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療養中の瀬戸内寂聴さん、11カ月ぶりに法話 京都

岡田匠 2015年4月8日16時07分

 骨折や病気のため療養生活を送っている作家で僧侶の瀬戸内寂聴(じゃくちょう)さん(92)が8日、京都市右京区の寂庵(じゃくあん)で昨年5月以来、約11カ月ぶりとなる法話を行った。お堂に入りきれないほどの聴衆300人以上を前に、紫色の法衣姿で立ったまま、「長い間病気をしてましたが、お陰様で今日を迎えられた。ありがとうございます」と話しかけた。

寂聴さんは毎月1回、寂庵で法話の会を開いていたが、昨年5月末に背骨の圧迫骨折で入院。9月には胆囊(たんのう)がんの手術を受けた。

8日は釈迦の生誕を祝う花祭り。寂聴さんは「生きているのが当たり前と思っていたが、皆さんにお会いできるのが不思議なこととわかった。先祖や仏様に感謝しましょう」「病気では痛くて神も仏もあるものかと思ったが、長く患ったためにがんがわかった。仏様が守ってくれ、ありがたい」と約15分にわたり話した。

終了後、報道陣から再開の感想を問われ「この命を何に使うか。作家だから小説を書きたい。『戦争をするな』『原発はいらない』と言い続けたい」と語った。

法話の会は5月から毎月1回開く予定という。(岡田匠)

以上の抜粋もとは朝日新聞デジタル
http://digital.asahi.com/articles/ASH3V56K4H3VPTFC00T.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASH3V56K4H3VPTFC00T

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自らの最期見つめて 瀬戸内寂聴が新刊 僧として、作家として、考える死

2014年12月10日05時00分

 体調不良で今年に入って二度入院し、現在は京都の自宅で療養している作家で僧侶の瀬戸内寂聴(92)が、自身の人生の終着点を見つめる新刊『死に支度』(講談社)を出した。衝撃的なタイトルの長編小説に託した思いを、電話で聞いた。

「90歳を機に、どんな死を迎えるべきか考えようと書き始めた」という物語は、91歳の誕生日を目前にした作家に、長年付き添った女性スタッフたちが「私たちを養うために、先生は仕事を減らせない」と、一番若い20代の女性だけを残して退職を申し出る場面から始まる。

長編小説」と銘打ってはいるものの、主人公は京都の「寂庵(じゃくあん)」に住む女性作家で僧侶。読者は作者と重ねて読まずにはいられない。物語は90代の作家と、身辺の世話をする20代の女性スタッフとの日常に、回想を差し挟みながら進んでいく。

父や母や姉、作家の連城三紀彦文芸評論家の秋山駿。近しい人たちの人生と死を一人ひとり振り返り、僧として考える死と作家として考える死とのはざまで揺れながら、主人公は自身の最期のあり方を見つめていく。

「長生きするということは、たくさんの大切な人と死に別れること。自分の死を見つめるために自分の今を書き、大切な人たちのことを振り返ったんです」

亡き人への思いの深さの一方、孫ほども年の離れた女性と過ごす日々の描写は軽やかで明るい。「なう」を語尾につけるのが若者の流行と聞けば「コーヒーがほしいなう」「オッケーなう」とふざけ合い、合コンの日に身につけていく下着について、大まじめに議論する。

「若い子と暮らしてると、毎日があの通りの明るさなんですよ。でも、今だったらあんなふうには書けないかもしれない」

『死に支度』は昨年夏から文芸誌に1年間連載したが、今年7月号に載せる最終回を書き上げた直後、背骨の圧迫骨折で入院。いったん退院したものの、8月から9月にかけて再び入院した。今はリハビリをしながら主に横になって過ごし、執筆できない状況が続いているという。

体調の話になると、せきを切ったように言葉があふれ出した。「身体の痛みよりも、寝たきりで書けない自分が許せなくて、その憂鬱(ゆううつ)さと戦う毎日。100歳まで生きてねって皆さん言ってくださるけど、ものを書けない寂聴なんて、生きてたってしょうがない」

『死に支度』は最後の連載のつもりで執筆を始め、書いている間に自らの最期に向けて身辺の整理を進めるつもりだったという。物語の終わりにつづる、いつ死が訪れてもおかしくない毎日をただひたすら慈しむような、やさしくしなやかな境地が胸を打つ。

「今は体がこんな状態だから、もう書けないかもしれないと思うこともある」。92歳の作家は、電話の向こうで言葉を切った。

「でもまだ、『死に支度』を最後の小説にはしたくない。私がそう言ったと、必ず記事に書いてね」

(柏崎歓)

以上の抜粋もとは
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11498732.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11498732

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私が51歳で出家を決心したとき、マスコミはいろいろなことを書き立てました。男に振られたのではないか、もう小説が書けなくなったのではないか、娘の結婚式に呼ばれなかったので拗ねたのではないかなどなど。でも、どれも当たってはいませんでした。

ちゃんと男はいましたし、連載の予約は再来年まで一杯。娘の結婚相手は、陰で私が世話をした人でした。ですから、そういった理由ではなかったのです。

私は大学を卒業するまで、ずっと優等生でした。結婚しても模範的な奥さんだったので、不良に対して強い憧れがありました。子供の頃から、不良が羨ましくて羨ましくて仕方がなかった。

家を捨て、子供も捨てて、大変に悪いことをいろいろとして、周囲の人にも迷惑をかけながら小説を書き続けました。お陰様で小説は読者がついてくれ、嫌な言葉ですが「流行作家」になりました。売れる小説を書くコツを会得していたので、いくらでも小説は書けた。あのまま流行作家としての人生を続けていくことは、私にとって容易なことでした。

ところが、「これじゃない」と思ってしまったのです。私が憧れてきた、理想としてきた文学は、こんなものではないと思ってしまったのです。

持って生まれた才能だけでは、もはや文学の理想を究めることはできません。バックボーンというのでしょうか、確固たる信念と哲学がなければ、本当に書きたいものは書けない。何か、人間よりも大きな存在に助けてもらいたいという気持ちが、非常に強くなったのです。

師僧の今東光先生(作家・故人)がご病気だったこともあり、先生が住職を務める中尊寺での得度式では、上野・寛永寺の杉谷義周大僧正が戒師を引き受けてくださいました。天台宗では頭を剃っている間、声明を上げるのですが、壁越しに男性のゆるやかな声明を聞きながら頭を剃られていると、心が鎮まっていくのを感じました。これは毀形唄(きぎょうばい)という声明であることを、あとから学びました。

いま幸福に生きている人は、この幸福を守りたいと思い、守り切れると信じます。しかし、そうはいかないのです。地震、津波、台風、洪水といった自然の猛威に触れれば、永遠に続くと思っていた幸福がひとたまりもなく吹き飛んでしまう。命も同じです。人間は生まれてきたら必ず死にます。死ぬために生まれてくると言ってもいい。幸福が永遠に続かないように、命も永遠ではないのです。

世の中は常に変化し、人生には予期せぬことが起こり、そして、人間は必ず死ぬ。こう覚悟しておけば、度胸が据わります。大変な災害に遭おうと、会社をリストラされようと、「ああ、これこそ世の習い」と感じることができれば、あわてふためくことはありません。

お釈迦さまは、「この世は苦である」とおっしゃいました。生きることは苦しいと。しかし、この世は苦であると最初から思っていれば、どんな苦しみにも耐えられます。苦だと決まっているのだから、じたばたしたって仕方がない。

「『一切の形成されたものは苦しみである』(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ=法句経)

耐え忍ぶことを、「忍辱(にんにく)」と言います。お釈迦さまは、苦にはひたすら耐えよとおっしゃった。苦に耐え抜いたとき、きっと予期していなかった心の平安が与えられるのでしょう。

作家・天台寺名誉住職 瀬戸内寂聴
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。63年『夏の終り』で第2回女流文学賞受賞。73年得度。92年『花に問え』で第28回谷崎潤一郎賞、2006年度文化勲章受賞。近著に『生ききる。』(共著)、『奇縁まんだら』。以上の抜粋もとは http://president.jp/articles/-/9907━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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2015年04月26日(日) 週刊現代

特別インタビュー 瀬戸内寂聴「長生きすると分かる、いい人から先に逝くのは本当だって」(上)

葬式、お墓、愛する人との別れ、性……。一体どうしたら思い残すことなく最期を迎えられるのか。92歳のいまも作家として、また僧侶として活躍する瀬戸内寂聴氏が「生」と「死」を語る。

私が見送ってあげる

私は毎朝、新聞を死亡欄から読みます。’72年に出した祇園を舞台にした小説『京まんだら』を書くために取材した祇園の女将が、「私たちは朝、新聞を開いたら、必ず死亡欄を読みます」と言うんです。「お客さまが亡くなっていないか、チェックするためです」と教えてくれました。もし、お得意先が亡くなっていたらすぐに弔電を打たないといけないですからって。

それを聞いて以来、私もだれか知り合いが死んでいないか、死亡欄を確認するようになりました。驚いたのですが、この頃では70代で死んでも死因は「老衰」です。いま、92歳の私なんかが死んだら「老老老衰」になるんじゃないのかしら(笑)。

私は今年5月に93歳になります。’13年に『死に支度』という小説の連載を『群像』で始めた時は、「この小説は死ぬまで書こう」と思っていましたが、1年経ったところで本にまとめました。

始めた時はもう91歳でしたし、「母は50歳、父は57歳、姉は66歳で死去」という短命の家系でしたから、自分がこれほど長く生きられるとは思っていなかった。

死に支度』を書いてから、知り合いの人が死ぬこと、死ぬこと。どんどん周りの人が死ぬんですね。

今年の1月末に、作家の河野多恵子さんが亡くなられました。

河野さんは、占いが好きで、しょっちゅう私のことを占ってくれましたよ。私のほうが4歳年上でしたから、河野さんは「あなたのほうが先に死ぬのよ。それに、あなたはそそっかしいから、寝床では死なずに、立ったまま歩きながら死ぬわ。でも、死んだら私が見送りの段取りを全部してあげる」といつも言ってくれました。そうしたら、向こうが先に死んでしまった。驚きましたよ。

私も病気でしたから、河野さんとはしばらくお目にかかっていなかったけれど、向こうからしょっちゅう電話がかかって来ました。

しかも、あの人は耳が遠くなっていたから、こっちの言うことを何も聞かない(笑)。話す内容も、若い頃のことや、嫌いな作家の悪口だとか、いつも決まって同じ内容なんです。それでも河野さんと話すのは楽しくて、1時間や2時間は当たり前でした。うちの秘書が測ったら、一番長い時は、4時間半も話していたそうです。

同じことばかり話していたから、「河野さんはもしかして認知症なのかしら」と思っていたけれど、最後まで彼女の書く小説は素晴らしかった。頭の中がどうなっているのか分かりませんが、あの人の場合は、普段と書く時とでは違うところを使っていたんでしょうね。

人間は「忘れる」生き物です

河野さんと同い年だった作家の宮尾登美子さんも、昨年末に88歳で亡くなったばかりでした。

長生きするということは、たくさんの大切な人と別れるということです。

いままで何人もの知り合いを見送ってきたけれど、大体そういう人は病気の時からお見舞いにも行っているから、覚悟はできています。

でも、やはり死なれ時は悲しいものです。何度経験しても悲しい。私もいろんな人に相談されますが、親しい人が亡くなれば、悲しみや辛い思いがあるのは当然です。不思議といい人ほど早く亡くなりますしね。それを乗り越えるには、やはり時が必要なんです。

京都には「日にち薬」という言葉があります。どんなに悲しいことでも、どんなに苦しいことでも、人間は忘れるんですよ。朝から晩まで泣いていたのが、ふとある時「今朝は泣かなかった、思い出さなかった」と気づく。また何日かすると「今日はお昼になっても思い出さなかった」という状態になり、さらに日が経てば「今日は一日中、思い出さなかった」となって、悲しみを受け入れることができる。

だから、忘却ということは、非常に罪なことではあるけれど、ありがたいことでもある。人間は辛いことは忘れられるんです。それで、よかった記憶だけ心の中に残る。私は法話で、いつもこのようにお話ししています。

もう一つ女性からよく聞かれるのは、「あの世で主人が自分のことを分かってくれるだろうか」という悩みです。たとえば、7年前にご主人を亡くしたという女性の場合、ご主人は7年前のままですが、その女性は7年ぶん歳を取っているわけです。その女性に「あの世で逢った時に、こんなに歳を取った顔を見て、主人は私だと分かるだろうか」と聞かれました。

私もあの世へ行ったことがないので分からないのですが、そんな時は「向こうの世界では魂だけですから、顔なんかどうでもよくなります。あなたが行ったらすぐにご主人が寄ってきますよ」と答えます。そうするとみんな「ああ、よかった」と安心するんです。

葬式についても相談されることがあります。

「葬式なんて面倒くさい。こんなことしないですめばいいのに」と思っている人は、しないでいいと思います。心のこもらない葬式なんてしてくれても死んだ人が喜ぶ筈がありません。お墓を建てるのがいやだと言って海や野原に骨をまく人が多くなってきました。亡くなる時にそう遺言する人も出てきています。

私自身について言うと、天台宗の僧侶なので葬儀は天台宗に則って行われることになります。

■お墓ももう決めてあります。以前住職を務めていた岩手県二戸市の天台寺に200基作ったんですが、そのうちの一つが私のものです。全部同じ形で、横長の長方形の墓石の表面に、それぞれ好きなことを彫ることができるんです。生前に音楽が好きだった人は楽譜を彫ったり、詩が好きだった人は詩を彫ったりしています。私の墓石に刻む言葉は「愛した、書いた、祈った」にする予定です。

お墓一つが土地付きで45万円。もちろん墓石に字を彫る値段も込みです。

「寂聴さんと一緒に眠ろうかな」と言って買う人もいたようですね。なかにはすでにお墓があるのに、「そこに分骨する」と言って新たに買い足す人もいました。日本一安いお墓だと思いますが、それでもお寺は損はしないんですよ。いまのお墓の相場だと最低でも一基300万円くらいですから、いかにお寺が儲けているかが分かります。自分でお墓を作っていくうちに、つくづくそう思いましたよ。

私は最近流行っている散骨など、伝統的でない弔い方について、決して反対しません。

もちろん私は仏教の僧侶ですから、世の中がそういったものばかりになるとお寺が困ります。でも仏様を信じないのであれば、好きなようにしたらいいんです。

宇野千代との会話

お墓は、死んだ人のためではなくて、生きている人のためのものです。お墓参りに行けば、亡くなった人に話しかけることができますからね。

火 葬場で焼かれれば肉体は無くなってしまいますが、魂は残ると思っています。これは出家したから思うのではなく、実感として思うんです。なぜなら、仲がよ かった人や肉親については、死んでも忘れないでしょう。人間というのは、辛いこと、悲しいことは忘れるけれども、好きだった人のことはいくらでも思い出せ るんです。そうして思い出して話しかけることができるということは、「存在している」ということですよ。

だから、魂はあると思うんです。死 んだ人の魂というのは、この世で愛した人が幸せになることを願ってくれています。たとえば、残された未亡人が再婚して幸せになることは何も悪いことではな い。死んだ人をいつまでも思ったままで悲しみから抜け出せないよりも、新しい人と恋愛して幸せになったほうがいいんです。

作家の宇野千代さんも98歳で亡くなる最後まで恋愛をしていました。

宇野さんが88歳の時に『婦人公論』で対談をしたんです。私が「女は同時に何人もの男と付き合える」と言うと、宇野さんが「そうよ。何人でも付き合えますよ。寝る時は一人ずつですから」と答えてくれました。あの時は本当に吹き出してしまいましたよ。

その対談の際、聞けるうちに何でも聞いておこうと思っていろいろ質問しました。それで、宇野さんの経歴の中から文学関係の男たちの名前を書き出して、「先生、この人についてはどう思いますか」と言って名前を一つずつ指差すと、宇野さんが「寝た」と言うの(笑)。

そんなことを聞くつもりではなかったんですが、別の人を指差して「先生、この人とは」と聞くと、「寝ない」と言うんです。「寝た」「寝ない」で迷わず選別していって、小林秀雄さんのところに来たら、急に黙っちゃった。

それで、「先生、小林さんは」と聞くと「寝たとも言えない、寝ないとも言えない」と言うんです。

「それって、どういうことですか」と確かめると、「雑魚寝だったから、うまくできなかったの」と言うんです(笑)。文壇のお歴々を「寝た」「寝ない」で片づけちゃう。しかも、そこで挙げた男たちの半分以上とは「寝た」と言ってました。面白い人でしたね。

宇野さんは、98歳で亡くなりましたが、死ぬ前に「なんだかこの頃、私は死なないような気がする」と言いだして、そのすぐ後亡くなられました。

私もこの間、何気なく「私は死なないんじゃないかな」と言ったら、宇野さんの話を知っているうちのスタッフたちに、「そんなこと言わないでください」と叱られました(笑)。

孤独死は「かわいそう」か

恋愛だけじゃなくて、セックスだってできるならしたほうがいいですね。70歳の人でも相手のいる人はセックスしていますよ。

身の上相談でも、セックス関係の話題は多い。70歳くらいのお金持ちの女性から、50歳前後の男にカネを巻き上げられたという相談をされたことがあります。

最初は、その女性も喜んでおカネを出していた。ところが、しばらく経ってみると騙されたことに気付いて、私に泣きついてきた。

私は彼女に「でも、あなたもいい思いしたでしょう。誰が70歳のばあさんを抱いてくれますか。おカネなんてくれてやりなさい」と言ったんです。いくらおカネを持っていても、それを持ってあの世には行けないんだからいいじゃないですか。

年配の人たちの性関係の悩み事というのは、昔からありました。自分の身の回りの人には言えないことでも、出家している私には「この人なら分かってくれる」と相談できるのでしょう。

最 近では、女性のセックスに対する考え方がオープンになってきていますね。いまの若い女の子たちと中高年ではセックスに対する考え方が全く違う。若い女の子 たちには「貞操」という観念がないんです。この前も、「貞操って何ですか」と聞かれましたよ。だから、「あなたみたいに誰とでも寝ないことよ」と言うと 「どうしてそれがダメなんですか」と言うんです。みんな堂々としています。

100年前に平塚らいてうが『青鞜』という雑誌を作って、「女も男と同じように自由であるべきだ」と理想を掲げましたが、それがいま実を結んでいるのではないでしょうか。

私はいまのようにセックスがオープンになったことについて、頭ごなしに「いけません」と言わないほうがいいと思うんです。

学校で道徳を振りかざして「セックスはいけない」と禁止しても仕方ありません。自分で経験して、ひどい目に遭って覚えるのが一番いいんですよ。セックスも自由でなければ、本物の自由とは言えないんです。

死に方についても同じです。世間では「孤独死はかわいそう」という風潮がありますが、私はおかしいと思う。死んだ本人に聞いてみないことには、本当にかわいそうかどうかは分からない。

一人で死ぬというのは、実はとてもさっぱりすることなのかもしれない。

一人の生活が慣れている人にとっては、その生活の中で死ぬんですから、それでいいじゃないですか。私は孤独死したいですよ。ペンを握ったまま、原稿用紙が載った机の上に突っ伏して死んでいるところを発見されるんです。

朝、秘書の子たちが来て、私を見て起こそうとするんだけど、動かない。それが私の理想の最期なのです。

以上の抜粋もとは  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43010

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瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年大正11年)5月15日 – )は、日本の小説家天台宗尼僧。旧名は瀬戸内 晴美(せとうち はるみ)。

僧位大僧正1997年文化功労者2006年文化勲章学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位文学士(東京女子大学)徳島県徳島市名誉市民称号を取得。京都市名誉市民。元天台寺住職現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。近年[いつ?]では『源氏物語』に関連する著作が多い。これまでの著作により多くの文学賞を受賞した。

経歴[編集]

徳島県徳島市塀裏町の仏壇店瀬戸内商店)を営む三谷家の次女として生まれ、後に父が従祖母の家である瀬戸内家養子となり、女学校時代に晴美も瀬戸内に改姓。

東京女子大学在学中の1943年に21歳で見合い結婚し翌年に女の子を出産、その後夫の任地北京に同行。1946年に帰国し、夫の教え子と恋に落ち、夫と3歳の長女を残し家を出て京都で生活。

大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。1950年に正式な離婚をし、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。少女世界社ひまわり社小学館講談社で少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。なお長女とは後年出家後に和解したという。

1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、同年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。この時期の不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞も大衆文学の賞も受賞しなかった。1992年一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。『源氏物語』の現代語訳でもその名を知られている。

修道女を志すも過去の行状から断念した。[要出典]1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗得度、法名を寂聴とする(戸籍上の氏名は、1987年に天台寺住職となった際に瀬戸内寂聴に改名)。翌年、比叡山で60日間のを経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。

麻薬で逮捕された萩原健一の更生に尽くしたことや、徳島ラジオ商殺し事件の再審支援などの活動でも有名。山岳ベース事件等で死刑判決を受けた永田洋子とは、永田が獄中で出家して瀬戸内に手紙を書いたことから文通し、控訴審でも証人となった。永山則夫連続射殺事件で死刑執行された永山則夫とも親交がある。また、脳死による臓器移植にも反対している。1991年2月に湾岸戦争の停戦を祈って7日間の断食を行い、4月には救援カンパと故郷徳島の大塚製薬寄付の薬を持ってイラク訪問。同時多発テロの報復攻撃にも抗議し、短期間のハンガーストライキを決行した。また原子力発電にも反対の立場であり「反原発運動に残りの生涯は携わりたい」とインタビューで述べている。

上記のように進歩的文化人的な政治信条を持つが保守系論壇である文藝春秋にも度々寄稿している。また石原慎太郎稲盛和夫などの保守的文化人とも対談集を発刊するなど面識があった。

2005年には、瀬戸内を主人公としたテレビドラマ女の一代記』が放映された。この中でも、東京に住みだした後[いつ?]、二人の男性と恋愛関係にあった、と語っている。僧侶になったあとは男性との関係をいっさい断っているという。

地方講演などでは主に「笑うこと」が大切であるということを説き、座右の銘は「生きることは愛すること」だという。2007年8月11日、館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目が大部分見えなくなったことを明かした。

「金を取る宗教は偽物」を自らの持論としている。平野啓一郎を「豊潤な才能」と評し、金原ひとみの『蛇にピアス』を「(谷崎潤一郎の)『刺青』が霞んで見える」と評した。

2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」にて、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。ペンネームや登場人物の名前の大半に、瀬戸内が長年携わってきた源氏物語関連からの引用が見られる(「パープル」は「紫式部」・主人公の恋人の「ヒカル」は光源氏、など)。

2012年5月2日脱原発を求める市民団体国有地にも関わらず無許可で設置した経済産業省本館前テント(不法占拠状態)の中で、脱原発を求めて決行したハンガーストライキに参加。ハンガーストライキは日没まで行われた[1]

以上はwikiより抜粋

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E5%AF%82%E8%81%B4
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